③−2 駅伝(1)
学校へ出かける隆夫さんを見送った後で、わたしは家の中の掃除をし、台所のテーブルで勉強を始める。
(六年生の試験に合格したら、その次はどうしようかな)
年度内、早ければ年明けには小学校課程を全部修了できるだろう。
と言っても、あくまで教科書レベルの基礎を身につけたというだけ。中学入試の難問とは隔たりがある。
(いっそ受験せずに、中学課程を家で済ませちゃう?)
高校課程も急いでやれば、隆夫さんと一緒に大学生……は無理か。一年かそこらで六年分の内容は頭に入りきらない。
わたしは椅子を降りて、洗濯物を干してあるベランダに出た。
ここからじゃ角度的に見えないけど、方向は分かる。隆夫さんが通い始めた中等教育科。
わたしもいつか、そこを受けようと思っている。そばにいたいもの。
*
ユニフォームの申込はしたけど、届くまでは時間がかかる。
当面、体操着や家の服で部活の練習に参加することにした。一人だけTシャツは少し目立つかもしれない。
十分準備運動をしてトラックに出たものの、走ってみると息が上がる。思うように体を動かせない。
「見ろよ、ハァハァ言ってるぜ。情けねーの」
「あれで大会出るんだってよ。数合わせか」
「マジ? ありえねー」
中学生だろう、まだ幼い顔つきの男子たちに笑われる。
でもそんなことはどうでもよかった。
「お疲れ」
ゴールしたとき、長谷川がストップウォッチのボタンを押した。
「タイムは?」
「まあ、こんなもんだろ。初日だしな」
教えてくれない。つまり、それほどひどいんだ。
「フォームは決まってたな。足を下ろす角度、体幹」
「……」
それは体が覚えていたのかもしれない、かろうじて。
「あと一か月だろ。何とか間に合わせる」
「無理すんな。故障したら元も子もない」
「分かってる」
翌朝から、登校前に町内を一周することにした。
何より、自分の走りを取り戻すことが必要。そのためには脚を動かすしかない。
(いつか呼吸が楽になるタイミングが来る。それまで、諦めるな)
三階まで上がってくると、台所ではユウミさんが朝食を作ってくれていた。
「おかえりなさい」
笑顔で迎えてくれる。
「サラダね、お魚じゃなくて鶏肉にしてみたの。たんぱく質が大事なんでしょ」
「ああ」
気持ち、茶碗に盛られたごはんが多く見える。
「もう、食べていいか?」
「ええ」
オレはエネルギーのもとを掻き込んだ。豆腐のみそ汁もうまい。
ユウミさんはそれから、果物を運んできた。
「糖質代謝にはビタミンB1がいいんですって」
「オレの部屋にある本、読んだ?」
「……」
彼女は中空を見つめて目を泳がせる。
「いいよ、ありがとう、食事に気を遣ってくれて」
チキンサラダもオムレツも、おいしかった。
「おまえさ、朝走ってるだろ」
「え?」
帰り道、正門を出たところで長谷川に聞かれた。
「まあ、ちょっとは」
何でバレたんだ。家は近所じゃないはずなのに。
「分かるよ、伸びが違う」
「そう言ってもらえると……」
同級生にほめられるのは、少し照れくさかった。
「黙ってるつもりだったけどさ、正直、期待してなかったんだ。どうしても人数が必要で、誰でもよかった」
「……うん、そんな気はしてた」
中学生にも言われたし。
実際、本番で走る人数+控えぐらいしか、高校生の部員はいない。
「けど、意外とやるなと思って。どの区間を走らせるか、今コーチと検討中だ」
「……」
評価されることに慣れていない。学校は久しぶりだし。
そのうち、無人駅の前に着いた。長谷川は階段を上がる。
「プレッシャーに弱いみたいだから、ハッパかけるようなことは言わない。けど、期待してる。これは俺の本心だ」
認められた気がした、自分を。
「がんばるよ。最高の結果を出す」
*
高校生の子を持つお母さんになった気分。きっとこんな感じだ。
秋だけど、来たる冬のためのマフラーを編みながら、わたしは物思いにふけった。いただいたお茶を、ときどき口にしつつ。
今してることはままごと。子どもの遊び、本物じゃない。
(二人ともが学生の今だからできる。今しかできない)
隆夫さんを幸せにしてあげたい。一緒にいられる間だけでも。
*
日曜日、ユウミさんがアップルパイを持ってきてくれた。グラウンドの端にある、陸上部の部室まで。
「うわ、うまそー!」
「ひょっとして手作り? こんなの、生まれて初めて」
よそ行きのワンピースを着て、ドアのそばに立ち、微笑んでいるオレの婚約者。
「いつも兄がお世話になっています」
「かわいい! 綾瀬先輩の妹さん」
溜め息を吐き、オレは彼女をプレハブ小屋の外へ連れ出した。
「ありがとう。オレのため?」
声がいらだっていると、自分でも分かった。なぜか素直になれない。
「違うわ、わたしのためよ。学校にいるときのあなたがどんなふうか、見てみたかったの」
「そう」
オレはユウミさんに謝らないといけないことがある。
朝食の支度は自分が担当なのに、最近彼女に任せきり。
そして授業がない日は、こうして部活の練習のため、登校していた。
つまりオレは義務を果たしていないし、彼女にさびしい思いをさせている。一緒に暮らす意味がない。
「楽しいでしょ、高校生活」
「……うん」
ものすごく罪悪感に駆られる。
「よかった。充実した毎日が送れているなら、移籍した甲斐があったわね」
「もっとオレを責めたらどうだ。オレはきみを大事にしていない」
「わたしがあなたを大事にしてるの。それで十分じゃない?」
前から思っていたが、雄二は小学生でも。ユウミさんはオレより年上な気がする。
ひょっとして二十歳以上か? 手玉に取られているような感覚が拭えない。
「わたしは幸せよ、あなたのお世話ができて」
白い大人向けのバッグに、お腹周りをキュッと締めている同色のベルト。
背中を見せたユウミさんに。
「きみがそうでも、雄二はそう思ってないんじゃないか。本心は違うだろ」
数歩離れたところで彼女は足を止める。振り返らない。
「雄二は、今いないの」




