②−5
――もしかして隆夫が何者か知らない?
アキさんにそう言われて、その場ではわたしは聞くことをしなかったけど、気にはなっていた。
――商家の生まれなら、ある程度価値観を共有できる。
一度も考えなかったわけじゃない、その名字から。
綾瀬はこのまちの所有者の名前。わたしたちは人の土地に家を建て、税という名目で賃借料を払っている。
キッチンにある冷蔵庫も、電子レンジもポットも食器乾燥機も。それにオーディオ、ビデオデッキ、エアコン、洗濯機……。我が家の家電は基本、東綾製だ。
お母さんが好きな紅茶は、綾瀬さんの会社が輸入したもの。わたしのお小遣いを貯めている口座も、東京綾瀬銀行。
(あの“綾瀬”さんなのか)
昨日の夜、庭でたばこを吸っていたお父さんに確かめた。
「わたしが今お付き合いしてる人が誰か、知ってる?」
「名前を聞いてるんじゃなければ――いわゆる御曹司ってやつだ、彼は」
大物に手を出したな、とお父さんは笑っていた。
そのお父さんは今日、東京綾瀬グループ会長の綾瀬貴司さんに呼ばれて(執事を通して)、高級住宅街にある邸宅を訪れた。
東の大窓から光が差す、背の高い本棚の並ぶ広い空間。その応接セットで、大島紬の羽織と着物を着た男性自らが、お茶を振る舞ってくれたそう。
「何というかな、佇まいが違うんだ。この人の言うことには逆らえない――強権的じゃなく黙って人を従わせる、穏やかさの中の恐ろしさ」
「そう」
よく分からないけど。
わたしは今、あざみの繁華街にある夜景の見えるレストランで、お父さんと食事をしている。少しおめかしをして、空色ワンピースと同色のカチューシャ。めがねは外してコンタクト。
お父さんはビフテキを頬張り、わたしは付け合わせのマッシュポテトをいただいた。
「それで何か言われたの?」
わざわざ呼び出されたということは。
「よろしく、とのことだ。友人として付き合うにしろ、それ以外でも」
「わたしは隆夫さんを騙しているのに」
「そこは構わんそうだ。むしろ女の子でよかったと」
お父さんは野菜たっぷりのコンソメスープを飲んだ。
「……」
もしも子どもを作れなかったら。
お払い箱にされるのは仕方ないとしても、騙したことを咎められないかしら。
ちぎったパンを口に入れながら、未来のことを考えて心が震える。
「一つだけ言っておくぞ」
重々しい声に、わたしは顔を上げた。
「これは親としての忠告だ。隆夫くんのお父さんは、奥さんが二人いる――実際に結婚している妻と、外にももう一人。同じことを息子がしないとは限らない。耐えられるか? おまえに」
「分からない」
としか答えようがない。
でも、どこかでほっとした部分はあった。
もしもわたしが外の妻になれば、子どもができなかったとして、そう責められることはないのではないか。
隆夫さんは男の子の“ほく”を好きになったのであって、子どもがほしいとかは現時点では思っていないはず。
「嫁に行くことだけが幸せじゃない。お母さんは専業主婦だが、世の中には勤めに出る女性はいくらでもいる。仕事に生きがいを感じることも」
パセリを振りかけたライスを、スプーンですくうお父さん。
「特におまえは、これまでがんばってきただろう。これからも」
わたしはお水の入ったコップをテーブルに戻した。
「キャリアウーマンと呼ばれている人はすてきね。でもわたしの夢はそれじゃないの。好きな人に愛されて、子どもが二人いて、家族のために毎日がんばってる――手に入れられないかもしれないものは、喉から手が出るほどほしい」
言い切った後、心臓がドキドキしているのが分かった。
これが本心、わたしの。
「雄二……いや、ユウミか。俺はおまえの気持ちを知らないわけじゃないんだよ」
夏休みが終わった。
九月に入り、自由科は校舎を開けているけど、ぼくはそこじゃなく綾瀬さんちにお邪魔していた。バイトも休んで家で勉強するって言うから。
「ん、この教科書見たいの?」
綾瀬さんがお台所のテーブルで開いているのは、高校生の世界史。インディアンの格好をした人が、船の上から何か捨ててる――白黒写真が載ってるページ。
「あ、うん、いい?」
「もちろん。皆ヶ崎くんは歴史が好きなんだね」
はい、と手渡されたそれをちょっとめくり、何か探してる振りをする。
ぼくは小六社会をやりながら、中学の教科書(お父さんの本棚から借りてきた)も読んでいた。だからだろう、綾瀬さんがそういうふうに思ったのは。
本当に見ていたのは、これの持ち主。
いつか言わなきゃいけないことを、ご両親か誰かから耳にする前に、言っておかないといけなくて。
なかなかその勇気は出ないけど。
「勉強熱心だよね。ライバルがいるんだっけ?」
ぼくは前にそんな話をしていた。同い年で飛び級してる子に勝ちたいって。
「うん。まだ勝ててないけど」
「あ」
突然、目の前の人は立ち上がった。
「郵便が届いたみたいだ。ちょっと行ってくる」
「えっ」
言うが早いか、綾瀬さんは廊下の先の玄関に向かい、外へ出て階段を下りていった。
(バイクの音なんて、気に留めていなければ気がつかないよ)




