2A-3 屋上前の廊下と、視点の残響
三階の端の教室を出ると、廊下の空気がはっきりと変わっていた。
冷たい。
ただの寒さではなく——
“記憶の冷気”だった。
わたしの背中に重いものが乗るように、
影がついてくる気配がする。
(……ここ、紗灯が最後に来た階なんだ)
分かってしまう。
理由はないのに、身体の奥がはっきりとそう告げてくる。
【影落ち:42% → 46%】
《理由:紗灯の残響領域に接触》
廊下は真っ暗だった。
窓からの光が一切入らない。
まるで外の世界がなくなったみたいに、黒一色。
(この黒……影の“濃度”だ)
スマホのライトを点ける。
その光が、かろうじて廊下を貫く。
ライトの円形に照らされた範囲だけが現実で、
円の外側はすべて、“影界と現実の境目”みたいに揺れている。
廊下の途中、床に何かが落ちていた。
(ハンカチ……?)
白地に水色の刺繍。
角に小さく名前が縫われている。
「……さ、と……?」
紗灯の名前。
間違いない。
手に取ると、布の温度がありえないほど“冷たい”。
氷水につけたあとみたいに。
その瞬間、視界がかすれた。
(なに……?)
世界が、一瞬だけ“紗灯の視線”に変わった。
【幻視:紗灯の視点(短いフラッシュ)】
暗い廊下。
揺れるライト。
遠くの扉。
足音が後ろから近づいてくる。
紗灯は小さく息を殺し、廊下の角に身を寄せた。
(やだ……やだ……)
背後から、女の子たちの笑い声。
「押しちゃえよ」
「いけるいける、階段だし」
「影踏んだら終わりなんでしょ?」
紗灯が後ずさる。
その足もとに、黒い影が伸びてきた。
誰かの影——
ではなく“影だけの何か”。
その影が、紗灯の影を踏む瞬間——
紗灯のハンカチが落ちた。
光が揺れる。
世界が歪む。
“押された”。
叫びかけた声が、廊下中に吸い込まれて消えた。
視界が戻る。
わたしは息を乱し、
手に持ったハンカチを強く握りしめていた。
「紗灯。見たよ……
あなたの、最後の……ほんの一部だけど」
胸が焼けるように痛む。
呼吸が浅くなる。
【影落ち:46% → 53%(急上昇)】
《理由:直接的な紗灯の恐怖体験を受信》
(怒り……わたしのじゃない。
紗灯の恐怖と憎しみが、一緒に来てる)
握った拳が震えている。
廊下の突き当たりに古びた鉄扉がある。
「屋上」
と書かれた表札は錆びて読みにくい。
近づくと、扉が小さく震えた。
(……入れってこと?
それとも、近づくな?)
そのとき——
扉の鍵穴から、ひとつの“黒い目”が覗いた。
丸い影。
瞼も眼球もない。
ただの“視線の形”。
わたしと目が合う。
(……っ)
身体が凍った。
黒い目はすっと消えた。
そのあと、扉自体がゆっくりと自然に開く。
ギィ……。
暗闇の向こうへと続く階段。
(屋上って……こんなに暗かった?
昼間見たときは、普通の景色だったはずなのに)
【フィールド切替:現実層 → 影界干渉層】
危険度:中 → 高
影が、わたしの足もとでひとりでに動いた。
「ついて来い」と言うように。
「……行くよ。
紗灯……あなたが“足跡”を残してくれたんだから」
階段に足を踏み出した瞬間——
スマホのライトが勝手に消えた。
(……は?)
物理的にはありえない。
でも、暗闇がわたしを飲み込む。
暗闇の中、わたしの前に“白い足跡”が現れた。
発光している。
人の足跡ではない。
影の反転。
(紗灯……これ、あなたの足?
それとも——押した子?)
足跡は一段ずつ屋上へと続いている。
わたしはそれを追う。
すると、足跡のひとつが急に割れて、
黒く染まった。
(え……これ、踏まれてる跡?
二重になってる……)
紗灯の足跡の上に、
誰かの影が重ねて踏んだ跡。
(押される前に……影を踏まれてる?)
カセットテープが震えた。
『……いた……い……
いたい、いたい……』
どんどん声が鮮明になっていく。
まるで“紗灯が階段を上るたび痛んでいた記憶”が、
わたしの耳に戻ってきているように。
(紗灯……)
息を詰める。
怒りが胸に渦を巻く。
【影落ち:53% → 59%】
《影喰片(残響)が灯子に接触/怒りの共鳴》
階段の最上段に誰かが立っていた。
背の低い少女の影。
髪は肩まで。
顔は見えない。
でも——紗灯より“やや大きい影”。
(加害者の子……?)
影が首をかしげる。
ゆっくり、わたしの方を見る。
その黒い穴のような顔が——
笑った。
(来る……!)
わたしは反射的に後退した。
その瞬間、影は階段から消え、
階段下の暗闇へと落ちていった。
落ちる音はない。
ただ、陰が濃くなる。
息を呑み、扉の前に立つ。
屋上は——
闇の底にある。
扉の前、風に乗って一枚の紙片が足もとへ滑ってきた。
拾う。
それは、紗灯の筆跡。
細くて、揺れた文字。
『押されたのは一回じゃない。
影が、見てる。
わたしの影と、誰かの影が重なると——
背中に、手が出てくる』
(背中……?
影から“手”が?
え、それ……怪異じゃなくて——)
手が震えた。
【カード入手:CARD_06『紗灯の階段メモ』(SR)】
タグ:影界干渉/犯行手段/階段
効果:影の手=影写し怪異の二段階目に接触可能
【フラグ:《F_PUSH_METHOD》更新:影と人間の複合的犯行を示唆】
そして、紙片の裏にもう一行。
『——押した“人”は、ひとりじゃない』
呼吸が止まった。
(やっぱり……。
この学院の“女の子たち”。誰が紗灯を——)
怒りで視界が暗くなる。
【影落ち:59% → 62%】
《警告:影落ち60%超えは危険域。
BADルート初期フラグが点灯》
灯子はゆっくり顔を上げる。
屋上の扉の隙間から冷たい風が漏れる。
呼んでいる。
紗灯の残響か、
影の怪異か、
それとも——加害者の記憶か。
「……いいよ。
行く。
全部、見せて」
わたしは扉に手をかけた。
扉は、誰も触っていないのに
ひとりでに、ゆっくりと開いた。




