②−9 アップルパイ効果
昨夜はよく眠れなかった。
隆夫さんは雄二のことは好きだけど、ユウミは恐怖の対象らしい。
『女の子は嫌い?』
『……嫌いってわけじゃないけど。小さい頃のトラウマ――ひどく拒絶された経験が、女の子への恐怖を生み出す。きみのことも怖いよ、正直言って』
過去に何があったかは分からないし、聞こうとして傷をえぐるのもよくない。
できることは……。
――胃袋つかんじゃえば、男なんてこっちのもんよ。
何かのドラマで登場人物がそう言っていた。
(それほど単純じゃないわ。相手はプロの家政夫さんだしね)
でも、何もしないわけにいかない!
突然だけど、我が家の間取りを説明する。たぶんちょっと個性的。
二階はわたしの部屋、お兄ちゃんの部屋があるだけで、ほとんどが一階に集まっている。
階段を下りてくるとダイニング。こことつながってるリビングと合わせて、吹き抜けになってるんだ。
リビングを前にして、畳敷きの本棚の部屋がある。お父さんのお仕事関係、趣味の本が多いけど、お母さんのお料理・インテリアの雑誌もあるし、わたしやお兄ちゃんが小さい頃読んでいた絵本もまだ残っている。
ここだけちょっと高くなっていて(おばあちゃんの縁側ぐらいの高さ)、畳の端っこに腰かけて、他の部屋を眺められるのよね。リビング側、キッチン側には壁がない。
今わたしはお母さんに手伝ってもらって、りんごのお菓子を作っている。お兄ちゃんは真上の部屋で勉強中。お父さんは、緑茶片手に今日の新聞を読んでいた。
「あなた、出てくださる?」
階段下の電話が鳴り出したけど、お母さんもわたしも手が離せない。
お父さんは畳から下りて、フローリングの上を歩き、テレビ横の子機を取った。
「もしもし、皆ヶ崎ですが」
調布に行ってくる、と言えば誰を訪ねていくのかはっきり分かる。
夏用のジャケットを着て身なりを整えたお父さんは、外に停まったタクシーに乗って出かけた。車はあちらが手配したそう。
「あの件かしらね」と、お母さん。
「帰ってきたらくわしい話を聞きましょう」
「うん」
わたしも外出の準備はできた。
「行ってきます」
昨日の今日だから、迷ったんだけど。
基本、ユウミで行くことにした。男の子用の綿パンじゃなく、かわいらしいキュロット。でも半ズボンに見えないこともない。
雄二はいつも、度のきつい銀縁めがねをかけているけど、わたしはフレームなしの伊達めがねをコンタクトの上に。
居室の前で一度深呼吸して、呼び鈴のボタンを押した。
少ししてドアが開く。
「今日は雄……」
見た目でどっちか分からなかった隆夫さんは、そこで言葉を止めた。
わたしは透明な袋に入れた四角い箱を彼に差し出す。
「アップルパイを持ってきたの。よかったら食べて」
今日は涼しいからと、隆夫さんはホットの紅茶を淹れてくれた。
「アイスの方がよかった?」
「ううん。わたしもこっちの気分だったから、ちょうどいいわ」
Tシャツの上にはベストを着てきた。気温は日によるけれど、だんだんと秋らしくなっている。
「昨日はごめん。またきみを襲いかけた」
「……」
正確にはわたしじゃなく雄二の方。
「わたしこそ、混乱させるような話をして」
「嫌いじゃないんだよ、きみのこと。雄二だしね。でも普通に接することができるようになるには、時間がかかる」
「ええ、分かってるわ」
今わたしと隆夫さんの間には、明らかな距離がある。普段このソファに座るとき、雄二とならくっついている。
「アップルパイ、いただくよ」
白いお皿に載った六分の一切れ。隆夫さんはフォークで切って、口に入れる。
吟味するように時間をかけてから、感想をくれた。
「よく焼けてる。味も甘すぎなくてオレ好み」
「よかった」
ほんの一言でもいい。反応してくれれば、こちらも作りがいがあるというもの。
「紅茶もおいしいわ。アールグレイ、好きなの」
「知ってる」
隆夫さんは、わたしのために微笑んでくれた。
「一つ聞こうと思ってたんだけど」
「ええ」
「なんで男の振りなんか。きみはかわいい女の子なのに」
わたしはカップとソーサをテーブルに戻した。
(体の話はまだしていない。昨日は性別のことしか)
家族以外で知っているのは八芝さんだけ。他の誰にも知られたくなくて。
「あの雨の日に、パンツの上からさわったでしょう。そのとき何の違和感もなかった。違う?」
「あ……」
思い出したようね。
「じゃあきみはおと――」
「女の子なの」
わたしは隆夫さんの言葉を遮った。
恥ずかしいことだから、わたしの顔面は紅潮している。
「女の子だけど、そこが肥大化して、男の子みたいに見えるのよ。でも両側に精巣はないし、体の中には子宮と卵巣があるの。だから、体の性別は女性。お父さんが、幼稚園でいじめられないようにって、わたしを男の子にしたの」
「……」
それからしばらく、隆夫さんは黙っていた。ショックで言えることが何もなかったのかもしれない。
「隆夫さん、初恋は男の子だった?」
「……うん」
「じゃあ女の子は、好きになれないかもね」
「そんなことは」
少し感情のこもった声だった。
わたしは彼を見上げる。
「大人になって、わたしを抱けるかしら」
試すつもりはないけど、わたしは笑っていた。
「好きなら、抱ける」
「好きになれると思うの? わたしを」
意地悪だったかもしれない、今の言い方は。
「見くびるなよ。男だから好きになったわけじゃない。きみを、愛してるんだ」




