プロローグ
セノ・タネコはズセ県ハナムラ市の郊外に位置する、人口数千人の小都市の病院で生を受けた。
出生体重は二千三百グラム。平均を下回る体重だったが、生まれてから良く泣き、よく動き、病院で一番に元気な乳児だと評価を受けていた。
セノ・タネコを取り上げたのは彼女の叔母にあたる人物だった。
タネコの両親が希望し、意図的にそのような段取りがなされたのだ。
タネコの叔母は産婦人科に勤務してから間も無いため、本来はあり得ない措置である。
だが、それが実行されたのはタネコの両親が所属している、とある巨大な宗教団体が関係していた。
ゾルクセス。黒亜内外で活動する、巨大な資本と組織力の割には、あまり存在が知られていない謎多き宗教法人だ。
実はハナムラ市の住人は多くの人間は、ゾルクセスと関連があり、その影響力は町の医療を一身に請け負う病院も例外ではなかった。
ゾルクセスの教義には、我が子はなるべく親族によって取り上げよという条文が存在する。
それが多くの信者を病院で働かせている要因の一つでもあり、タネコの叔母もその宿命にさらされた一人であった。
タネコの両親はタネコが生まれてその胸に抱いた時、歓喜のあまり涙を流していた。
それは、不妊治療の末生まれた待望の我が子だったという理由もあるが、その裏に隠されたもう一つの理由が大きかった。
生まれて来たのが、タネコの両親である夫婦の望み通り、〝女の子〟だったからだ。
ゾルクセスではエルフライドに乗せる戦士を育てることが誉れとされている。
エルフライドは小駆の者しか動かせない為、女児が望ましいと教典にも記されていたのだ。
それに、〝時期的〟にも完璧だった。教典にはこうも記されている。
〝宇宙からの侵略者が一九八四、十二の月にやってくる。モルガンの子らは来るべき聖戦の日までに、戦士となる子を育て、備えよ〟と。
つまり、タネコの両親は、戦士として年頃の十一歳を迎える絶妙なタイミングでタネコを生むことが出来たのだ。
ゾルクセスの殆どの人間は、戦士としてではなく、そのサポートとして生を受ける。
来るべき日の為に生まれてくる戦士を守る盾として、その使命を全うする為に人生を捧げるのだ。
しかし、我が子は違う。誉れある戦士の子として、生を授かることが出来た。
その事実が夫婦の感動を増大させ、身も心も天に飛び立ってしまうかの如く歓喜していた。
タネコの両親だけでなく、親族関係も沸き立っていた。
病室は歓喜を越え狂気とも言えるような熱気包まれていた。
「我が一族から戦士が出るとは!」
「彼女が我らを永遠の楽園に連れて行ってくれる!」
親戚の一人が叫ぶように言った。タネコはそれに驚いて泣いていた。誰もあやす者はいなかった。
ゾルクセスの教義には、〝戦士がこの地球を救いし時、その一族から末裔に至るまで、褒美としてモルガンから永遠の命が与えられるだろう〟という一文が存在する。
タネコが自分たちを永遠の楽園に連れて行ってくれる。
タネコの親族達は総じて、生まれたばかりの乳幼児であるタネコに対し、狂気じみた重さの期待をしていた。
それこそ永遠と錯覚するような歓喜の情景。
しかし、彼女を取り上げた本人である叔母だけは、周囲に感づかれないよう、浮かない顔を浮かべていた。
実はタネコの出生には、とてつもない大きな秘密が隠されていたのだ。
△
タネコは生まれてこの方、誰もが感心するような利口な子供だった。
一歳をまわる頃には簡単な単語を喋り初め、二歳を過ぎた頃には九九を暗記、三歳を迎える前にはが出来るようになっていた。
ゾルクセスに伝わる秘伝エルフライド搭乗による〝深層領域〟の恩恵を受けていないのに、この知能。
そんなタネコを両親は戦士として逸材だと信じ、溺愛していた。
人目を憚らず娘を褒め称え、好きな物を買い与え、セノ家の日常は娘中心の生活でまわっていた。
「その王様は猫の王様です。彼はニャハハと笑い、髭が生えていて、ネズミ捕りの名人でした」
夜はタネコが大好きな絵本を気の済むまで読んで貰い、三人で仲睦まじく川の字で寝る。
その溺愛ぶりは凄まじく、近所からも有名で、一般家庭からすれば微笑ましいものであったが。ゾルクセスにどっぷりと浸かった親族一同の価値観すれば、それは問題であった。
本来、戦士として育てる子供は厳格に、厳しく育てねばならないからだ。
しかし、タネコの両親は聞く耳をもたなかった。
「ウチの娘は他の子供と格が違うんだ。口出ししないでくれ」
タネコの両親はそう突っぱね、変わらずタネコを溺愛していた。
次第にセノ家は親族からも顰蹙を買い、疎遠になっていった。
それでもタネコの両親は変わらなかった。
天才である娘は特別。私達はゾルクセスの中でも、この上ない幸せを受けた。
そう信じてやまない両親は、タネコを姫のように扱い、甘やかした。
賢いタネコはその状況が芳しくないことをなんとなくだが、しっかりと分かっていた。
しかし、口には出さなかった。生まれて数歳の子供が、両親から受ける愛情を拒むことは無いからだ。
タネコにとって、たまにしか合わない親族よりも、両親から受ける愛情の方が重要だったから、という理由もあった。
このままこんな幸せがずっと続いていくのだろう。
そんな風にタネコは思っていた。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。
幸福に満ちた日々を絶望へとたたき落としたのは、一通の手紙だった。
その手紙の送り主は、手紙を送った次の日に自殺した叔母からだった。
△
タネコの両親は手紙の内容を見て、顔を青ざめさせ、絶望としていた。
その手紙に書かれていた内容があまりにも衝撃的だったからだ。
手紙には、タネコが、タネコの両親の本当の娘ではないこと。
取り上げて保育器に入れてしばらくすると赤ん坊が亡くなっており、そのことを知れば姉であるタネコの母親が絶望すると思って、咄嗟に他の保育器の子供と入れ替えたこと。
それから自分が良心の呵責に苛まれ、どうしようもなくなって鬱病を発したこと。
これから自分は罪を償う為に死のうと思っていること。
タネコを元の家族に返してあげてほしいことなどが綴られていた。
タネコの両親はそれを見て、半日以上リビングから動けないでいた。
涙が枯れない両親を見て、異常を感じ取ったタネコは状況把握が出来ないまま両親に話しかけた。
「どうし——」
「触るな!」
初めて声を荒らげる両親を見たタネコは、困惑した。
それと同時に、嫌な予感を感じていた。これから自分はこの二人から愛情を受けられるないのではないだろうか?
今まで散々二人の愛情を浴びてきたタネコにとって、それは恐怖以外の何物でもなかった。
最悪なことに、それは的中した。
両親はその日以降、タネコの存在を無視するようになった。
食事も用意してもらえず、タネコは毎日両親に許しをこいた。
その度に両親はこんなことを口にした。
「なんで謝ってくる?」
「……え?」
「なんでだ!」
「え、えっと……ぐす、お父さん、お母さんが私に怒っているからです」
「だ、か、ら! お前はなんで俺たちが怒っているのか分からないのか?」
「わ、分かりません……」
「それも分からないくせに喋りかけてくるな!」
夫婦には、タネコを本当の両親に戻すという選択肢もあったのだろう。
しかし、タネコの両親はそれが自分たちのプライドが傷つけられると思い、許さなかった。
それに、彼女を大切に育てるメリットも最早存在しなかった。
タネコは自分たちの血筋ではない。
つまり、仮にタネコが戦士となって英雄になったとしても、セノ一族ではなく、何処ぞの一族が棚ぼたで永遠の命を得ることになる。
だったら、英雄として育たないほうがいい。
タネコの両親は、そんな奇しくも狂った考えを肥大させ、醸成させていった。
しかし、一時は大切に育てていた娘だ。
勝手ながら、タネコの両親はいつも家の端で正座をして泣いているタネコを見て、流石に良心が痛んだ。
次第に両親は硬化しきっていた態度を緩和していく。
タネコは歓喜し、縋るようにして両親に毎日許しをこいた。
言われずとも家の手伝いをし、その分量は日を追うごとに増え、まるで家政婦のように振る舞った。
そんなタネコに対し、両親は時折話しかけてくるようになった。
タネコは確かな手応えを感じ、より関心を得られるように二人に健気に尽した。
しかし、タネコにとって最悪の出来事は続いた。
タネコの母が第二子を授かったのだ。
その日から、夫婦にとって再びタネコの存在は見えないモノとなった。
△
タネコが生を受けてから七年が経過しようとしていた。
彼女は肉体的にも、精神的に疲れ果てていた。
知恵をつけさせない為に学校に通うことは許されず、勿論外に出る事も許されなかった。
そんな彼女はずっと、幸せな〝三人家族〟が暮らす家の中で身をちじこませながら、家政婦のように生きていた。
タネコは家の掃除をしながら、弟を溺愛する夫婦の姿を横目で眺めていた。
タネコはそれを見てなんとなく、両親からもう二度とあの大きな愛情を受けることは出来ないのだろう。
そう感じ取っていた。
「男の子だが、この子は成長が早い。規定の百二十センチには届くだろう。順調にいけば戦士として間に合うな」
「ええ。きっとモルガンが私達に祝福をくださったのよ」
夫婦のそんな会話を聞いて、タネコは自分が二人から再び愛情を受けられないかヒントを得ようとしていた。
彼女は知恵をつけさせないように両親から情報を絶たれていたが、生まれながらの天才だ。
少ない情報を組み立て、整理し、現在の自分の置かれている状況と、夫婦の望んでいることを探っていた。
しかし、いくら考えても両親が自分を突き放した理由がタネコには分からなかった。
叔母の自殺が関連していることはなんとなく察しがついていた。
だが、それが自分とどう関連するのかが分からない。
そのことを突き止めてしまえば、更なる最悪の未来が訪れる。
天才のタネコは、そのコトもなんとなく分かっていた。
△
ある日、遂にタネコは両親に対し、意を決してアクションを起こすことにした。
タネコは一家団欒をしていた三人に土下座をしながら話しかけた。
「ヒトシ様、ミカ様、どうかお話をきいてください」
両親に対し、敬称を使う。これは、〝あの日〟より両親がタネコに自分たちを父、母と呼ぶのを禁じていたからだ。
両親は鬱陶しげに顔を向け、幼い弟は不思議そうにタネコを見ていた。
「なんだ? さっさと話せ」
ぶっきらぼうに言った父に対し、タネコは言葉を繋げる。
「私は戦士として、お二人に、引いてはゾルクセスに対してもお役に立てます」
タネコの言葉に、両親は驚いた顔を浮かべていた。それも当然だ。
両親はゾルクセス関連の情報はタネコの前では最小限にし、与えないようにしていたからだ。
タネコは永らく使用していない声帯をフル稼働させ、これが最後のチャンスだと思って口を動かした。
自身の有用性について、それがどのように両親のメリットになるかを懇切丁寧に話した。
「どうか、ご一考のほど、よろしくお願いします」
深々と頭を地面につけたタネコ。
しばらく沈黙が漂った後、父が放ったのは、
「お前は悪魔だ」
の、一言だった。
思わず顔を上げたタネコの目の前には、何も感情を秘めていない両親の顔が並んでいた。
悪魔の意味がわからなかったタネコであったが、それが自身を貶す意味合いだというのは両親の顔を見てタネコは理解していた。
「俺たちの少ない会話を盗み聞いて、そこまで会話をまとめたのは褒めてやる」
そこから先の父の言葉は耳に入ってこなかった。
タネコは絶望の淵で、幸せだった頃の情景を思い出そうとしたからだ。
だが、その記憶も既に掠れていた。
それを塗り替えるくらい、多すぎたのだ。彼女にとって辛かった時期が。
気づけば、無邪気にフォークを持って近づいてきた弟が視界に入っていた。
「あくまー」
父の言葉を真似たのか、幼い弟のそんな単語に、タネコは背筋をゾクッとさせていた。
「……やめて」
「あくまあくまー」
弟はタネコにフォークを突き立てた。
「やめて、いたい!」
もちろん両親は注意しない。
面白がった弟は更にタネコにフォークを突き立てた。
「あく……」
「やめてぇっ!」
耐えかねたタネコは弟に張り手をくらわしていた。
バチンッ。
弟は尻餅をついて倒れ、やがて大粒の涙を浮かべ始めた。
「うわあああん!」
タネコはその瞬間、青ざめていた。
次の瞬間、何が起こるかを瞬時に理解したからだ。
「お、まえぇっ!!」
父が大股で近づいてきて、タネコを殴った。手加減など感じさせない鈍い音がリビングに響き、タネコは鼓膜を破裂させながら、一瞬気を失った。
意識が戻った時、タネコは髪を掴まれて、階段下の収納部屋にゴミの様に投げ捨てられていた。
乱暴に扉が閉じられ、鍵が閉まる音がした。
タネコは暗く、狭い空間で暫く動かなかった。
しかし、やがて体を起こすと。
あらかじめその空間に隠しておいた懐中電灯を取り出し、明かりを灯した。
白色電球に照らされた彼女の表情は、以前のモノとは違った。
頬は赤黒く腫れ、耳からは血を流し、目は暗くよどみ、絶望の中に憤怒を思わせるような不思議な色を瞳に灯していた。
そこで彼女は、狭い空間の端に転がる、誇りを被った。とある絵本を見つけていた。
それは、ニャハハと笑う猫の王様が主役の、かつての自分が大好きだった絵本だった。
タネコは徐にそれを手に取り、ホコリを払ってページをめくってみた。
「その王様は……」
タネコはその先が読めなかった。彼女は文字を習っていない。故に、記憶に深く刻まれたあるワードを口にした。
「ニャハハ……」
何度も耳にした絵本だ。文字は読めないが内容は覚えていた。
猫の王様は悪いネズミ一家を退治し、とある猫を救い出す。
その猫は後々、自分の家族、家臣となって重要な役割を果たすのだ。
「猫の王様はネズミ捕りの名人です」
タネコはそんな言葉を口にしながら、階段下に空間に貼ってある壁紙を剥がした。
「お前の全てを奪ってやるチュー。ちゅう、ちゅう」
そこにあったのは、タネコがあらかじめ壁に開けていた穴だった。
タネコは最悪自分がここに閉じ込められることを想定し、両親の不在時に壁に穴を開けていたのだ。
「そこには悪いネズミたちの一家がいました。猫の王様は悪いことをするネズミ一家が許せず、たまらず駆け出しました」
穴は隣の客間のクローゼットへと通じていていた。
タネコはそこから窓枠へとよじ登り、鍵を開け、窓を開け放った。
彼女は数年ぶりの外気が肺に新しく感じていた。
客間から外に出れば屋根付きのガレージだ。
外は夜で、住宅街からは明かりが見えていた。
「この野郎、お前だけは許さないぞ、ネズミ一家。ニャーニャーニャー、ちゅう、ちゅう、ちゅう」
タネコはそのまま思い立って、車のガソリンタンクを開けた。
ガレージの隅に転がっていたポンプを取り出し、家の外壁にまんべんなくふりかける。
「そこでは猫とネズミの大合戦が巻き起こりました」
タネコはポケットからライターを取り出していた。
△
数分で家は、爆発するように燃え上がっていた。
消防車の音がきこえるくらいには、野次馬達が群がっていた。
タネコは野次馬の影から、ずっと物語の内容を口にしていた。
「ネズミ一家はこらしめられ、やがて力尽きましたとさ。そこで猫の王様は言いました」
拳をあげて、タネコは大声をあげた。
「ニャハハ、大勝利だ!」
野次馬の数人が顔を向けてきたが、やがてその視線は炎上する家へと移されていく。
そんな時だった。
「お前は……」
ふと、父の声が背後から聞こえた。
タネコが振り返ると、父は煤だらけになり、弟を抱えていた。横には同じく煤だらけの母がいた。
「お前は悪魔だ」
それだけ言って走り去って行く両親達。
それが、タネコが見た両親の最後の姿だった。
そして、父の言う通り。タネコは、確かにその時から悪魔をその身に宿していた。