②−7
綾瀬さんが本校の中等教育科に移籍することになっても、ぼくは所属を替えることができない。
自由科じゃなきゃ、ぼくはいられないから。
九月半ば、休み前と同じ図書室兼自習室で、ぼくは一人で勉強していた。
廊下では綾瀬さんが、仲良くしていた年下の子たちに、手作りのお菓子を渡している。
気付いたけどぼくはそこへ行かなかった。
「もう帰るの?」
校舎を出て門に向かっているとき、ここを去る人にそう言われた。
「一時間は勉強したから十分でしょ」
「それもそうか」
くすっと綾瀬さんは笑った。
そして見上げる、何年か過ごした建物を。「お世話になりました」とひとりごちて。
当たり前のように手をつないで、ほくらは駅の方へと歩いた。
大学の前を通り過ぎると、来月から綾瀬さんが通うことになっている学校がある。
「制服はもう買ったの? 確かブレザーにネクタイだったよね」
行き帰りの生徒の姿を、何度か見たことはあった。
「注文した。月末までには届くって」
「きっと似合うよ。ネクタイしてる綾瀬さん、かっこいいもの」
今着てるそれも。
「ありがとう」と、自由科の卒業生は笑う。
「なかなか会えなくなっちゃうね」
言っても仕方のないことだけど。
会えなくなれば、お互いの気持ちも冷めてしまうかもしれない。結婚の約束なんて、いつか笑い話になったりして。
「そのことなんだけどさ、雄二」
綾瀬さんは歩道の途中で足を止めた。
「一緒に暮らさないか」
「えっ」
びっくりして心臓が止まりそうになった。
「離れたくないから」
ドッ、ドッ、ドッ、ドッと鼓動を自分で感じる。冗談じゃなく本気で、すこく大事なことを綾瀬さんは言ってるんだ。
ぼくはまだ九歳で、小学校も卒業していない。
でも――
「うん!」
一緒にいる時間が、どうしてもほしかったんだ。
何かの冗談だろう、とお父さんは笑った。
「戦国時代じゃあるまいし」
ここは和室で、ぼくは座卓をはさんで向かい側にいる両親に、綾瀬さんと一緒に暮らすことを伝えたんだ。
「今後のことをレポート用紙にまとめたんだ。見てくれる?」
あの後、彼の家で、二人で話しながら書いた。
来年度、綾瀬さんは大学を受ける。家事は基本的に二人でするけど、受験が終わるまではぼくがメイン担当。
その二年後はぼくが中学校を受けるから、綾瀬さんがメインで家事をする。
(ぼくが受けるつもりのところはそう難しくないから、両立できると言ったんだけどね。綾瀬さんが引かなかった)
「まあ、月々の生活費のことまできちんと書いてあるのね。分かりやすいわ」
お母さんが感心する。
「バイトで貯めた金がこれだけあるとは。ひょっとして所得税を払ってるのか」
眉をひそめるお父さん。
「お給料の出る大学に行くつもりなのね。いろいろ考えていること」
「しかしなぁ」
顔を上げたお父さんは、ぼくの目を真っ直ぐ見て、「却下だ」と言った。
「なぜならおまえは小学生だからだ。ちょっとませてるとしてもな」
「どうしてもだめ?」
「常識で考えれば、だめなことはおまえにも分かるだろう?」
ぼくは視線の先を隣の人に移した。
「お母さんはどう思うの?」
「そうね。相手のご両親のお返事次第かしら」
久枝、とお父さんがたしなめるような声を出す。
「私は悪い話ではないと思うの。ユウちゃんは九歳だけど、実際は十二歳ぐらいの思考力はあるでしょ。お料理もできるし、外へ出して困ることはないわ」
「そういう問題じゃない」と、重い声でお父さん。
「いいか? 雄二はまだ小学生なんだぞ。何かあったらどうする」
「ユウちゃんは覚悟はできてるのよね?」
真顔のお母さん。
「そういうことは、二人とも大人になるまでしないって、約束した」
親が一番心配するのはここだ。分かってる。
「そう」
「だから許されるわけじゃないぞ。常識で考えろ」
正しい軌道に戻そうとするお父さん。
「タイミングの話じゃなく、チャンスをつかむか逃すか――そういう話だとしたら?」
ぼくはめがねのブリッジに中指をあてる。
「ユウミは普通の結婚は難しいよね。一般的な人は、あれを見て女の子と思わない――だからぼくを男の子として育ててるんでしょ、お父さん」
一瞬揺らいだ表情を見せる。
「それとこれとは話が別だ」
だめか。
「いい縁談は、あるときに成立させなければ、後悔することになるかもしれないわ」
お母さんはぼくの味方。最初から分かってたけど。
「じゃあおまえは、彼を騙して一緒に生活するつもりなのか? まだ話してないんだろう、隆夫くんには」
「じゃあ、本当のことを伝えて、受け入れてくれたら、一緒に暮らす許可をくれる?」
「向こうの親が反対するに決まっている、常識人ならば」
お父さんは腕組みをした。ブレずにいようと必死な感じ。
「あのねお父さん。人って一緒にいるから一緒にいられるんだよ。それだけもろい、ぼくらの関係は。だから、守りたいんだ」




