②−1
この前、運動場を走った。
他には誰もいないトラック周りを、一人で走ったんだ。全力疾走。
一周し終わった後は激しい息切れ。でも気持ちよかったんだ。本気で、真剣に走れて。
ぼくは体育が嫌いじゃないし、“みんな”のことも嫌いじゃない。学校はわりと好きだった。
でも、ここは笑う人がいないから真剣になれる。比べる人がいないから、ぼくの足が遅いことなんて関係ない。
(楽園か、ここは)
ふと見上げたとき、二階の窓には綾瀬さんがいて、ぼくに手を振ってくれていた。
台から足が離れると、まるでイルカが海に飛び込むみたいに、美しい円弧を描いて水の中に入ったんだ。
はねるしぶきも下手くそな人のそれじゃない。
入り方もきれいだったし、泳ぐときのフォームも決まっていた。
(手も脚も長いから、二十五メートルなんてあっという間)
向こう側の壁に着いて、ターンして戻ってくる。
最終的に足を底につけたとき、微笑む相手はぼくじゃなかった。
「綾瀬くんすごおい」
「めっちゃ速い!」
「ねえ、飛び込みおれにも教えてよ」
小中学生数人に囲まれて、綾瀬さんは楽しそうだ。
「……」
そこから少し遠いレーンにいるぼくは、複雑な気持ち。
(自由科に来れば、綾瀬さんを独占できると思ってた。そうでもなかったな)
海パンの上に薄いパーカを着た状態でプールに入っても、ビート板持って泳いでても、誰も何も言わないのは助かるんだけどさ。
市営の屋内プールを借り切っての授業は終わり、現地で解散となった。
バス停に向かう子、迎えにきた親の車に乗り込む子、家が近いのか歩いて帰る子……。
ぼくは今日、綾瀬さんと約束がある。
「行こうか」
高校生のおにいさんは、やっとぼくのものになった。
「うん」
市営は本町にあるけど、隣の椎野町寄り。米屋とか酒屋、喫茶店など、個人経営の店が結構並んでる。あ、ちっちゃい電気屋さんも。
ぼくが住んでるあざみとは違う。こういうとこ来るの初めて。
「ここ、オレのお勧めの店」
連れてきてもらったのは、木造の古い建物の前。一階部分は店舗、二階が家って感じ。布団干してる。
「駄菓子屋さん?」
来たことないけど知ってたのは、昭和レトロなアニメで見たことあったから。
氷の旗がぶら下がってるし、外には子どもが並んで座れるような木製の長椅子がある。
「そ。オレのお気に入り」
綾瀬さんは、するめいかを買っていた。他にも小さいお菓子を数点。
ぼくはえびせん一枚と、風船ガム二個。こういうの、よく行くドラッグストアでは売られていない。
店の正面は北東を向いていて、陰になっているから、昼が近い時刻でも暑くはなかった。
まだ幼稚園には早い、一、ニ歳ぐらいの女の子を連れたお母さんが、「ごめんください」と入っていく。
ぼくと綾瀬さんは、外の椅子に座って、かき氷を食べていた。ぼくはいちごで、綾瀬さんはソーダ。
「水泳の後のデザートは最高だね」
「まあね、エネルギー消費した後だし」
ダイエットしたいなら、泳ぐのが一番いいらしい。自由科の食事をする部屋で、中学生ぐらいのおねえさんたちが話していた。
「子どもの頃、よく友達とこういう店に行ったんだ。ここに来ると懐かしい気持ちになる」
「子どもの頃の綾瀬さんて、どんなだった?」
「そうだな。世間知らずだったかな、あんまり家から外へ出ていかなかったから」
「学校へは行ってたの?」
家から外へ出ていかなかったと言うから、ちょっと気になった。実際今、特別な学校にいるわけだし。
「行ってたよ。行ってたというか、朝支度をして車に乗って、授業を受けて、また車で帰ってくる。決まりきった毎日の用事――決して積極的に通っていたわけじゃなかった」
「車って。歩いて行けないような、遠いところに通ってたの?」
ぼくはシャリシャリを口へ入れる。だいぶ涼しくなってきたな。
「私立だったから」
「そっか、なるほど」
都心の方だと、小学校から子どもを私立へ入れる親も珍しくない。要は小学校受験をするか、中学受験をするか。どっちが楽なのか、ぼくには分かんないけど。
「皆ヶ崎くんはどんな子どもだった?」
やさしい笑顔をぼくに見せる綾瀬さん。カップの中はもう、ぼくより減ってる。
「幼稚園の頃……、お遊戯や外遊びがあんまり上手じゃなくて、ぐずでのろまと言われてたなぁ。ハハ、いい思い出ないや」
最後の年、小学校入学前、お母さんに告げられた事実は衝撃的だった。幼稚園時代の記憶の中で、一番はあれに尽きる。
「きっとかわいかったと思うよ、きみは」
微笑む綾瀬さん。
「……」
冷静になってみると、ぼくみたいな八つも下の子ども相手に顔を赤くしたり、かわいいと言ったり。余計なことを考えないわけじゃないんだ――このおにいさんは小児性愛者だって。
実際この前、ぼくに手を出したしね。
「あのね、綾瀬さん。ぼくさ、いつかお嫁さんになりたいの」
その言葉の意味を、綾瀬さんがどう捉えるかは分からない。ぼくは皆ヶ崎雄二という、男らしい名前だし。今日だって短パンをはいてきてる、キュロットじゃなく。
「もらってくれる? 大人になっても愛してくれる?」
ぼくは、恋人を見つめた。
言葉じゃなく、キスでお返事をくれた。その後は笑顔。
「約束だよ」
二人で小指を絡める。
ごめんね綾瀬さん、騙して。




