1-2 旧校舎の声と暮れゆく校庭
古いカセットテープは掌の上で汗を吸って重くなっていくようだった。
『……おね……え……ちゃ……』
声は途中でぷつりと途切れた。
テープが噛んだような、機械的なノイズが耳の奥で弾ける。
何度聞いても、あの呼びかけは——紗灯の声に似ていた。
(似ているだけ。偶然。……だって、あの子は)
言葉の続きを喉のどこかで飲み込む。
代わりに、肺の奥で冷たい空気が重く沈んだ。
【カード入手:CARD_01「旧校舎の呼ぶ声」(R)】
【影落ち:9% → 12%】
《刺激記憶:紗灯》の反応、微増。
旧校舎の廊下は夕暮れの光を拒むように暗かった。
窓の向こう、グラウンドにはまだ部活の声が残っているはずなのに、ここだけは世界から切り離されたみたいだ。
足もとに伸びる自分の影がじわりと揺れる。
さっきよりも輪郭が少しだけ濃くなっている気がした。
(……落ち着け。大丈夫。テープなんて、偶然残ってただけ)
そう自分に言い聞かせ、スカートのポケットにカセットを突っ込む。
金属の感触が太ももに触れ、やけに冷たかった。
その時。
廊下の奥で何かが「こつん」と鳴った。
硬い靴が古い床板を踏む音だ。
さっきまで誰もいなかったはずの廊下に、ゆっくりとした足音が近づいてくる。
(先生……? それとも——)
わたしは反射的に身を引き、教室の影に身を滑り込ませた。
窓から差し込む微かな光が埃を柔らかく照らしている。
足音は真っ直ぐこちらへ向かってきて——
教室の前で止まった。
「……誰かいるのか?」
低い男の声。
扉の曇りガラス越しに背の高い影が揺れた。
「……用務員さん、かな」
小さく息を吸い、わたしは声を出すタイミングを逃す。
なんとなく、今は見つかりたくないと直感していた。
男の影はしばらく扉の前に留まり、それから廊下を振り返るように首を動かした。
その動きに合わせて、影もガラスに沿って歪む。
「……さっき閉めたはずなのにな」
鍵の触れる音。
金属同士が擦れ合う、心細い音が旧校舎に響いた。
カチャリ、と重い錠前が閉まる。
そして足音は、来たときとは逆の道のりをゆっくり遠ざかっていった。
わたしは彼の背中を見送ることなく、扉の影に身を縮めたままやっと息を吐いた。
【フラグ:《F_VISIT_OLD_01》(旧校舎初訪問)が立った】
【フラグ:《F_OLD_LOCKED》:旧校舎は夜間施錠される】
(あれ以上奥に行ってたら、普通に補導だったかもね……)
自嘲ぎみに笑おうとして、頬がうまく動かないことに気づく。
教室の隅で夕陽に照らされた自分の影だけが、数拍遅れて笑いの形をなぞった。
旧校舎を出ると、校庭の色はすでに青に傾いていた。
白鷺女学院の校舎は夕暮れの中で輪郭をやわらかくぼかしている。
窓ガラスには教室の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。
本棟と旧校舎を繋ぐ渡り廊下には、薄い靄のような空気が漂っている。
中庭の向こう、植え込みの上を白い鳥影が横切った。
「……鷺、か」
ここに来てから、まだ本物の白鷺をちゃんと見てはいない。
羽音だけが風と一緒に木立の間を抜けていく。
その時、ふと——
木の影の中で、鳥と違う“何か”が、こちらを見ている気配がした。
グラウンドの端。
フェンス際の古い桜の木の根元に、黒い輪郭がひとつ。
夕陽に伸びた木の影とは微妙にズレて、じわりじわりと形を変えている。
「……気のせい」
歩き出す。
でも足音が一つ増えた気がした。
ざっ、ざっ、と砂を踏む音。
わたしの靴音に重なるようにして、半拍遅れてついてくる。
【異常検知:影ズレ 0.20秒】
【怪異レベル:低】
寮棟へ続く小径は、まだ部活帰りの生徒たちで賑わっていた。
笑い声や部の愚痴が飛び交う中に紛れ込むと、さっきまでの冷気は嘘のように薄れる。
「ねぇ見た? 新しい子めっちゃ綺麗じゃない?」
「わかる。あれはモテる」
「かわいいヒロインっていうより、なんか主人公顔」
耳に入ってくる言葉に内心で苦笑する。
(あいにく、こっちは“復讐ルート”進行中なんだけどな)
口元だけで誰にも聞こえない科白を吐く。
心の中で冗談めかして言ってみても、胸の奥の冷えは消えない。
ポケットの中のカセットテープが存在を主張するみたいに硬く当たってくる。
寮の入口のドアを引いた瞬間——
校舎の方から、細く長い鳴き声が聞こえた。
白鷺が夜に鳴くのを、わたしは知らない。
けれど今聞こえたそれは、どう考えても鳥の声にしては細く、人間味がありすぎた。
『……ねえ……』
確かにそう聞こえた。
振り返っても風が校舎の壁を撫でていくだけだ。
窓ガラスに自分の影と制服のシルエットだけが映っている。
「……紗灯?」
思わず名前が漏れる。
ガラスの中の影が、一瞬だけ、わたしの口が動くより早く“さと”と形を作った気がした。
【影落ち:12% → 16%】
《名前呼び反応:強》
寮の中は暖かかった。
玄関ロビーにはソファと古びた観葉植物。
掲示板には「消灯時間厳守」「裏山への立入禁止」と、手書きの紙がいくつか貼られている。
その中のひとつに、目が止まった。
『昨年度の事故については、心ない噂を控えましょう』
事故。
丁寧な丸文字。
でも紙の端だけが、やけに黒ずんでいる。
(……去年、ここで紗灯は“事故”にされた)
実際は事故なんかじゃない。
あの子は、”押された”のだ。
【内部ログ:汐見灯子/復讐フラグ】
《条件》:加害者3名の特定/儀式の実態解明
《進行度》:0/3
「……ただいま」
小さく呟きながら、自室のドアを開ける。
二人部屋。
でも今は上段のベッドも机も綺麗に空いている。
転入のタイミングが中途半端だったせいで、相部屋の子はまだ決まっていないらしい。
(ひとりで助かった、と思うべきか……)
鞄を置き、ベッドに腰を下ろす。
ポケットから問題のカセットテープを取り出した。
古びたラベルには、かすれたボールペンで何か書かれている。
「3-2 音楽」と読めなくもないし、全く違う文字にも見える。
(これ、本当に——紗灯の声?)
あの日、電話の向こうで何か言いかけて、切れてしまった声。
あの途切れ方と、テープのノイズがどこか似ている。
「冷静にいこう、灯子」
自分に言い聞かせるように深呼吸をひとつ。
内側から、感情を少しずつ分解していく。
◆内部推理ログ(簡易)
【現時点の情報】
・去年、白鷺女学院で“裏山の事故”があった
・寮掲示板に事故への言及あり(曖昧な書き方)
・ゆいは「儀式ごっこ」という言葉を使った
・旧校舎で拾ったカセットから、「おねえちゃん」と聞こえる
・声は紗灯に酷似している
【推理スロット:仮配置】
A:去年の事故(裏山/儀式ごっこ)
B:旧校舎のカセットテープ
C:紗灯の声
【暫定結論】
・裏山の“事故”と旧校舎の“声”は無関係ではない
・紗灯は、裏山だけでなく、学院全体に“影”を残している可能性
【簡易推理:成功(初級)】
【影落ち:16% → 14%(わずかに減少)】
推理というより、ただの整理かもしれない。
けれど、頭の中でカードを並べてみると、感情だけで突っ走る危うさが少し和らいだ。
「紗灯。もし本当に、ここにいるなら——」
そこまで言って、言葉が喉で止まる。
「……わたし、きっと、正しいことはできないよ」
復讐は、正義じゃない。
そんなことは分かっている。
でも、このまま何も知らずに笑って生きるなんて器用な真似は、わたしにはできなかった。
ベッドの隅にカセットを置き、天井を見上げる。
白い塗装の剥げかけた天井。
蛍光灯の光が、ところどころに黒い染みを浮かび上がらせている。
その染みのひとつが、じわりと形を変えた。
はじめはただの丸だった。
次第に細長く伸び、腕のような輪郭になっていく。
(……錯覚)
瞬きしても、それはしばらく消えなかった。
そのくせ、目をそらした瞬間には跡形もなくなっている。
【異常検知:影の二重写り】
【影界との同期:0.05%】
「やめてよ」
ぽつりと零すと、蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。
紗灯の名前を出すと、決まって何かが狂う。
でもその狂いは、わたしにとってはむしろ“歓迎すべきノイズ”だった。
正しい世界の方がよほど残酷だ。
夜になり、消灯時間が近づくと寮全体の照明が落ちた。
廊下には非常灯だけが点き、薄い緑色の光が床を撫でていく。
ベッドにもぐり込み、目を閉じる。
枕はまだ新品の匂いがした。
紗灯がいた頃の枕の匂いは、もう思い出せない。
まぶたの裏に浮かぶのは、
わたしを見上げて、何か言いたげに口を開きかけた紗灯の顔だ。
(あの時、わたしが電話に出ていたら——)
考えるだけ無駄な問い。
それを分かっていながら、毎晩繰り返してしまう。
やがて、眠りの縁がゆっくりと絡みついてきた。
廊下のどこかで床板がきしむ音がする。
誰かがトイレに起きたのだろう。
女子寮の夜は、いつもそうだ。
……そう、思おうとした。
きしみは一度だけでは終わらなかった。
ぎ……ぎ……ぎ……
同じ間隔で、同じ場所を踏み続けているような、粘ついたリズム。
その足音は部屋の前で止まることも、遠ざかることもない。
(……誰?)
目を開けてはいけない、という直感が走る。
代わりに耳を澄ますと、足音の向こうから、さらさらと何かが擦れる音が混ざってきた。
テープが回る音だ。
『……おねえ……ちゃ……』
さっき旧校舎で聞いたそれよりも、ずっと生々しい。
テープ越しの歪みではなく、鼓膜のすぐそばで囁かれているような距離感。
布団の中で拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、小さな痛みが冷静さを繋ぎ止める。
(ここで返事をしたら、多分——戻れない)
【選択肢】
1)目を開けて確かめる
2)ただやり過ごす
3)紗灯の名を呼ぶ
この夜、わたしは何も選ばなかった。
目を閉じたまま、声も出さず、ただ呼吸だけを数える。
『……ねえ……』
それきり、声は途絶えた。
廊下の足音もいつの間にか消えている。
非常灯の淡い光だけがドアの隙間から細く差し込んでいた。
【影落ち:14% → 18%】
【フラグ:《F_HEARD_SATO_VOICE》:紗灯の声を寮で聞いた】
眠れなくなった夜の中で、わたしは静かに決める。
——紗灯の声を、ちゃんと聞きに行く。
あの日、受け取れなかった言葉を、今度こそ受け止める。
そのためには、まずこの学校の“影”を全部暴かなければならない。
白鷺女学院の夜鳴きは、まだ始まったばかりだった。




