第一話 安寧の崩壊
セノ・タネコは家を出て、ボロボロの着の身着のまま、喧騒が響く夜の繁華街を彷徨っていた。
道行く通行人は怪訝な表情で彼女に目を向けるが、やがて眼を逸らし、各々の目的の地へと向かっていった。
そんな彼らに対して、目的の無いタネコは、空腹と緊張によって朦朧としながら、往来を歩き続けていた。
「キミ……止まって」
無関心と空虚が売りの夜の街。しかし、タネコはまだ十歳を超えていない年つき。流石に誰かが通報していたのであろう。
警官二名のタッグが、腰に手をやりながら彼女に話しかける。
虚ろな表情のタネコは、興味無さげなに警官を見上げていた。
「何してるの? お父さん、お母さんは?」
その言葉を聞いたタネコは恐慌状態に陥った。
あの地獄のような環境に連れ戻される——そう感じた彼女は、警官の手を離れ、暗がりに駆け込もうとした。
しかし、幼子の逃走など、警官にとってはトラブルに数えるまでもない。数歩も進まない内にタネコは警官に腕を掴まれ、そのままぬいぐるみを持ち上げるようにして抱きかかえられた。
「大丈夫、大丈夫……」
警官は何度もそう呟いた。やがて暴れていたタネコは空腹と眩暈によって限界を迎え、そのまま動きを小さくしていく。
遂には、死を悟った小動物のように完全に動きを止め。そのまま身をゆだねるよう警官の肩に頭をおとした。
「虐待でしょうね。これは親が引き取りに来ても、簡単には引き渡せませんよ」
「おいおい……ガリガリじゃないか。とりあえず、署に連れて帰ろう。確か、ドーナツが戸棚にあったはずだ」
「すきっ腹にいきなりドーナツはマズイですよ。もっとお腹に優しそうな——」
警官の会話を聴きながら、タネコはそのまま腕の中で眠った。
長い間地獄のような環境下に身を置いていた彼女は、自分が安全な場所に送られるなど微塵も思っていなく、意識を消失するその狭間まで。深い、とても深い絶望の中にいた。
△
タネコが警察署で目を覚ますと、多数の婦警から甲斐甲斐しく世話をされた。
最初は警戒していたタネコであったが、警察署にいる人間と暫く話しをしてみて、ようやく彼女は警察の人間が良識のある人たちであること、そして、自分の身の安全が確保されつつあることに気が付いた。
その次の日には、タネコは警察病院へと搬送された。タネコの顔には、父から殴られた痛々しい痣があって、栄養失調が著しい状態だったからだ。
警察はその状況証拠から、タネコの両親がタネコを虐待していたことは疑いの余地が無いため、引き合わせることはしないと安心させるようにタネコに告げていた。
それに、両親は火事のあと、何処かへ雲隠れした模様で、その所在が明らかになっていない。
もう永遠に出会うことは無い気がする。なんとなく、タネコはそんな気がしてならなかった。
それと、賢いタネコは分かっていた。自分がいずれ、この安全が確定されている警察病院から離れなければならないことを。
タネコは媚びるように子供らしく振舞い、それを引き延ばそうとしたが、簡単にはいかなかった。
体調が完全に回復した二週間後の午前中。タネコの親戚だと名乗る白髪の男性、老人が一人。警察署を訪れた。
その老人をタネコは見たことがあった。
まだ両親が親戚と親交を保っていた時代。新年の集まりで顔を出していた男だった。
タネコの記憶では、その老人は父方の祖父だった筈だ。
あの暴力的な父の、父親。タネコは緊張し、引き渡しをする警官の服をずっと掴んで離せないでいた。
「タネコ」
名前を呼ばれ、震えながらタネコは顔を上げる。
祖父は、感情の読み取れない表情で、一言。
「喫茶店だ。メシを食いに行くぞ」
背を見せ、歩き出した老人。困ったような表情の婦警。
困惑と緊張のまま、タネコはその背を追って、一歩踏み出した。
△
喫茶店に到着すると、祖父はドアから一番近い、日当たりの良い席に座った。
タネコが追随すると、テーブルを拭いていた中年のウェイトレスがにこやかに近づいた。
「あら……お孫さん?」
「ああ」
短く返答をした祖父はメニューを受け取るなり、それをタネコへと手渡した。
「何がいい?」
メニューを手渡されたタネコが何も言えないでいると、ウェイトレスの中年女性が助け舟をだした。
「このオムライスが若い子には人気よ」
オムライス、と聞いて。タネコは生唾を飲み込むのを堪えていた。
オムライスは、かつてタネコの大好物であったからだ。
しかし、お金を出すのは祖父だ。タネコが祖父を見やれば、祖父は見透かしたようにウェイターを見た。
「それをくれ」
「シゲさんは?」
「コーヒー」
「それだけ?」
「ああ」
料理が出されるまでの待ち時間、タネコは祖父と会話を交わさなかった。
気まずい空気感のまま、タネコは机の模様をずっと眺めていた。その心中にあるのは、これから辿る自分の未来が如何なるモノか、その一点だった。
「お待ちどうさま」
机の模様が映っていた視界に割り込むように、オムライスが運ばれてくる。
タネコの記憶と違って、オムライスは赤いケチャップではなく、茶色いデミグラスソースがかけられていた。
「えーと……気まずそうね? ふふっ」
ウェイターは祖父にそんな軽口を吐いていた。
祖父がコーヒーを啜る音。タネコは祖父へと視線を映そうか、迷っていた。
動悸が加速する。茶色いソースのオムライスは、ここ数年嗅いだことのない、悪魔的なまでの匂いを放っていた。
「食べろ」
命令系に近い口調。だが、タネコにとってはありがたかった。
長い期間、彼女は両親から命令だけを与えられ、それから外れることを一切許されていなかったからだ。
オムライスを口にして。タネコは思わず涙を流していた。
それが、タネコの記憶にあったどんな料理よりも、おいしかったからだ。
止まらないスプーン。みっともない姿を見せるわけにはいかないのに、タネコは本能のまま
やがて空になったオムライスの皿。
水のコップに手を伸ばそうとした時、遂に祖父が口を開いた。
「すまなかったな」
タネコが顔を上げる。
「ウチのクズが、迷惑をかけたらしい。その分、俺はお前に償いをしなくてはならない」
そのタイミングで、タネコはたまらず口を開いていた。
「それは……」
タネコの両親との幸せだった期間は、唐突に終りを告げた。
それを実際に身に染みて体感した彼女は、聞かずにはいられなかった。
「いつまで?」
祖父はそれを聞いて、メニューをズッと差し出した。
「俺が死ぬまでだ」
タネコはその日。
喫茶店でオムライスの他にパフェを二杯食し、腹を下した。
△
祖父の言った通り、タネコの扱いは真っ当なモノであった。
祖母は亡くなっていたので、広い屋敷に二人暮らし。
慣れないながらも祖父によって用意された食事は、三食にデザートまでつけられ、タネコにとってもそれは天国のような環境に等しかった。
祖父は口数は少ないが、思いやりがあった。それを感じ取ったタネコが祖父に心を開くまで、時間はかからなかった。
ある日、書斎で何やら執筆をしている祖父の前にタネコが姿を現し、甘えるように膝の上に乗ったことがあった。
すると祖父は、別に邪険にするでもなくそのまま執筆を続けていた。
受け入れられている。その確信を得たタネコは、今まで抑えていた感情を祖父にぶつけた。
猫のように甘えるようになったタネコに最初は困惑していた祖父だったが、彼は戸惑いながらもタネコを可愛がった。
そんな日々が続いていたある日。祖父はタネコに、とある話題を切り出した。
「……お前、学校に行きたいか?」
それは、学校のことだった。タネコは現在八歳になろうとしている。
しかし、以前の両親の影響で一度も学校には通っていない。
詳しい情報も与えられていないタネコは、学校というモノをどう評価し、判断すればいけないか分かっていなかった。
「おじいちゃんに決めてほしい」
タネコがそう口にすると、祖父は悩むように天井を仰ぎ、
「お前は賢い子だ。しかし……」
「行くよ」
タネコはそう口にした。何となく、祖父が学校に通わせたがっていると、そういう風に解釈したからだ。
実際、祖父は安心したようにタネコを抱き寄せた。
△
学校はタネコにとって、未知のことの連続だった。
同年代の子供たちがクラス分けされ、教師という存在の指揮の元、勉強を受ける。
食事も多数の人間ととり、教師の指揮の及ばない範囲でもコミュニティが形成されていた。
タネコはスタートダッシュで他の者達と勉強が二年遅れていたが、天才であった彼女は二週間で教科書を全て読み解き、同年代の範囲に直ぐに追いついていた。
そこまでいけば、当初は溶け込もうと必死であった彼女にも、余裕が生まれ始めた。
そうなれば彼女も。日常に乗じて、多少の〝お痛〟に興じたりはする。
タネコはその持ち前の頭の良さを使って、クラスメートに関する情報収集と、人心掌握に着手し始めた。
時には自らの手を下すことなく、教師を悪者にして泣かせたり、自分が主導で行った事件を自分で解決したりしたのだ。
ちょっとした工夫を行うだけで、面白いくらいにクラスメートを操作出来た。
これは、彼女自身が長期間にわたり、〝支配〟をされていた経験が大きかった。彼女は齢八歳ちょっとにして、どうしようもなく精神的に歪んでいたのだ。
だが、それでもタネコはあまり大ごとになることは避けていた。
日常のお遊びレベルに留め、逆に自分が関与していなくとも大ごとになりそうな事案は事前に防いだりしていた。
それは、祖父の影響が強かった。無骨で愛情表現が下手くそな彼をタネコは慕っており、心配をかけさせたくなかったのだ。
彼女にとって少し退屈で、怖いくらい平穏な日常。そんな呆けてしまいそうになる日々を過ごしている時だった。
タネコと祖父が暮らす家に、招かれざる客が訪れたのだ。それも複数の、だ。
「シゲオ、話がちげぇぞ! いつになったらその子を〝戦士〟にするんだ!」
「私たちが楽園に行けなくていいの!?」
家の玄関に、いきりたった親族が押し掛けたのだ。
怯えたタネコが祖父の後ろに隠れると、祖父は強い口調で親族たちに言った。
「改めてくれ。タネコが怖がっている」
「お前もアレか? ドラ息子と一緒で子どもを独り占めにしようってか!」
「永遠を手に入れるチャンスなのよ!?」
そんな興奮した様子の親族たちに向け、祖父は、
「帰れ」
祖父が言うと、親族たちの表情が一変した。
「そうかそうか……お前も……分かった、分かった」
親族たちは憎悪をにじませたような表情を浮かべた後、乱暴に扉を閉めて帰っていった。
タネコがホッとするのも束の間、祖父はタネコの腕を掴んだ。
「タネコ、逃げるぞ」
「……え?」
「俺はお前に……話さなくてはいけないことがある」
祖父は困惑するタネコを引っ張って、車に乗せた。エンジンを始動させ、直ぐにアクセルペダルを踏み抜いた。
急加速する車両。ガコンッという音をたてながら、車両は暴れるように公道に躍り出た。
「お、おじいちゃん……危ないよ」
「連中は気がふれている。永遠の楽園なんざ、この世には存在しないというのに」
「えい……えん?」
暫くの沈黙の後、タネコは祖父に質問した。
「どこへ行くの?」
「お前の〝本当〟の両親のところ、へだ」
本当の……両親?
タネコは、途端にあの地獄のような光景がフラッシュバックして、助手席で暴れ出した。
「いや、いやああ!」
「タネコ!」
祖父に抱き寄せられ、タネコはようやっと落ち着きを取り戻していた。
祖父の顔を見上げれば、彼はこれ以上ないくらいに複雑な表情を浮かべていた。
そして、祖父は衝撃的な発言をもたらした。
「お前の本当の両親は、わしの息子ではない」
「どういう……こと?」
「息子の嫁の……妹から、手紙が届いていた」
そこで明かされた真実は、タネコにとって酷すぎるモノであった。
実は自分は瀬野家で生まれた子供ではなく、母の妹によって、他家の子どもとすり替えられた子供であった、ということだ。
そこまで聞いて、ようやくタネコは自分がセノ家と血縁が無いこと。
それが原因で自分があのような仕打ちを受けたことを察していた。
「手紙がきてから、数年ぶりに息子夫婦を尋ねた。その時、息子夫婦はお前を元の家族に帰したと言っていた。その時に気が付けばよかった。本当に申し訳ない」
「本当の……」
「なんだ?」
「本当の両親だったら酷い目にあわされない?」
「それは分からないが……だが、お前の両親はお前が死んだと思って、ひどく悲しんだと言っていた」
「おじいちゃんと一緒じゃダメなの?」
「……」
「おじいちゃんは私と血のつながりがなくとも大事にしてくれた! それを本当の家族がしてくれる保証はあるの!?」
タネコは、あまりにも長い期間虐げられていた。
だから彼女は、他の家族で上手くやっていけるか、自分を愛してくれるかが分からなかったのだ。
それに、本当の両親の元で、再びあのような仕打ちを受ければ、自分はもう生きれなくなってしまう。彼女はそのことを身に染みて分かっていた。
「タネコ……」
祖父はハンドルを握りながら、沈痛な面持ちだった。
「とにかく、一度会いに——」
祖父が言い終わる前だった。
信号で停車した車の腹に、車両が突っ込んできた。
あまりの衝撃に、タネコの意識は一瞬にして刈り取られた。
△
目が覚めると。
タネコは血まみれの祖父と共に、複数人が乗るバンに乗せられていた。
手にはロープが結ばれ、そのことより、タネコは血まみれの祖父を案じて叫んだ。
「おじい——」
「黙れ!」
頬に理不尽な衝撃。タネコは久方ぶりに感じる容赦のない暴力に、身がすくむような思いだった。
「大丈夫……大丈夫」
祖父は寝言のようにそんなことを呻いていた。タネコはそっと祖父の腕にすがりついた。
これから何が待ち受けていているのだろう。
タネコは確かな絶望感の中、自分に最後まで温かく接してくれた人の体温を、必死に得ようとしていた。
やがて、車両は、闇に呑まれたように陰気な雰囲気を漂わせる、山中の宗教施設にたどり着いていた。
広大な敷地面積を誇るであろう、高い壁に囲まれている施設。
車両が侵入していくと、途端に車両に乗っていた親族たちは緊張した面持ちを浮かべていた。
「おい……これから騒ぐなよ。騒いだら殺してやるからな」
どうやら、親族たちは密やかにこの施設に侵入を果たしたようだった。
タネコが頷くころには、車両は停止していた。
血を流す祖父を残し、車両を降りると。親族たちはタネコを覆い隠すようなフォーメーションをとり、足早に宗教施設に踏み入った。
施設の内部は電機が消えていた。おそらくもう稼働時間を過ぎているのだろう。
お香のような独特な匂いが蔓延した施設内を、タネコと親族たちが進んでいく。
「試練の間は?」
「地下だ」
「だからそこの道だよ」
「うるせえな……今探してんだろう」
「おい、これじゃないか?」
タネコを連れた親族たちは、薄暗い地下へと続く階段を降りていく。
到着したのは、漆黒を体現したかのように闇をはらんだ空間だった。
親族たちの一人が、懐中電灯の明かりだけでなく、ランタンを灯す。
すると、その空間の全容が明らかになった。
赤いカーペットの敷かれた、祭壇のような場所だった。
その先には——タネコが未だかつて見たことがないような物体が佇んでいた。
「ひっ——」
タネコが悲鳴を漏らした。彼女の眼には、それはひどく禍々しいモノに見えたからだ。
それに拝むように膝をつく親族たち。タネコの目には、それは顔の無い、〝人型の異様な何か〟に映っていた。
「来い」
親族たちはその人型の何かに向けてタネコを引っ張っていこうとする。
タネコは怯えていると、再び容赦の無い拳が彼女の顔に打ち付けられた。
「殴り殺しても良いんだぞ?」
強い剣幕に、たまらず足がすくむタネコ。
彼女は結局、運ばれるようにして人型の何かのもとに連れていかれた。
「おい、コックピットが開かないぞ」
「どうしてだ……?」
何やら親族たちが揉めているようだった。
タネコは血を流しながら、ぼんやりとしたように抱えられていた。
「あーチクショウ! ここまで来たんだ、無駄足なんて嫌だぜ!」
「信者の誰かをひっ捕まえて……」
そんな会話をしていた時だった。
突如として、人型の何かの腹部分が、プシュッと音を立て、開放されたのだ。
それに感激したように親族たちは膝をついていた。
「モルガンの思し召しだ……」
「神よ……」
「祝福してくださっている」
続いて、親族たちは満足気に立ち上がると。困惑するタネコがその人型の腹、開放部分に入れられそうになった。
タネコはその人型の何かに飲み込まれそうになる予感がして、
「暴れるな!」
コックピットに押し付けられ、親族たちから容赦の無い拳を打ちつけられた。
何度も何度も。泣いて懇願しても
「あああああ、いやああ! お、おじい——」
タネコがこの世で最も信頼し、愛する人物に助けを請おうとした時。
「辞めろ!!」
手にロープをされた状態で、満身創痍の状態の祖父がその場に現れた。
ピタリと暴力を振る手を止める親族たち。
やがてその狂気的な視線は、タネコから祖父に向けられていた。
「いやああああ! おじいちゃん逃げて!」
彼女は自らの助けより、祖父の身を案じて叫んでいた。
魂の叫びは、振り返った親族の放った一撃によって、
タネコは血を吐きながら、コックピットのシートに叩きつけられ——。
彼女が意識を消失する狭間。コックピットは緩やかに閉じられていった。
「タネコ! 強く生きろ!」