5-1 寮の朝、影と目覚める灯子
目を覚ましたとき、最初に見えたのは天井ではなかった。
影だった。
ベッドのカーテン越しに差し込む朝の光が、床に落ちた影を薄く伸ばしている。
窓際から、机まで。
そこから、ベッドの下。
そして──ベッドの脇、壁際に、ひとつだけ「余分な影」があった。
(……おはよう、紗灯)
布団の中で、心の中だけでそっと声をかける。
壁に寄り添うように座り込んでいる、小さな影。
膝を抱えて、顎をのせて、じっとこちらを見ているような形。
紗灯の影。
昨夜、裏山で“ひとつの儀式”が終わり、
穴の主は消え、
結の影は人の影へ戻り──
残ったのは、わたしの足元に寄り添う「妹の影」だった。
(夢じゃないよね……)
上体を起こし、ベッド脇に足を下ろす。
床に落ちた自分の影と、紗灯の影が、柔らかく重なっていく。
足元に二重の輪郭。
よく見ないと分からないくらい、ささやかなズレ。
でも、わたしには分かる。
(いる。ちゃんとここにいる)
紗灯の影が、ちいさく「うなずいた」気がした。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
昨夜の裏山の冷たさが、ほんの少しだけ薄まっていく。
遠くでチャイムが鳴った。
寮の朝食の時間を告げる、規則正しい電子音。
(やば。のんびりしてる暇ないか……)
ベッドから立ち上がり、制服のハンガーへ手を伸ばした。
白いブラウス、蒼灰色のリボン、紺のジャンパースカート。
鏡の前に立つと、自分の顔が映る。
昨日までの「裏山と影の戦い」が嘘のように、
鏡の中の自分は、ちゃんと女学院の二年生・汐見灯子をしていた。
中性的な顔立ち。
学校内で、もうすっかり噂になった「転入生」。
(……この顔で、よくも夜中に影と殴り合ってたよね、わたし)
そんな自虐めいた冗談を心の中で小さく転がすと、
鏡の下で、影がくすりと笑ったように揺れた。
(紗灯、笑った?)
返事はない。
けれど、揺れ方が優しい。
わたしはふっと息を吐いて笑った。
「……よし。行こっか。二日目」
制服のスカートの裾を軽くはたき、リボンを整える。
寮の部屋の扉に手をかける前に、一瞬だけ立ち止まった。
(結──ゆいは、今、どうしてるかな)
裏山から戻る途中、意識を失った結は、
教師たちに見つからないよう、ひとまず「別の空き部屋」に運んだ。
表向きには「体調を崩した女生徒」ということにしてある。
真夜中に裏山で怪異に絡まれていた──などと、正直に言えるわけもない。
(あの子と、どう向き合えばいいか……
多分、今日一日じゃ答え出ないよね)
それでも、向き合わなければならない。
妹を追い詰めた子として。
同じ学校に通う生徒として。
そして──自分をずっと見ていた少女として。
胸の奥に、針の先みたいな痛みが残る。
(昼になったら、様子を見に行こう)
そう決めて、寮の廊下へ出た。
寮の廊下は朝の光と人の声で満ちていた。
バタバタという足音。
わあっと小さく上がる笑い声。
シャワー室の水音。
パンの匂い。
昨日の裏山とはあまりにも世界が違う。
「おはよー、汐見さーん」
同じフロアの子が手を振ってくる。
寝癖を無理やりピンで押さえた、のんびりした声の子。
「おはよ。今日はちゃんと起きられたんだ」
「うっ……昨日は二度寝しただけだし……」
何でもない会話。
ごく普通の、女子寮の朝。
ただ──わたしは、こっそりと“床”を見ていた。
すれ違う子たちの影。
その長さ。
その濃さ。
(……やっぱり、“ちょっとだけ”おかしい)
同じ方向から光が差し込んでいるのに、
影の長さが微妙に揃っていない。
ひとりだけ、影が短い子。
逆に、ひとりだけ、影が妙に長く見える子。
(影の長さって、時間と光源の位置で変わるはずだけど……
これは、そういうレベルじゃない)
わたしの影は紗灯の影が重なっているぶん、少し「濃い」。
それでも、長さは自然だ。
だが、廊下の角を曲がったところで、
ひとつだけ異様に細く、長い影が目に入った。
朝日とは逆方向に伸びている影。
(逆方向……?)
わたしはさりげなく足を止めて、そっとそちらを見た。
影の持ち主は、
寮の一階から上がってくる途中の一年生の一人だった。
顔はまだ覚えていない。
ただ、髪をひとつに結んだ、小柄な子。
その子の影だけが、壁のほうへ、
まるで「誰かに引っ張られている」みたいに伸びていた。
(これ……カードにしておいたほうがいいやつだ)
わたし視界の端で、
“見えないインターフェース”のような感覚が動いた。
【証拠カード取得】
『逆方向に伸びる影の一年生』
レアリティ:N
説明:朝の寮廊下で確認。光源と逆方向へ伸びる影。
備考:まだ怪異確定ではないが、“名前の歪み”の影響の可能性あり。
(こうして見ると、
ほんと、わたしの生活、ゲームっぽくなってきたな……)
苦笑しつつ、わたしは食堂へ向かった。
寮の食堂はすでに人でいっぱいだった。
トレーを持って並ぶ生徒たち。
焼き魚の匂い、味噌汁の湯気、
パン派とご飯派で列が分かれている。
わたしはパン派の列に並んだ。
「汐見さん、おはようございます」
隣に並んだのは、同じクラスの子。
名字は覚えている。
──はず、なのに。
(あれ……なんだっけ)
喉まで出かかって、
舌の上で名前がするりと滑った。
昨日までは呼べたはずだ。
教室で何度か話もした。
ノートも借りた。
(まさか、“わたしまで”名前が……?)
嫌な汗が背中を伝う。
「おはよう。……えっと……」
思わず言葉が詰まる。
その瞬間、胸の奥で紗灯の影が小さく揺れた。
『……おねえちゃん……
“かきやま”……』
ささやき声が耳の奥に届いた気がした。
(柿山……そう、柿山さん!)
「あっ、ごめん、まだ寝ぼけてた。柿山さん、おはよう」
柿山さんはちょっと驚いた顔をし、すぐに笑った。
「びっくりしました。
転入してきたばかりなのに、もう名字覚えててくれてたんだって。
ちょっと感動しました」
「いやいや、本当に寝起きで……」
わたしは笑ってごまかした。
だが、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。
(いま……紗灯が、教えてくれた……?
“名前”を……?)
スープをよそいながら、
わたしはこっそりと“内側のカード置き場”を確認した感覚になる。
【証拠カード取得】
『紗灯が補正してくれた名前:柿山』
レアリティ:R
説明:灯子が名前を忘れかけた瞬間、紗灯がフォロー。
効果:黒幕による“名前の歪み”への対抗手段になる可能性。
(黒幕は名前を消す。
でも、紗灯は名前を“戻そう”としてくれてる……)
その事実が、少しだけ心強かった。
パンとスープとサラダをトレーに乗せて席へ向かうと、
窓際の席から手を振る子がいた。
「とーこー!」
明るく、よく通る声。
どこか独特の間合いで突拍子もないことを言うタイプ。
ここのクラスで、灯子と最初に隔てなく話しかけてきた女子。
わたしは手を振り返しながら近づいた。
「おはよう。朝から元気だね」
「うん、元気ー。昨日なんか変な夢見ちゃってさ」
「夢?」
「うん。
なんか裏山で、おっきい影が“テスト全部廃止!”とか叫んでた」
「……それ、普通に羨ましい夢じゃない?」
「でしょ? 起きたらちゃんとテストあって泣いたけどね」
馬鹿みたいなやり取り。
でも、その軽さが今はありがたかった。
そんな会話の最中、
ふと、窓の外の中庭が目に入る。
朝の光を受けて、
制服姿の生徒たちが行き交っている。
地面に伸びる影は──
やはり、ところどころ、長さや濃さがおかしい。
(これは……放っておけないな)
パンを齧りながら、わたしは心の中で
“昼以降にやるべきこと”を整理し始めた。
食堂を出て、寮の玄関から学院へ向かう道は
白い塀と並木道が続いている。
鳥の声、朝の風。
きれいに整えられた校舎のシルエット。
(見た目は、本当に“お嬢様女学院”って感じなんだよね)
そう思いながら歩く。
ただ、その足もとで、影が二重に揺れている。
紗灯の影が、少しだけわたしの前を歩いているような形で。
(さて、と)
わたしは心の中に“スロット”を思い浮かべた。
夜の神社で使った、あの推理盤。
今は石畳も光もない。
けれど──頭の中なら、いつでも呼び出せる。
(ちょっと整理しよう)
今朝までに集めた証拠カードを三枚、仮想のスロットに並べてみる。
A:『逆方向に伸びる影の一年生』
B:『紗灯が補正してくれた名前:柿山』
C:『昨夜の儀式の名残り:裏山の静寂』
(……さすがに、これじゃ推理ロジックとしては弱いか)
まだ「黒幕=誰か?」までは行かない。
でも、ひとつだけ分かることがある。
(“名前”と“影”が、明らかに連動してる)
黒幕は“名前”を消すことで影を操り、
儀式の対象にしている。
紗灯は“名前”を覚えていることで、
その歪みを補正してくれる。
朝の寮と学院でのわずかな違和感。それだけで十分な材料だ。
【日中推理スロット:暫定結果】
・学院内の“名前の抜け”は進行中
・一部生徒の影の異常は、名前に紐づく
・裏山の儀式破壊は「一部」に過ぎず、本丸は学院側のシステム
(つまり──
この学校そのものが、まだ“儀式装置”として生きてるってこと)
校舎の正面玄関が見えてくる。
そのガラス扉に映る自分の姿。
その足元で二重に揺れる影。
(じゃあ、次は──
この学校の“記録”を洗わないと)
わたしは扉に手をかけた。
(図書館。
禁書。
昔の名簿。
儀式の記録。
……そして、左近さん)
まだ会ったことのない名前。
だが、儀式の構造から考えて、
必ずどこかで引っかかるはずの、学院で“黒い噂のある名前”。
胸元で、紗灯のヘアピンが小さく震えた。
『……おねえちゃん……
いこ……』
「うん。一緒に」
わたしは小さく微笑んで、
学院の中へ足を踏み入れた。
日差しは柔らかく、
廊下にはクラスメイトの声が絶えない。
それでも、
床に落ちた影たちは
どこか静かにざわめいているように見えた。




