4-3 影の境界と、紗灯の最後の逃走
裏山の奥へ進むにつれ、木々は歪みを帯び、
まるでわたしを押し返すように枝を絡ませていた。
風は無いのに、葉だけがざらつくように震える。
ず……
ず、ず……
ずず……
胸にしまった紗灯のヘアピンを握りしめる。
(紗灯……見てて。
わたし、全部見つける)
影は相変わらずわたしの背後に付いてきた。
近すぎず、遠すぎず──
「見ている」距離で。
そして突然──
紗灯の声が耳の奥でふっと滲んだ。
『……にげたい……
でも……にげられない……』
わたしは精神をえぐられるような痛みに立ち止まり、
木の根に手を添える。
(来た……
紗灯の“最後の記憶”……!)
景色が揺れ、薄闇がにじんだ。
わたしの視界に裏山の“別の光景”が重なる。
紗灯の視点だ。
息が苦しい。
心臓が早くて、足が震える。
(こわい……
どうして……わたし……)
紗灯は裏山へ続く細道を何度も躓きながら走っていた。
夕方の光は完全に落ちて、
山は黒いだけの場所になっている。
背後から笑い声がした。
『ねえ待ってよー、紗灯ちゃん』
『そんなに走られたら、追いつけないじゃん』
『あはは、ほら、逃げるの上手だね?』
明るい声。
けれど、その明るさにはどこか乾いた冷たさが混じっていた。
(どうして……ついてくるの……
もうやめて……)
紗灯は振り返れなかった。
足が細かく震えて、前にしか進めなかった。
木に肩がぶつかり、痛みが走る。
呼吸が白く濁る。
背後の影は三つ。
でも、“声”を出しているのはひとつだけ。
その声が最も近く、
楽しそうに紗灯の背中を追ってくる。
『ねえ紗灯ちゃん、さっき屋上で泣いてたでしょ?
かわいかったよ』
(やめて……いやだ、来ないで……)
足がもつれ、紗灯は地面に両手をついた。
土の湿りが掌に染み込む。
背後の声が紗灯に近づく。
『影、踏んじゃったよ』
紗灯の背が跳ねた。
(いや……いや……!)
影が踏まれたときの“冷たさ”が、
足首から背中まで走り抜ける。
まるで心臓を氷の指で掴まれたような恐怖。
『紗灯ちゃん、影ってさ……
踏まれたら“動けなくなる”って本当かな?』
冷たい声が、すぐ近くにあった。
紗灯の呼吸が荒くなる。
(来ないで……来ないで……!)
背後からもうひとつ小さな声が落ちる。
『……ごめんね……紗灯ちゃん……
わたし……いや、ほんとはやりたくない……』
震えた声。
泣きそうな声。
だけど、その声は決して止まってくれなかった。
『でも……そうしないと……
あの子が、わたしを……』
途切れた。
紗灯は涙がこぼれて止まらなくなる。
(やめて……
お願い……)
すると、別の声が笑った。
『あーあ、泣かせてどうするの?
もう押しちゃえばいいじゃん』
軽い。
軽すぎる声。
その影が紗灯の影に重なった瞬間、
紗灯は全身が痺れたように動けなくなる。
『紗灯ちゃん。
ねえ、“押されるの”ってどんな気持ち?』
(いやだ……いやだよ……!
死にたくない……!)
『泣き声、屋上のときより可愛いよ?』
笑い声が重なる。
紗灯は涙でぐしゃぐしゃになった顔で震えながら叫んだ。
「ごめんなさい……
わたし……なにも……してない……!」
声はかすれ、返ってきたのは冷たい笑いだけ。
『知ってる。
紗灯ちゃんは何も悪くないよ?』
一番残酷な言葉を、
一番やさしい声で言われた。
『でも──ごめんね。
わたしは“押す役”だから』
紗灯は胸の奥が叫び声で裂けるように震えた。
『……おねえちゃ……たすけ……』
その瞬間、
紗灯の足もとへ“影の手”が伸びた。
黒く、細く、笑っている影。
紗灯の世界が歪む。
わたしは膝をつき、
呼吸がぐしゃぐしゃに乱れていた。
息を吸うたび、胸が裂ける。
「紗灯……
そんな……そんなこと……!」
わたしの影が地面に叩きつけられるように震えた。
背後の“加害者影”が、わずかに揺れる。
その揺れが、まるで
“あの日の笑い声” の形をしているように見えた。
立ち上がる。
拳が血の味を感じるほど強く握られる。
紗灯のヘアピンが胸の中で震えた。
(見つける。
絶対……見つける。
誰が紗灯にあんなことを言ったのか。
誰が押したのか。
誰が笑っていたのか)
涙が熱く頬を伝い、裏山の土へ落ちた。
その落ちた涙は、紗灯の涙の跡に重なるように吸い込まれた。
風が止まった。
背後の影がわたしの横をゆっくりと通り過ぎる。
そして──
裏山の奥にある“祠”を指し示した。
そこが、紗灯が最後に辿り着いた場所。
わたしは一歩踏み出した。
裏山の空気が、完全に変質する。
【フィールド切替:裏山・第二段階/影界強干渉層】
【危険度:高 → 極】
【灯子の影:第三段階へ変質(形状が“紗灯と同期”)】
【加害者影:距離をゼロに近づける】
紗灯の最後の記憶が、
わたしの胸で静かに泣いていた。
祠を睨んだ。
「紗灯。
あなたの“最後の場所”に──わたしが入る」
祠の奥から、
影の呼吸がゆっくりと灯子を迎えた。




