③−1 編入初日
隆夫さんにもらった、ぶかぶかの指輪を見つめていた。
(無限の愛……)
彼の心にもし他の人がいるとしても、約束のリングを贈った相手はたぶんわたし一人だろうし、今一緒に暮らしているのもわたしだ。
――そばにいてくれるだけでいいんだ。それだけでいい。
あれは、誰かと比べて出てきた言葉だと感じた。何となくだ、確証はない。
わたしは畳の部屋のベッドの上でごろんと向きを変える。
「礼央さんだろう、きっと」
女の子みたいにかわいい、男の人。隆夫さんの好きなタイプ。
わたしはあの人の代わりなのかな。
*
欧立学園中等教育科は、中学と高校、予備校を合わせた課程だ。四年修了時に卒業証書が渡され、その後は在籍してもしなくてもいい――自由科と同じでフレキシブル。
だからこそ五、六年の授業料収入は減り、その穴埋めとして編入試験が実施される。
アキに聞いてみたんだ、オレはコネ入学じゃないのかと。
『おまえ程度の頭なら誰でも受かるよ、とりあえず授業についていけるレベル。特別優秀じゃなくても』
東の方の名門校とは違う、中堅校だからな。と、理事の娘は話していた。
(ずるじゃないんだ、オレが今ここにいるのは。堂々としてていい)
拳を握り、戸を開いた担任の後について教室に入る。
「みんな、静かに。今日から新しい生徒が仲間入りするぞ」
十月最初の平日。オレが着てるのと同じ制服の面々が集まっている空間。
「綾瀬、自己紹介して」
「はい」
教卓の手前に立ったオレは、静まりかえった教室の中で、約三十人の同級生たちを見回す。
「綾瀬隆夫といいます。中二から三年半、自由科にいました。普通の学校は久しぶりですが、どうぞよろしくお願いします」
緊張して、声が震えていたと思う。
それでも、恥じることなく堂々と、胸を張って、そこに立っていられた。
どこかから始まった拍手が、全体に広がっていく。
「綾瀬の席はあそこだ、窓際の……」
はい、と手を上げた生徒がいた。その真横は空席。
「クラス委員の小橋。面倒見がいいから、何でも聞くといい」
オレは先生に返事をして、示された席に向かう。
「普通の学校だって」
笑い声。
「自由科ってあれだろ、学校行けなくなったやつが通う……」
行けなくなったと行かなくなったは違う。けれどそんなことは、彼らには関係がない。
白いカーテンで日の直射を遮っている、一番後ろの席に、オレは着いた。
「あたし、小橋麻美。後で校舎の案内してあげるね」
雄二ほどではないが、短い髪の女子だった。
「助かるよ」
朝のホームルームでは、毎日英単語のテストが行われるようだった。
予め渡されている本からの出題。オレは勉強していなかったが、たまたま覚えている単語ばかりだったので、解答することはできた。
「綾瀬くん、すごい。もしかして英語得意?」
採点は隣どうしで。小橋さんはオレのに○をつけてくれた。
「子どもの頃、習ってたから」
「そうなんだ。あたし綴り覚えるの苦手なんだよね」
はい、とプリントを返してくれる。オレも彼女のを手渡した。
「なぁ綾瀬ってさ」
担任が出ていった後の少しの休み時間。廊下に近い列にいた、ガタイのいい男子が、席を立ってこちらへ来る。
陸上部の長谷川くん、と小橋さんが教えてくれた。
「去年、一昨年とマラソンに出てたよな、体育大会の」
二学期制のこの学校では、前期と後期の間の秋休みに、やや規模の大きいスポーツイベントが行われる。系列校の自由科からも参加が認められていた。
「うん、中二のときから毎年。今年は出なかったけど」
編入試験に合格して、入学の準備をしたり。雄二と一緒に暮らすため、互いの親に会ったり。忙しくて、今回はエントリーを見送った。
「だったらうちの部入れよ。人数少なくて困ってんだ」
一時間目は世界史、ニ時間目は数学。
当然クラス全員で受けるものと思っていたが、ちらほら空席が目立つ。
授業に出るのも出ないのも自由。自分が受ける大学の入試科目でないものは、受けないという選択もできた。
小橋さんは理系らしく、ニ時間目が始まる前に戻ってきた。
「自習のとき、どこで過ごすのが普通?」
たずねると、彼女は笑顔で答えてくれた。
「あたしは廊下のお茶室にいるけど。職員室のそばの会議室とか、校舎を出て図書館に行ったり。みんないろいろじゃない?」
「なるほど」
この学校には一般にはないものがある。各階、ティールームが整備されていて、引き出しの中から好きなものを取ってお湯を注ぎ、飲むことができる。コーヒーや紅茶、緑茶、中国茶など。パンフレットで読んだ。
「綾瀬くんて、全科目受ける人? 国立狙いとか」
「大学は決めてるけど、入試科目はまだ……。とりあえず全部受けるつもりでいる」
「そっか。お互いがんばろうね」
すぐチャイムが鳴り、数学の担当教員が現れて、授業が始まった。
(受験を意識したこの時期なら、目的はみんな同じ、だから話もできる。今でよかったのかもしれない、学校に戻るの)
昼は小橋さんに案内してもらい、一階の食堂で食べた。他にコンビニやベーカリーもあり、わざわざ弁当を作ってこなくても、食うには困らない。
午後三コマの授業を受けた後、朝声をかけてくれた長谷川について、陸上部の見学に行った。
「短距離、長距離、障害物、種目はいろいろあるけどさ。綾瀬には、駅伝に出てもらいたいんだ」
「高校駅伝?」
報道で知った限りだけど、確か秋冬に行われる。
「そう。うちの学校ってさ、五年から受験できるじゃん? それで最後まで残らず、四年で引退するやつ多いんだよな。だから人手不足」
「……」
状況は理解したけど。
「長谷川オレ、中一の途中から学校行かなくなったんだ。部活とかやったことない」
「走れれば十分だぜ。おまえが速いの知ってるしな。これ以上、何を求めることがある?」
オレの性格とか経歴、そんなのは気にしてないってことか。
「見た感じ、最近はトレーニングしてないみたいだからな、体慣らすとこから始めないといけないだろうが。予選まで一か月ある、大丈夫だ」
信じてるぞ、と長谷川はオレの背中を叩く。
プレッシャーに弱いんだ。もしオレが足を引っ張ったなら、みんなに迷惑をかけることになる。
マラソンは一人だからできたことで、たすきを渡す相手のいる競技など、自信がなかった。
「怖いのか?」
さっきまでの冗談言ってるような顔じゃなく、真面目な顔で長谷川はたずねる。
オレは黙って頷いた。
「でもやるよ、せっかく編入したんだし」
断れないわけじゃなかった。ただ自分が、高校生らしいことをしたかっただけ。
「そのイキだ」
それから、グラウンドを走る部員たちの練習風景を眺めた。
真剣な様子が、まぶしかった。
アパートに帰り着いたときにはくたくただった。体を使うようなことは何もしていない。気疲れだ、これは。
ドアを開けると、ぱたぱたとスリッパの音をさせて、ユウミさんが迎えにくる。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
その場で崩れたオレを、彼女は小さな身で支えてくれた。
「今日はお疲れ様。晩ごはん、できてるわよ」
廊下の先からうまそうなにおいが漂ってくる。
「ビーフシチュー?」
「おしい! ビーフストロガノフよ」
くすくすとユウミさんは笑う。
「それよりお風呂が先かしら」
「いや、腹減ってるから、食べるのが先」
立ち上がる前、ユウミさんの唇にオレのをつけた。
「前菜」
ぼっと火がついたように顔をほてらせる。雄二とは違った反応だ。
「照れるから、そういうの」
困っているようだった(笑)




