猫と鍵 3
次郎丸が続けた。
「だから女御が怒ったのじゃろ」
「鍵を盗んで逃亡した猫などいないぞえ。それは梅壺の猫ではないと梅の木は申しておるぞえ」
なるほど、と侑子は合点がいった。
梅壺の女御が怒ったのは、梅壺の猫は大人しくしていて脱走していないと思っていたからだ。冤罪だと怒るのは仕方ないが……。
「少しも女房の言うことを疑わないのは、良いことなのか悪いことなのか」
素直な人かもしれないが、ものすごく騙されやすそう……というか、一方の話だけを聞いて相手を嫌ったりしそうだ。
とにもかくにも、侑子がすべきは梅壺の女御の人となりを推測することではない。
「それで、猫は?」
太郎丸と次郎丸に結論を早く言うよう急かす。
「弘徽殿の下へ逃げて行ったようだ」
聞いた侑子は二匹を回収し、早々に梅壺から離れた。
殿舎から降り、侑子は弘徽殿へ向かって庭を突っ切るようにして移動する。
周囲に人気はないので、この方が早くて楽だ。
その途中で、ふとささやき声が聞こえる。
――ころころ転がって。
――猫に蹴られた。
――置き去りにされたのは猫の玩具。
侑子の視線がすっと地面の上をすべる。
そうして月明かりの中、白砂と前栽の境目に、金属が転がっているのを見つけた。
拾い上げてみると銅の鍵だ。
「これではないかしら。蔵人達が探していた鍵というのは」
早々に見つかったのは良いが、そこで少し逡巡する。
「……置いておくべき?」
場所だけを知らせて、それで終わった方が侑子は楽なのだ。
しかし放置している間に、誰かに拾われてまた行方不明になったり、猫がきまぐれで再びどこかへ運んでも困る。
けど、鍵を侑子が渡すというのも……。
悩んだ末に、侑子は鍵を拾ったうえで麗景殿の自分の曹司に戻った。
もちろん北庇から昼御座を通り抜けて、だ。
すでにあの掌待は見張っていないようだったが、念には念を入れるべきなので、しっかりと自分が出入りしていない風を装う。
そうして『花守の典侍』から預かったことにして、懐紙に包んで文の形に結んで渡そうとしたのだが。
「あらおかえりなさい、五条の君」
自分の曹司の前、昼御座の中に座っている人物に迎えられた。
五条というのは、侑子の身元引受人ということになっている『五条の御息所』にちなんでのことだ。
侑子は御息所の女房として雇われているのだ。
元は「五条の御息所の女房だった」という経歴を装い、入内のために人手を求めた麗景殿の女御の所へ上がった……ということになっている。
一度別の所へ勤めたという経歴を作っておけば、山寺に放置されていた経緯などまで調べる者は少ないという理由でだ。
女房としての仕事の仕方は五条の御息所様の所で覚えてから麗景殿へ移ったので、嘘はついていない。
そんな私を気軽に五条の君と呼ぶその人は、同僚の女房ではない。
椿模様を織り出した蘇芳色の袿。その背に長い黒髪を流し、切れ長の目元は妖艶に細められる。
宮中で簡素な装束でも許されるのは高貴な人物だけ。
彼女こそ麗景殿の女御。先々代の帝の内親王でもあった方だ。
「女御様。こんなにも早く起床なさるなんて……いかがされましたか?」
まだ夜は開けていない。もう一刻ほど必要だ。
いかに人々が夜明けから起き出すのが常とはいえ、女御ともなれば、他の女房達が起こすまでゆったりと眠っていられるというのに。
夢見でも悪かったのかと心配した侑子の前で、麗景殿の女御は微笑む。
「眠っていたけれど、私の勘がささやいて目を覚ましたのだと思うわ。あなた、花守の典侍としての仕事で夜中に殿舎を出ていたのでしょう? 私、あなたが花守の典侍としての依頼を受けたことに、眠っていても気づいたのよ」
そこまで言って、ちょっとがっかりした表情になった。
「けれどせっかく目を覚ましたというのに、あなたの曹司はもぬけの殻。すでにどこかへ行った後だったのですもの。一人でずっと待っていて、退屈だったわ」
「女御様……ずっとお待ちにならなくとも、一度お休みなってからお尋ねになればよろしかったのでは。いつも通り、お求めになられれば、私もお話いたしますよ?」
麗景殿の女御は侑子が受けた依頼の内容を知りたがる。
知的好奇心は旺盛なのだ。
もう一つ理由があるとすれば、彼女は侑子に後ろめたさもあるのだと思う。
だからこそ侑子が無事に役目をこなせているのか、きちんと怪我もなく戻って来るのかを気にしているのかもしれないけれど。
この三つ年上の女御は、侑子の親族でもあるのだ。
出自のせいで、おおっぴらに殿上できない侑子の存在や仕事内容を隠すために、様々に心を砕いてくれるのもそのせい。
「これぐらいはしないと。だってあなたに役目を代わってもらったようなものだから」
麗景殿の女御は、申し訳なさそうな表情で言う。
「私が引きこもり女御で、あなたにこの役目をお願いしたりしなければ……」
引きこもりとは言うが、御簾の内で静かにしている麗景殿の女御は、この時代の模範的な女性と言える。
はたから見れば理想的な姫君なのだ。
でも身近な人々だけが知っている。
麗景殿の女御が外への興味を失ったのは、足を悪くしてしまったからだと。
この時代の女性は走ったりはしない。
だけど立ち歩くことが少ないものの、足が悪いなどの不具合があれば、麗景殿の女御は後ろ指さされかねない立場だ。
それもこれも、梅壺の女御や弘徽殿の女御といった左右大臣の姫君達が、どちらが皇子を産むのか、どちらが帝の寵愛を得るのかと競争しているせいでもある。
今一番、帝が懇意にしているのが麗景殿の女御だと言われていることもあり、どうしても目の敵にされてしまうのだ。
そんな麗景殿の女御は、代われないながらも侑子がもしもこの仕事ができなくなった時に、次の花守の典侍を助けるため、仕事内容を聞きたがる。
だからこそ、侑子の言葉に冗談めかした不満顔をしてみせるのだ。
「他の者が起きている時は、あなたも色々と濁した話しかしないでしょう? 私ははっきりと端から端までお話を聞きたいのよ」
女御に主張され、侑子は苦笑いするしかない。
ごく少数の者以外には内緒の話なのだ。濁すのは仕方ない。
なにせ人はうっかりと話してしまう生き物だ。
完全に秘密を守りたいのなら、限られた共犯者にしか真実を明かしてはいけない。
なのでどんなに人払いをしていても、他の女房達が寝静まっていない限りは濁した話し方しかしてはいけない、と麗景殿の女御にも帝にも言われている。
「では、この手紙を誰かに届けさせてからでしたら、お話しいたしますが……」
とにかく鍵だ。
これをどうにかしないと、落ち着いて話せない。
「それなら、さっき大輔の命婦が起きていたから、頼んでちょうだい」
聞いた侑子はうなずいた。
大輔の命婦ならば、今頃起きていてもおかしくはない。
髪に白いものが混ざりはじめた大輔の命婦は、近ごろ夜中に一度起きてしまう質が出ていたから。
塗籠の近くで眠っていた彼女は、麗景殿の女御が起き出した気配で目を醒ましてしまっていたのだろう。
侑子が呼びかけると、すぐにやってきた大輔の命婦に文をお願いした。
こんな夜中だというのに、おだやかに微笑んだ大輔の命婦は、それを請け負ってくれた。
「それで、今日の依頼はどういうことだったの?」
「あまり物語るにはさしてみるべきところもない依頼ではございますが……」
侑子は昼御座の襖を締め切り、麗景殿の女御に小声であらましを語ったのだった。