6-5 禁足地脱出と、学院で始まる代替儀式
禁足地から離れるほど、空気は軽くなるはずだった。
けれど、わたしの首元に残る刻印は──逆に熱を帯びていった。
皮膚の上で燃えるのではない。
皮膚の下、さらに奥。
自分の名前が存在している場所を、内側から爪でひっかくような痛み。
『……おねえちゃん……
はやく……かえろ……』
紗灯の影が、わたしの足元にぴたりと張り付いたまま離れない。
禁足地の円陣で一度離れかけたその影は今、必死に繋がろうとしている。
「うん。帰ろう」
言いながら、振り返らなかった。
振り返れば、そこに“呼ぶもの”がいる気がした。
そして、呼ぶものは必ずこう囁く。
──とうこ。
(返事はしない。絶対に)
息を吐いても、冷たくならない。
喉の奥に湿った鉄の味が残る。
禁足地を出たはずなのに、身体の一部だけがまだ境界に沈んでいるような感覚が続いた。
*
裏門が見えたとき、わたしはようやく肩の力を抜いた。
門の向こうには、いつもの白鷺女学院。
下校する生徒たちの声、スカートの裾が揺れる風景、誰かの笑い声。
(……戻ってきた)
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
裏門の影が門の形のまま“ねじれている”。
影は普通なら門に沿って地面に落ちる。
なのに今日の影は、門から離れ、蛇みたいに校舎の方向へ伸びていた。
『……ひっぱってる……』
紗灯の影が小さく呟く。
(影が……学院へ引きずられてる?)
その引力は禁足地とは逆向きだ。
つまり、黒幕は外にいるのではなく、学院の内部で“代替”を始めている。
(禁足地で取引を断った。
だから──学院の中で、代わりの儀式を回し始めた)
わたしは舌の裏で自分の名前を確かめる。
(汐見、灯子。汐見、灯子。汐見、灯子……)
反復は祈りに似ている。
これが必要になった時点で、もう普通じゃない。
*
玄関を抜けると、廊下は淡い夕方の色を帯びていた。
そして、そこに“薄い穴”があった。
床の一部だけ、影が落ちない。
参道で見た無影域ほど大きくはない。
靴一足分、あるいはノート一冊分。
でも、それは確実に同じ性質だった。
(……小型化してる。
禁足地の現象を、学院の廊下に持ち込んだ)
廊下の先で女生徒たちが集まっていた。
綾瀬みゆ、春川しずく、西岡ほのか、志藤りいな。
「あ、灯子! 遅くない? どこ行ってたの」
りいながいつもの調子で手を振る。
その明るさが逆に胸に刺さった。
この子たちは、まだ日常の上に立っている。
「ちょっと用事」
「今日の部活の掲示、見た? なんか名前のとこ変じゃない? 文字が……」
ほのかが眉をひそめる。
しずくが笑って誤魔化した。
「気のせいじゃない? 最近みんな疲れてるし」
みゆがわたしの顔色を見て声を落とす。
「……灯子、首……」
「……平気」
咄嗟に首元を隠した。
刻印は見せられない。
見せた瞬間、この子たちは巻き込まれる。
その時だった。
しずくが足を一歩ずらした。
そして──廊下の小さな無影域に、つま先が触れた。
「……え?」
しずくが瞬きする。
その影が、一瞬だけ薄く切れた。
『っ……!』
紗灯の影が弾けるように立ち上がり、わたしの影を押し広げる。
まるで壁になるみたいに。
(紗灯、守ってる……!)
わたしは反射でしずくの腕を掴み、無影域から引いた。
「ごめん、危ない」
「え? なにが……」
しずくは笑う。
笑っているのに、目がほんの一瞬だけ迷子になった。
「……わたし、いま……何しようとしてたんだっけ」
(記憶欠落の微小発作……
影の欠落は、記憶から始まる)
わたしの視界に、淡くUIが滲む。
【警告:代替儀式進行】
無影域(小)発生:校舎内
対象:一般生徒
影落ち進行:微増(自動)
(……勝手に増えるタイプか。
黒幕は学院そのものを回路にしてる)
*
皆と別れ、掲示板の方へ向かった。
わざと人の多い場所を通る。
影の異常は人が多いほど見えにくくなる。
日常のざわめきが怪異の輪郭をぼかす。
掲示板には部活ごとの参加者名簿が貼られていた。
(……見たくないけど、見る)
紙面の一角。
ある生徒の名前が薄くなっている。
線が欠けている。
読もうとすると、目が滑る。
(……これ、名簿の欠落と同じ。
対象の名前を”仮の空白”にしてる)
黒幕は禁足地で言った。
──器になる条件は三つ。
血縁の名前。影の共有。死の境界を越えた記憶。
(わたしと紗灯は特別枠。
でもそれ以外にも“器候補”を量産できる方法があるってことだ)
貼り紙の端にある小さな注意書きを見つけた。
※名簿の誤植がありました。
訂正:____
訂正欄が丸ごと空白になっている。
(……誤植じゃない。
訂正する名前が、最初から奪われてる)
ぞくり、と首元が疼いた。
刻印が返事をしているみたいに。
背後から、柔らかい声がした。
「……汐見、灯子さん」
呼び方が丁寧すぎて逆に不自然だった。
振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ生徒だった。
同じ二年。
制服の着こなしは端正。
髪は綺麗に整えられ、笑顔も“完成”している。
何より目を引くのは、その目だった。
人懐っこいのに、視線が冷たい。
視線の温度が合っていない。
(……この子、誰)
「はじめまして。……とは言わない方がいいのかな」
胸の奥が沈んだ。
声色に覚えがあるわけじゃない。
でも、空気が”知っている”。
(転入前の学校で、紗灯の周りにいた……)
わたしは笑顔を崩さずに返した。
「誰?」
「……あ」
相手の表情が一瞬だけ固まった。
すぐに笑みに戻る。
「ごめんね。私、自己紹介が遅かった。
篠宮 透子。二年。最近こっちに来たの」
同じ“とうこ”。
偶然には思えなかった。
むしろ、意図が透けるほど露骨だ。
(……名前を重ねてきた。
わたしの名前を揺らすために)
刻印が熱くなる。
紗灯の影がわたしの足元で牙を剥くように膨らんだ。
『……いや……
その なまえ……いや……』
篠宮透子はふわりと首を傾げた。
「ねえ、汐見さん。
最近この学校、“名前”が変だって噂、知ってる?」
言い方が軽い。
でも、その軽さが怖い。
まるで、相手が怖がるポイントを知った上で、わざと踏む声。
「……さあ」
言葉を短くした。
篠宮透子は微笑む。
「私ね、あなたのこと、前から知ってる気がするの」
(やっぱり)
背中が冷える。
この子は“加害者側”だ。
結とは違う。
救済される前提の弱さがない。
こちらを観察している目。
そして──篠宮透子の足元の影が、ほんの少しだけ“濃い”。
(黒幕の影が、もう触ってる)
透子は一歩近づき、囁いた。
「……あなたの妹さん、紗灯ちゃん、だったっけ」
その瞬間、世界の音が一段落ちた。
廊下のざわめきが遠ざかり、わたしの心臓の音だけが近づく。
(今、その名前を口に出すな)
わたしは喉の奥で血の味を噛み潰すように笑った。
「……よく知ってるね」
「うん。だって──」
透子が言いかけた瞬間、廊下の照明が一度だけ明滅した。
そして、その明滅の間にだけ、透子の影が増えた。
影が二本。
いや、三本。
(……影が三つ重なる瞬間。
この子が、代替儀式の“導線”……!)
紗灯の影がわたしの足首にしがみつく。
『……おねえちゃん……
ここ……だめ……
このひと……
ひっぱる……』
一歩引いた。
透子の笑みが、ほんのわずかに歪む。
「……逃げないで。
お話ししようよ」
(話すだけで危険。
この子は、わたしの名前を揺らす鍵になる)
明るい声を作った。
作るしかない。日常の顔を被るしかない。
「ごめん。今日は用事ある」
透子は肩をすくめた。
「そっか。じゃあまたね、汐見さん」
その言い方は親しげなのに、底が冷たい。
背中に刺さる視線が、長く残った。
*
角を曲がった瞬間、わたしは壁に手をついた。
息がうまく入らない。
(いま……紗灯の名前を出された瞬間、
わたしの中の何かが削られた)
首元の刻印がじくじくと疼く。
痛みが形を持ち始める。
視界の端にUIが浮かぶ。
【影落ち進行:微増】
トリガー:
・加害者側接触(推定)
・妹の名の強制提示
・影の三重化(短時間)
(……加害者を“媒介”にしてきた)
紗灯の影が小さく震える。
『……おねえちゃん……
だいじょうぶ……?』
「大丈夫。……大丈夫」
わたしは自分に言い聞かせた。
(ここからが“代替儀式”。
学院の中で器を増やしながら
わたしを削って、紗灯を奪う)
(そして、あの子……篠宮透子。
結以外の二人のうちの一人だ)
廊下の向こうに見えた夕焼けを睨んだ。
(逃げない。
でも、今は突っ込まない)
やるべきことは明確だ。
無影域(小)の発生場所を特定する。
“影が三つ重なる瞬間”の条件を潰す。
透子の背後(黒幕の糸)を切る
そして、もう一人の加害者を炙り出す
わたしは鞄の中のメモ帳を握りしめた。
ページの角に紗灯の走り書きが挟まっている。
(紗灯の真実はもう戻らない。
でも、奪われた“名前”は戻せる)
その時、校舎のどこかで金属が鳴った。
カン、と。
まるで鍵が落ちた音。
禁書の鍵の音。
見えない場所で“代替儀式”が、確かに回り始めていた。




