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落ちる前の、ほんのすこし

 暗い。

 目を開けても、閉じても、何も変わらない。


 あの日から、ずっとそうだ。


「……ねえ、お姉ちゃん」


 声が出ているのかどうか、自分でも分からない。

 でも、言葉は確かに喉から漏れていた。


 わたしは今、屋上の手すりのそばにいる。

 足もとに風が流れている。

 でも身体は、もう冷たい。

 火照りも汗も、どこにもない。


 “生きていた頃”の感覚が、

 霧の向こうの景色みたいに遠く感じる。


(ここで、わたし……どうしたんだっけ)


 思い出そうとすると、胸の奥がズキリと痛む。

 その痛みのせいで、意識がまた暗みに沈む。


 でも——忘れたくない。

 お姉ちゃんだけは、忘れちゃいけない。


わたし、汐見紗灯は、

あの日、確かにここに来た。



 風が止まり、空気が静かになった。

 耳鳴りだけが続いている。


 手を伸ばすと、

 手すりの冷たさがわずかに指を刺した。


(ここ……掴んでた。

 落ちないように、掴んでた……)


 指先に、自分の爪あとが残っているのが見える。

 細い線がいくつも、金属に刻みつけられている。


(痛かった……

 怖かった……

 でも、それよりも——)


 “あの声”が怖かった。


「押しちゃえよ」

「影踏まれてさ、終わりでしょ?」

「ごめん、ごめんってば(笑」


 耳の中にまとわりつく、

 あの乾いた笑い声。


 わたしは振り返った。

 でも誰の顔も見えなかった。


 見えたのは——


 “影”だけ。


 三つの影があった。

 夕陽が落ちかけていたのに、

 影だけが異様に濃く、長く伸びていた。


 影踏まれた瞬間、

 背中にひやりとした“誰かの手”が触れた。


(あれ、人間じゃなかった……

 もっと冷たかった……)


 わたしが手すりにしがみついて、泣きそうになったとき。

 影のひとつが、近づいてきてこう言った。


『ごめんね。

 わたし、悪くないのに。

 ごめんね、でも……押すね』


 声が——震えていた。


 泣いているみたいだった。

 でも、優しさはひとつもなかった。



 足もとが揺れた。

 風が吹いたわけじゃない。

 屋上は動かない。


 世界が傾いた。


 影の手が背中に触れたとき、

 わたしはようやく“本物の恐怖”を理解した。


 落ちる。

 死ぬ。

 終わる。


 でも——


 落ちる瞬間、わたしは思った。


(あ、お姉ちゃんに……会えなくなる)


 それが一番怖かった。


 痛みよりも、恐怖よりも。


 指先から力が抜けて、

 世界が反転していく中で、

 わたしは最後に叫んでいた。


「ごめんね……!

 お姉ちゃん……!」


 ごめんね。

 守れなくて、ごめんね。

 迷惑かけて、ごめんね。


 そんな言葉ばかりが喉から溢れて、

 空に飲まれていった。



 気づくと、わたしは“影側”にいた。


 身体はない。

 声も届かない。

 でも、世界の音はすべて聞こえる。


 お姉ちゃんが泣く音も、

 あの子たちの笑い声も、

 影たちのざわめきさえも。


(お姉ちゃん……ごめんね)


 何度も呼んだ。

 届かないのは分かっている。


 でも、それでも——呼んだ。


『……おねえ……ちゃ……』


 テープの声はわたしの声じゃない。

 影が勝手に“わたしの記憶”を真似しているだけだ。


(お姉ちゃんを、巻き込みたくない)


 わたしは、影の中で震えた。


 でも、影たちは囁く。


 ——呼べば来るよ。

 ——お姉ちゃん、来るよ。

 ——一緒に“こっち”に来れば、楽だよ。


(違う……!

 お姉ちゃんは、生きてなきゃ……!)


 でも、影は笑う。


 ——もう遅いよ。

 ——来てるよ、ほら。

 ——足音、聞こえるでしょ?


 旧校舎の廊下で灯子の足音が響くたび、

 胸の奥が痛んだ。


(来ないで……

 来ちゃだめなのに……)


 でも灯子は来る。

 紗灯の足跡を追って、影を跨いで、

 どんどん深くへ来る。


(お姉ちゃん……

 どうして来ちゃうの……

 わたしのせいで……)


 影が囁く。


 ——だって、姉妹だもの。


 紗灯は、泣いた。


 目がないのに、涙だけがあふれたような気がした。



 わたしは灯子を守りたい。

 でも影たちは、違うことを望んでいる。


 影界の手が、灯子の影を掴もうと伸びるたび、

 わたしは声にならない叫びをあげていた。


(触らないで!

 お姉ちゃんは、そっちじゃない!)


 その叫びだけが、

 ほんの一瞬だけ現実に滲んだ。


 灯子が階段でつまずきそうになったとき。


 屋上で影の手に掴まれそうになったとき。


 わたしは、自分の影を投げ出して

 あの子の前に立った。


(お姉ちゃん……

 大丈夫……?)


 灯子は、わたしの影の方を見た。

 目を細めて、息を呑んだ。


(届いてる?)


 ほんの一瞬、

 灯子の影がわたしに触れた。


 温かかった。


(……触れられる……?

 わたし、まだ……お姉ちゃんの……)


 影たちはざわめく。


 ——繋がった。

 ——なら、もっと深くまで連れておいでよ。

 ——影の下へ、ね。


(違う……!

 わたしは——)


 灯子の影は、また離れた。


(……まだ、届かないんだ)


 だけど。

 屋上の手すりに残る“あの日の冷気”は、

 わたしの中でまだ燃えている。


(お姉ちゃん……

 来ないで……来ないで……

 でも……どうか……)


 紗灯の影は、灯子の背中にそっと寄り添った。


(わたしの死を

 ひとりにしないで)


 暗闇の中で、

 紗灯の影が震えた。


   ***


 紗灯の残響は灯子の影に溶け、

 旧校舎から学院神社へと導く細い道になる。


 灯子はまだ知らない。

 紗灯がどれほど呼び、

 どれほど拒み、

 どれほど灯子を守ろうとしているかを。


 ただひとつだけ確かに言える。


 紗灯は、まだ“ここにいる”。


 そして、灯子が次に足を踏み入れる

 学院神社の深部にも——


 紗灯の影は、灯る。


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