2A-4 屋上と、影の手の正体
扉が吸い込まれるように開いた。
金属の軋みが旧校舎全体に響いた気がした。
階段の上から吹き込む風は
冷たい——では済まなかった。
“生温い闇”そのものだった。
(……空気が変わった)
足を踏み入れるだけで、
皮膚の上にじわりと何かが張りついたような感触。
階段を一段ずつ上る。
靴底が古いコンクリートを押し、
ほこりがふわりと舞い上がる。
そのたびに、耳の奥で
ざ……ざ……と、何かがこすれる。
(これ……音じゃない。
影の擦れる感覚?)
わたしは気づいていた。
ここはもう、現実だけの空間じゃない。
階段を上りきると、
屋上のドアが再び勝手に開いた。
ギィ……。
夕陽は完全に沈んでいたはずなのに、
屋上の空は“薄い赤紫”に染まっている。
(こんな……色、見たことない)
雲は止まっている。
空気は動かない。
世界が、時間の流れを忘れていた。
その中央——
柵のそばに、紗灯の影が立っていた。
いや、影“だけ”だった。
光がないのに、輪郭だけがはっきりしている。
風がないのに、髪の影が揺れている。
身体の線が紗灯とそっくりだ。
(紗灯……?
いや——これは影だけの……残響)
ゆっくりと歩み寄る。
影は逃げなかった。
ただ、じっとわたしの方を向いている。
そのとき。
足もとに気配が走った。
ひっ……
短い悲鳴を喉の奥で止めた。
床に、黒い手形がべたり、と浮かび上がった。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
その手形はわたしの足首へ伸びてきた。
まるで“階段の影の手”が続きになっているかのように。
(……これ、紗灯を押した“手”……?)
後退する。
足が震える。
冷気が皮膚に刺さる。
黒い手形はわたしの影を掴もうとしていた。
影だけを。
(わたしの身体じゃない……影を掴もうとしてる)
影が掴まれたら——
どうなる?
考える前に走った。
足もとはぐらつく。
風は吹かないのに、耳鳴りだけが強くなる。
影だけの紗灯が、わたしの進む方向へ手を伸ばす。
(紗灯……?
導いてる……?)
紗灯の影が示した方向は、
屋上フェンスの隅。
古びたゴミ捨て箱と、
手すりの影が交差する場所だった。
近づくほど空気が粘つく。
呼吸が重い。
胸の奥に何かがのしかかる。
足もとの影が、ゆっくりと別の影と混ざり始めていた。
(やば……
影が、吸われてる……?)
影から足を引こうとするが、
影は靴をつかむように離れない。
そのとき。
かすれた少女の声が耳元で囁いた。
『……ごめんね……
ごめんね……
わたしじゃ……ない……』
風ではない。
幻聴でもない。
“他人の謝罪”が、わたしの耳の内側で響いた。
(……これは、加害者の子の声……)
背中が凍る。
光のない屋上で、
わたしの影の前に“別の影”が立っていた。
背の低い少女の影。
紗灯ではない。
影の顔が、ゆっくりと歪んだ笑みに変わる。
『——押したのは、わたしじゃないよ』
そう、言ったように見えた瞬間。
影の手が、わたしの影を掴んだ。
(——っ!)
身体は掴まれていない。
影だけが、ぐい、と引かれる。
足がふらつき、膝が折れそうになる。
視界が揺れた。
空の赤紫が、黒へ溶けていく。
必死に足を踏みしめた。
「わたしの影……勝手に触らないでッ!」
影が揺れる。
黒い手が後退する。
だがその背後——
影写し怪異の“本体”が現れた。
屋上の床に落ちている無数の影。
その影が、
“立ち上がった”。
人の形でも、獣の形でもない。
黒い泥のような輪郭がぐにゃりと伸び、
二本の足らしきものと、
長すぎる腕だけが形をとる。
顔はない。
代わりに、胸のあたりに“影の目”が開いた。
じっと、わたしを見ている。
わたしの影が呼応するように震える。
【怪異:影写し・第二層(本体)】
危険度:高
特徴:影だけを掴む・影を通して記憶を覗く・触れると影落ち急上昇
影写しはゆっくりと手を伸ばしてくる。
指は長く、細く、曲がっていて——
まるで“紗灯の背中を押した手”の形。
(あんたか……
紗灯の影を踏んだのは)
喉から、自然と言葉がこぼれた。
「絶対に許さない」
怒りが胸に黒く広がる。
その怒りに反応して、
わたしの影が揺れた。
影写しの目が、ゆっくりと開く。
黒い涙のような影が床に滴り落ちる。
(来る……!)
一歩後退——
その瞬間、紗灯の影がわたしの前に立った。
庇うように。
守るように。
影写し怪異の手が紗灯の影に触れた瞬間——
紗灯の影が強く光った。
いや、“反射”した。
影写しが後退する。
腕が崩れ、一瞬床に広がる。
その隙に、わたしは飛び込んだ。
紗灯の影が消え、
代わりにわたしの手の中に、
一枚の“紙”が落ちてきた。
拾い上げると、
それは紗灯の直筆だった。
震えた文字で短く、ただ一言。
『——見て』
(見て……?
何を……?)
紙をめくると、裏面にもう一行。
『“三人”いた』
息が詰まる。
三人。
加害者がひとりじゃなく、
“影を踏んだのも三つの影”だったという記録。
影写しが再び形を取り戻す。
こちらを見ている。
わたしは紙を握りしめた。
【SSRカード獲得:CARD_07『紗灯の屋上メモ(完全版)』】
内容:影踏みの実行者は“3人”
影写しが介入していた可能性
紗灯は落下前に“誰かの影”を認識していた
効果:《事件構造》の核心にアクセス可能
ルート影響:影落ちルート・浄ルート両方に重要
【影落ち:62% → 65%】
《危険域だが、怒りにより精神崩壊には至らない》
わたしは息を整え、屋上の闇を睨みつけた。
「紗灯。
あなたを押した“三人”の影——
必ず暴いてやる」
影写し怪異は、
わたしの言葉に呼応したように静かに溶けた。
黒い霧になり、屋上の床に吸い込まれる。
風は何もなかったかのように吹き抜けた。
わたしはひとり、
薄紫の空の下に立っていた。
【フラグ:《CH2_CLEAR》:クリア】
【新エリア開放:裏山・禁足地/学院神社(影界干渉)】
旧校舎の扉が閉まり、
完全な静寂がわたしを包んだ。
(紗灯——見てる?
わたし、ここまで来たよ)
影は答えない。
ただ静かにわたしの足もとで揺れた。




