●6-12A1 放課後の神社――本名縫合、そして放送回路の“反撃”
放課後の鐘が鳴った。
普通ならその音はただの区切りだ。
授業が終わる合図。部活が始まる合図。
日常が形を変えるだけの音。
けれど今日の鐘は、わたしの胸の奥で別の意味を持った。
(夜の入口だ)
日が落ちる前に神社へ。
神社の結界がまだ薄く生きているうちに、“縫合”を終える。
わたしは廊下の人波に紛れて歩いた。
わざとりいなに絡まれて、わざと軽口を叩いて、わざと笑う。
「灯子、神社行くんだっけ? え、なに? 恋愛成就?」
「成就してたら今頃ここにいない」
「悲しいこと言うなよ!?」
「悲しいのはそっちの脳内設定だよ」
りいなのツッコミが周囲の笑いを誘う。
笑い声が結界になる。
わたしはその結界の中で、首元の刻印を指で押さえた。
刻印は朝より熱い。
神社で縫合をしたせいで回路が“開いた”まま閉じていない。
『……おねえちゃん……
ひる……おわる……
きこえやすく なる……』
「うん」
返事を短く切った。
言葉は少ないほどいい。
音の粒を撒かないために。
そして、約束の一年生――“すず”が昇降口で待っていた。
制服の袖を引っ張る癖。
羽形のヘアピンは髪に戻っている。
それだけで少しだけ安心した。
(持ち物が戻る。日常の糸が戻る)
「……先輩」
「来てくれてありがとう。怖くない?」
「……ちょっと、怖いです。
でも……先輩がいるなら」
その言い方が、わたしの胸を刺した。
頼られることが怖い。
頼られるということは、名前を預けられるということだ。
わたしは笑顔を作った。
「大丈夫。怖かったら、笑っていい」
「え……笑うんですか?」
「笑う。
怖いときこそ笑うと、向こうが嫌がる」
すずは困ったように笑った。
その笑いが小さな護符みたいに空気を軽くした。
*
拝殿裏の小部屋。
引き戸を開けると、墨の匂いと塩の匂いがした。
神職の女性がすでに準備を整えていた。
「来ましたね。……一年生の方?」
すずが小さく頭を下げる。
「は、はい……」
神職の女性は柔らかく頷いたが、その目は鋭かった。
すずの影を見ている。
影の輪郭のどこが薄いか見ている。
「……下の名前が欠けていますね。
でもまだ、日常の糸が残っています。間に合う」
わたしは鞄からカードの“材料”を取り出した。
現実の紙ではない。
メモと記憶と観察と、推理スロットで固定した断片。
一年二組名簿:鈴木(下の名欠落)
呼称:すず
羽形ヘアピン
筆跡(欠けたメモ)
貸出傾向(校史/旧式放送機材)
神職の女性が頷く。
「十分です。
ただし――ひとつだけ確認します」
女性はすずに向かって静かに訊いた。
「あなたは、自分の下の名前を“思い出したい”ですか?」
すずは唇を噛んだ。
怖い。
でも、頷く。
「……はい。
思い出したいです。
思い出せないの、すごく……気持ち悪いから」
その「気持ち悪い」が穴の正体を示していた。
名が欠けると人は自分の輪郭を失う。
それは恐怖よりも、もっと生理的な不快だ。
女性はわたしを見る。
「灯子さん。あなたは――
この子の名を“返す側”になります。
ですが、返すほどあなたの刻印は強く反応します。
黒幕に見つかりやすくなる」
わたしは迷わず頷いた。
「見つかっていい。
見つけたら、逆に引きずり出す」
神職の女性がほんの少しだけ目を細めた。
決意を測る目。
「では始めます。
声は最小限。返事は禁止。
“名”が鳴るとき、飲み込んでください」
すずが小さく息を呑む。
わたしはすずの隣に座った。
畳が冷たい。
冷たいのに、安心する。
神社の冷えは地下の冷えとは違う。
『……おねえちゃん……
ここ……すこし まもる……』
紗灯の影がわたしの影にそっと重なる。
縫い目を作るように。
神職の女性が盆の上に紙を並べた。
白い紙、墨、塩。
そして――空白の札。
札の中心は抜けている。
名を喰われた穴。
「穴は消えません。
穴を穴として受け入れ、その周囲を縫います」
女性はまず、「鈴木」と名字を書いた。
それは書ける。名簿に残っている。公的な輪郭。
次に、呼称を置く。
「“すず”」
その二文字を書くとき、紙が少しだけ湿った。
墨が妙に滲む。
(呼称は日常の糸。糸は湿る)
女性は次に羽形のヘアピンを盆に置いた。
すずが反射的に手を伸ばしそうになり、やめる。
「触らないで。
“持ち物”はあなたの影と繋がっています。いま触ると引かれる」
すずがこくりと頷く。
その頷きが小さすぎて、逆に怖い。
女性は筆跡メモを開いた。
欠けた文字の線だけを拾う。
「……放送……古い……」
女性は目を伏せる。
「この子は放送回路に触れています。
つまり、原初札の導線に“名”を擦られた」
刻印がひやりと冷える。
(放送回路が反撃してくる)
女性はわたしに小さな紙を渡した。
そこには一文字だけ書かれている。
”縫”
「これを、あなたの指で押さえて。
あなたの刻印が糸になります」
わたしは紙を指先で押さえた。
その瞬間、首元が焼けるように熱くなった。
(きた……!)
神職の女性が祝詞を短く唱える。
声は風のように軽い。
音の粒を残さない。
盆の上の紙がふわりと浮いた気がした。
紙の端が震える。
まるで紙が呼吸しているみたいに。
すずが小さく身を縮める。
「……怖い……」
わたしは笑って言った。
「怖いなら、笑う。ほら」
すずは泣きそうな顔で、でも笑った。
くしゃっとした笑い。
その笑いが神社の空気を少しだけ柔らかくする。
女性が言う。
「いい。
日常が戻っています。
――次、下の名前の輪郭を引き上げます」
指先に糸が絡む感覚がした。
見えない糸。
でも確かに、引ける糸。
わたしは心の中で推理スロットを立ち上げる。
夜ほど派手じゃない。
でも今は“儀式型推理”が必要だ。
材料を三つ意識に並べる。
A:一年二組名簿:鈴木(下の名欠落)(SR)
B:呼称:すず(R)
C:筆跡(欠けたメモ)(R)
回転。
回転の中心に、空白の穴。
穴の周囲で糸が集まる。
【縫合推理:結果】
・下の名は「○○」二音の可能性が高い
・“すず”は下の名の頭音と一致しない
・欠落は“下の名の終端”から喰われている
・復元には「本人の記憶トリガー」か「友人の呼称」が必要
【提案】本人に“書かせる”のではなく、“聞かせる”
(聞かせる……)
神職の女性が頷くように言う。
「呼称をあなたの口で“形だけ”示します。
ただし、名前を直接言ってはいけない。
言えば回路が鳴る。回路が鳴れば喰われます」
喉が乾く。
(言葉は危険。でも、導く必要がある)
女性はすずに向かって静かに指示した。
「あなたが“自分の名前だ”と思う音が聞こえたら、
頷くだけ。返事はしない。声は出さない」
すずは頷いた。
頷きは“返事”になりにくい。
だから許される。
神職の女性はわたしに小さく囁く。
「灯子さん。あなたは“音”を出すのではなく、
“輪郭”を出してください」
(輪郭……)
わたしはすずの羽形ヘアピンを指で示し、短く言った。
「――羽」
次に、校史の本を示すように言う。
「――史」
最後に、すずが放送室で好きだったという“機械音”を示す。
「――音」
単語の羅列。
名前ではない。
でも“日常の断片”の輪郭。
すずの瞳が揺れた。
何かが引っかかった顔。
神職の女性が空白の穴へ糸を通す。
わたしの刻印が引かれる。
名の端が少しだけ伸びる。
『……おねえちゃん……
いま……
ひっぱる……』
紗灯の影がわたしの影を押す。
縫い目を補強する。
すずの口が勝手に開きかけた。
「……わ、たし……」
背筋が冷えた。
(返事になる。止めろ)
わたしはすずの手を軽く握った。
握ることで声を喉に戻す。
声の代わりに温度を渡す。
すずは息を飲み込み、頷いた。
その瞬間。
――校内放送が神社の外から響いた。
「放送委員よりお知らせです。
本日の清掃当番は――」
日常の放送。
なのに、その音が神社の結界を薄く叩く。
次の瞬間、音が擦れた。
「――……す……ず……
こっち……」
すずがびくりと震えた。
顔が青ざめる。
「……今……聞こえました……
私の……」
刻印が焼ける。
神社の結界が波打つ。
(反撃だ。放送回路がここまで伸ばしてきた)
神職の女性が低く言った。
「……来ています。
“名の拡声器”が、神社を叩いている」
盆の上の空白の札がぬるりと脈打った。
穴が開き直そうとしている。
わたしの喉の奥にあの禁忌の囁きが触れた。
……とうこ
(返事しない)
声を殺し、心の中でだけ名を握る。
(汐見、灯子)
神職の女性が塩をひとつまみ札へ落とした。
「封じます。
灯子さん、あなたは“縫う”。私は“封じる”。
――二つ同時にやらないと喰われます」
わたしは頷いた。
頷きだけ。声は出さない。
女性は短い祝詞を唱え、札を折る。
折り目が穴を塞ぐ形になる。
折るたび、紙が軋む。
紙の軋みが呻きに似る。
わたしは同時に、すずの影の輪郭へ糸を通す。
刻印が引かれる。
痛い。
でも、痛いのは生きている証拠だ。
すずの瞳が急に揺れた。
涙が溜まる。
「……思い出しそう……でも……こわい……」
わたしは笑って言った。
声は小さく、短く、輪郭だけ。
「怖いなら、笑う」
すずが泣き笑いになった。
その瞬間、日常の糸が強くなる。
神職の女性が囁く。
「今。
“最後の二文字”を、あなたの内側でだけ拾って。
声に出さない。口で言わない。
でも、心で“肯定”する」
わたしは息を止めた。
すずの影から微かな音の輪郭が浮かぶ。
(す……ず……
……き……?違う。名字は鈴木。
下の名前――)
輪郭がふっと形になる。
その瞬間、すずが頷いた。
頷きが強い。
頷きは“これだ”という肯定。
わたしはその輪郭を糸で縫い付けた。
縫い付けた瞬間、すずの影の頭部の霧がすっと薄くなる。
輪郭がほんの少しだけ人に戻る。
そして、すずの口が震えた。
声が出そうになる。
返事になりそうになる。
わたしはすずの手を握り、首を横に振った。
(言うな。言ったら喰われる)
すずは涙をこぼしながら、頷いた。
声を飲み込んだ。
盆の上の札が最後に一度だけ脈打ち――静かになった。
神職の女性が深く息を吐く。
「……縫合、第二段階まで完了。
本名は……まだ完全には戻っていません。
でも、“穴”は塞がりました。
これで放送回路の拡声器は、あなたを一気に喰えない」
刻印がまだ熱い。
熱いのに、少しだけ軽い。
視界にUIが浮かぶ。
【縫合:進行】
・鈴木(下の名):輪郭復元(仮)
・呼名混入:弱体化(対象保護)
・影落ち進行:微増(縫合負荷)
・放送回路:反撃確認(神社まで到達)
【次の課題】
・本名確定には「友人の口」または「本人の記録(写真/署名)」が必要
・透子の導線遮断(放送室裏の原初札対処)を優先
すずは泣きながら笑った。
「……私、なんか……
“自分”に戻った気がします……」
わたしは笑顔で頷いた。
声は出さない。
声を出したら今の輪郭がまた揺れる。
そのとき、拝殿の外で木の影が揺れた。
風は吹いていない。
『……おねえちゃん……
みてる……
あっち……』
神職の女性が低く言った。
「……透子がここに来たわけではない。
でも、回路が“こちらを見た”。
黒幕は神社の位置を掴み始めています」
わたしは心の中でだけ笑った。
(いい。見つけたなら、引きずり出す)
でもその笑いは”氷”だ。
温度のない笑い。
わたしはすずを立たせ、肩に手を置いた。
日常の温度を渡すように。
「今日は帰ろう。
夜がまだ、来ないうちに」
すずは頷いた。
返事はしない。
頷きだけで日常へ戻る。
神職の女性がわたしに小さな札を渡した。
折り目のある薄い札。
中心に空白があるが、塩で縁取られている。
「“名の防壁”です。
あなたの刻印が強くなりすぎたら、これを握って。
返事をしそうになったら、これを噛むくらいのつもりで」
札は冷たい。
冷たいまま、掌に馴染む。
(次は放送回路。透子の導線。原初札。
神社が叩かれた以上、時間がない)
わたしはすずと並んで夕暮れの境内を歩きながら、胸の内で名を握った。
(汐見、灯子)
返事はしない。
名は渡さない。
そして――奪われた名は取り返す。




