5-8 旧資料室の内部へ──封印の札と“名前を食う影”
旧資料室の扉は押すでも引くでもないのに、
手をかけた瞬間──
すっと、内側へ吸い込まれるように開いた。
(……鍵かかってなかったんだ)
外の光が細長く差し込み、
床に薄い長方形の明かりを作る。
だが、部屋の奥は光を吸い込むように暗い。
わたしはゆっくりと足を踏み入れた。
『……おねえちゃん……
はいらないほうが……』
「大丈夫。
紗灯がいるでしょ」
しかし、紗灯の影は
いつもの位置から半歩だけわたしの後ろへ下がっていた。
(紗灯が、前に出ない……?
ここ、相当危険だ)
旧資料室の中は
図書館とは違う空気が漂っていた。
古い木の匂い、
紙の乾いた匂い、
それに混じって──
(……墨が腐った匂い……?)
壁を見ると
びっしりと“札”が貼られていた。
だが、そのほとんどが破れている。
一枚は途中で裂け、
墨の文字が半分だけ読めた。
【封】
名……
影……
侵入……
(札の意味は……
“名前の侵入を封じる”……?)
札に近づくと、
ぴり、と空気が湿った。
『……おねえちゃん……
さわっちゃ……だめ……』
「触らないよ」
ただ見ているだけなのに、
札の破れ目が
まるで“笑っている”ように見えた。
部屋の奥。
わたしは気配に気づいた。
人影。
ただし──
“頭の部分だけが存在しない”。
(……!)
その影は
ゆっくりと書架の間を歩いていた。
足音はない。
影だけが床を滑るように動く。
(名前が欠けた影……!
これ、“儀式の失敗体”!?)
紗灯の影がわたしから離れ、
部屋の隅へ逃げた。
『……やだ……やだ……
あれ……ちがう……
しんでない……のに……しんでる……』
(紗灯が怯えてる……
あの影、生者でも死者でもない……
“名前を奪われかけた存在”だ……!)
影はうつむいたまま、
ゆっくりわたしのほうへ向きを変えた。
そして──
口がないはずなのに、
声だけが漏れた。
……なま……
な……ま……え……
かえ……し……て……
(“名前を返して”……!
やっぱり奪われたんだ……!)
影が一歩、わたしに近づく。
動きは遅いのに、
足がすくむほど恐ろしく見えた。
その影が床を踏んだ瞬間──
視界がにわかに白く揺れた。
(っ……!?)
胸の奥が冷たく痺れ、
脳のどこかが空白になる。
(……わたし……
“汐見灯子”……だよね?)
記憶の文字がにじむ。
名前の形が崩れる。
“汐見”の漢字が
頭の中から一瞬だけ抜け落ちる。
(だめ……
“名前”を奪われ始めてる……!)
膝が崩れそうになった瞬間──
ぱしっ!
紗灯影がわたしの足元へ戻り、
影を重ねてきた。
『……だめっ……
おねえちゃん……
わすれちゃ……だめ……!』
影がわたしの影に重なると、
視界が戻った。
(紗灯……ありがとう……!)
部屋の中央にある机。
そこに、一冊だけ開かれている古い本があった。
そのページには筆文字でこう記されていた。
【白鷺ノ祀】
一 名ヲ欠キ、影ヲ満タス
二 器ヲ定メ、名ヲ戻ス
三 影ノ名ヲ喰ラウ時──
神座、成ル
(……“名を欠き、影を満たす”……
これが第一段階……
今、学院で起きてることだ)
(次が……
“器を定め、名を戻す”
名欠戻……!)
喉の乾きを覚えた。
(黒幕は、
“誰かを器にして儀式を完成させる”つもり……!
もし紗灯が……)
ページの端がふっとめくれた。
そこには朱文字で上書きされていた。
【器:適合者】
※条件
・“姉妹ノ名”
・“同影ノ憑依”
・“死ノ境界ニ触レシ者”
(……それ、
完全に“わたし”じゃん……!)
背中に汗が伝う。
部屋の奥。
古い書架の裏に
隠すように階段があった。
降り口は真っ暗。
空気が重い。
(ここが……“地下層”……!
禁書室とは別の、封印された階)
一歩踏み出そうとしたとき──
階段の下から、
“巨大な影”がゆっくり立ち上がった。
人の形。
いや、人より大きい。
頭部はなく、
肩から上が煙のように揺れている。
……トウコ
今度は、はっきり呼ばれた。
耳ではなく、
頭の奥に直接響く声。
(呼ばれた……!?
返事したら終わり……)
紗灯影がわたしの影から離れ、
階段とは逆方向へ逃げる。
『……むりっ……!
あれ……しらない……!
わたしの……じゃない……!』
(紗灯が逃げる影……
これは黒幕そのもの……!)
巨大な影が
静かに手を伸ばした。
わたしの影が
じわり、と形を変え始める。
(だめ……!
このままだと“名前”が引き抜かれる……!)
咄嗟に胸の内で強く自分の名を呼んだ。
(わたしは──
汐見 灯子)
影が一瞬だけ揺れ、手を止めた。
……また、くるよ
そして巨大な影は
階段の闇に溶けて消えた。
静寂だけが残る。
ゆっくりと息を吐く。
(……ここに降りるのは、
“今じゃない”。
絶対に)
(中級推理では足りない。
次は──
禁書地下層に降りるための条件を集める)
紗灯影がようやくわたしの足元へ戻った。
『……ごめんね……
にげちゃって……』
「いいよ。
紗灯が怖いときは、ちゃんと逃げて」
影はちいさく頷いた。
(紗灯でも逃げる影……
黒幕の“本体”に近づいてるってこと)
旧資料室を振り返った。
(ここはまだ、
“前哨戦”にすぎない)




