●6-9A1 封印者の手、欠けた名の縫合――そして透子の置き土産
救出した影はまだ人の形に届いていなかった。
輪郭はある。
足もある。腕もある。
けれど頭の上半分が霧みたいに欠けている。
名前が欠けているのは”顔”が欠けるのと同じだ。
わたしは息を吸った。
喉が乾いている。
この乾きは恐怖だけではない。
名を守るために声を殺し続けた乾きだ。
『……おねえちゃん……
そのこ……
まだ ひっぱられてる……』
紗灯の影がわたしの足元で小さく震える。
確かに、救出した影の足元からは、床の紋様へ繋がるような“糸”が薄く伸びていた。
見えないはずなのに見える糸。
見えてしまうほど、儀式が近い。
(このまま保健棟へ連れていっても、切れない。
むしろ日常圏へ引きずり込めば欠落が拡散する)
脳裏に神社の拝殿を思い出した。
欠けた御札。空白の神名。
“封印者”の言葉。
──影を分けるための儀式。
──名前と影の調整。
(調整できるのは神社側だけだ)
わたしは救出した影に囁くように言った。
声は低く、短く。音を立てないように。
「大丈夫。今、縫うから」
影がかすかに震えた。
……す……ず……
わたしはすぐ、メモの「鈴」の字を影の胸に押し当てた。
輪郭を固定するための仮名。
それが今の命綱だった。
「そのまま。喋らないで」
影は喋れない。
喋ろうとすると、喉の代わりに空白が鳴るだけだ。
わたしは通路を早足で進んだ。
走らない。走れば視線が集まり、日常の境界が崩れる。
日常の境界が崩れれば、怪異は開く。
出口へ。旧資料室の扉へ。
扉の向こうに、まだ夕方の校舎がある。
扉を押し開けた瞬間――
わたしは“音”に殴られた。
帰宅する生徒の笑い声。
靴の音。
教室から漏れる雑談。
日常の騒音が、逆に怖い。
(この中に、欠落を持ち込めない)
人気のない階段へ回った。
神社裏手へ続く外廊へ出る。
そこは音が少ない。
少ないけれど、まだ“人の世界”の空気がある。
その薄い境界が、いまはありがたい。
『……おねえちゃん……
あっち……
しんしょくのひと……』
「うん。封印者のところ」
*
拝殿裏の小部屋。
扉を叩くと、すぐに中から足音がした。
「……灯子さん?」
神職の女性が顔を出し、救出した影を見るなり息を呑む。
「……これは……
“器の生成工程”の途中……!」
わたしは短く頷いた。
「戻せる?」
女性は一度目を閉じ、深く息を吐いた。
「完全に戻すには時間が要ります。
でも、欠落の進行を止めることはできます。
……ただし、条件があります」
首元の刻印がじくりと疼いた。
「条件?」
女性はわたしの首元を見た。
視線がそこに吸い寄せられるのが分かった。
「その刻印……。
あなたは“器”としての回路を持っています。
縫合の際、あなたの名が一部、糸として使われる」
(わたしの名が、糸に)
わたしは躊躇しなかった。
「いい。やって」
女性は驚くほど速く準備を始めた。
小さな盆。白い紙。墨。糸。塩。
そして古い御札――神名が欠けている札。
「ここに座ってください。
妹さんは……」
『……ここ……』
紗灯の影がわたしの足元に重なる。
影が“座る”ように沈む。
女性は影に向かって小さく頭を下げた。
「……お嬢さん。
あなたは、まだこちら側に繋がっていますね」
紗灯が微かに頷いた気配がした。
女性は救出した影――仮名「鈴」の影へ向き直る。
「あなたは“名の輪郭”を失っています。
だから、まず輪郭を作る。
次に、呼び名の糸を縫い付ける」
喉が乾く。
呼び名の糸、という言葉が怖い。
呼び名は奪われるものだから。
女性は墨をすり、紙に一文字ずつ書いた。
”鈴”
わたしが書いた字よりも細く、硬い。
神社の字だ。儀式の字だ。
そして次に、女性は空白の札を手に取った。
札の中心は抜けている。
神名が欠けている札。
「この空白は“名前を喰われた穴”です。
穴は穴として残る。
……だから、穴に糸を通す」
女性は糸を取り、札の空白のあたりに針を通した。
針が紙を破らない。
紙が布みたいに受け入れる。
背筋が冷えた。
(札が“紙”じゃない。
これは……名を吸った媒介そのものだ)
女性は針に糸を通し、救出した影の胸元へ“鈴”の札を当てた。
そして、影の輪郭に沿って糸を縫うように動かす。
影が震えた。
苦しいのか、怖いのか、分からない。
でも確かに、“生きたい”という抵抗がある。
わたしは影に声をかけない。
声は危険だ。
代わりに、自分の名を心の中で唱える。
(汐見、灯子)
その瞬間、首元の刻印がひやりと冷たくなった。
女性が囁く。
「……糸が、あなたの名に触れています。
抵抗しないで。名を強く握って」
わたしは目を閉じ、名を握る。
握るという感覚が分かる。
名は概念なのに、いまは指先のものみたいに感じる。
糸が引かれる。
わたしの名の端が、ほんの少しだけ伸びる。
(削られる……?)
違う。
削られているのではなく、分けている。
自分の名の一部を、糸として差し出している。
救出した影がかすれた声を漏らした。
……すず……き……
肺が止まりかけた。
(“き”が出た……!)
だが女性がすぐに紙を重ねる。
その声を封じるように。
「いい。そこで止める。
“呼び名の輪郭”だけで十分」
影の輪郭が少しだけ濃くなった。
頭の欠けが霧から薄い形へ変わる。
わたしの視界にUIが浮かぶ。
【縫合:成功(暫定)】
・欠落深度:中 → 低(固定)
・呼名の自動発話:停止
・影の糸:一部切断
・灯子の刻印:活性(増)
【注意】縫合は“仮”――本名の復元には追加情報が必要
(本名の復元……追加情報……)
わたしは神職の女性を見る。
「追加情報って?」
女性は少しだけ顔をしかめた。
「本名は本人の“日常”に紐づいています。
家族、友人、呼び方、持ち物、癖、記録。
……それが欠落の穴を塞ぐ材料になります」
(つまり、学院の中でその子の“日常の断片”を集める必要がある)
ゲームでいう収集要素。
推理カードの素材になる。
わたしは頷いた。
「分かった。
この子は……ここで守ってもらえる?」
女性は静かに言った。
「守れます。ただし、長くは無理です。
黒幕が気づけば、神社も安全ではなくなる」
胃が沈む。
(透子……。早く尻尾を掴まないと)
*
拝殿を出る直前、わたしはポケットの中の媒介札の破片を思い出した。
部屋の外で拾った朱の欠片。
それを盆の上に置く。
「これ、透子が撒いてた。読めない」
女性は破片を見て顔色を変えた。
「……これは……“封印者系統”の札じゃない。
もっと古い。
神社より古い。
……学院の地下に元からあった札です」
(学院地下に元から……?)
女性は破片に塩を振り、短く祝詞のようなものを唱えた。
すると破片の裏に薄い文字が浮かび上がった。
わたしは読もうとして、視線が滑った。
文字が目に入らない。
“名”に関係する情報だからだ。
「読めない……」
女性が言った。
「読めないのが正しい。
これは“読むと削られる情報”です」
女性は破片を別の紙で包み、封じるように折った。
折り目に一文字だけ書く。
”封”
そしてわたしに渡した。
「持っていてください。
あなたは刻印がある。
これを“カード”として保持できる可能性がある」
受け取る。
紙が冷たい。
でも、持てる。
視界にカード化する感覚。
【証拠カード更新】
『媒介札破片:朱の導線』(SR)
追記:学院地下“原初札”由来。読むと欠落が進むため封印状態で所持。
(これで透子の導線の先が学院地下の“原初”に繋がってると分かった)
わたしは拝殿の外へ出た。
夕焼けの空。
日常の色。
でもその色がどこか薄い。
首元の刻印が再び熱を持つ。
まるで「縫合」をしたぶん、黒幕がこちらを強く認識したように。
『……おねえちゃん……
みられてる……』
「うん」
わたしは答え、笑った。
笑顔は日常の仮面。
でもその下で氷の怒りが揺れている。
(透子は逃げた。
でも置き土産を落とした。
そして黒幕は、学院地下の“原初札”を動かしてる)
(次は地下のさらに奥。
あるいは、放送室の裏――“日常設備”へ繋がる回路)
わたしは校舎へ戻る足を踏み出した。
踏み出した瞬間、背後の木々の影が――ほんの少しだけ揺れた。
風は吹いていない。
……とうこ
遠い呼名。
返事はしない。
ただ、名を胸の内側で握る。
(汐見、灯子)
そうしてわたしは日常へ戻る。
日常の顔をした戦場へ。
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