猫と鍵 2
「さて」
眠っていた間に緩んだ衣服を整えた上で、侑子は自分の局を見回す。
黒塗りの文台の横に置いていた皿。
その餅が増えているように見える。
眠る前までは三つしかなかったのだが、今は五つに増えていた。
「太郎丸、次郎丸」
侑子が呼びかけると、餅のうち二つがもぞもぞと動いた。
ぴょんと飛び跳ね、その時に全身の毛がふさっとなびく。二つは真っ白な毛玉のような存在だったらしい。
「お姫、お姫や起きたか」
「餅、餅じゃ餅」
「そなたが眠っている間に一つもろうたがな、この餅はちと足りぬぞえ」
「あまーい甘葛が入った餅を所望じゃ」
「いつものように甘くないぞえ」
「御所の餅は甘いはずじゃろ」
交互に飛び跳ねながら二匹は訴えた。その声は、小さな子供のようでありながら、口調は老爺のようだ。
ほとんど見分けがつかないものの、くりんとした青い瞳の毛玉が「ぞえ」という口癖がある太郎丸。黒い瞳の「じゃろ」と言う方が次郎丸だ。
「お二方とも、甘い餅は明日用意します。なので一つ、頼まれてくれませんか?」
この仕事に、二匹の助力は必ず必要だった。
そもそも侑子がこんなことをするようになったのも、二匹に気に入られたからでもあるのだし。
「友の頼みか。聞いてもいいぞえ」
「餅をくれるのは良い友じゃ。なんでも言うのじゃ」
二匹の返答に、侑子は微笑む。
「それではお言葉に甘えまして。今から向かう場所にある花木に、猫の行動を覚えていないか尋ねていただきたいのです」
「いいぞえ。猫であれば問題ないぞえ」
「猫は爪を立てる。良く覚えておるじゃろ」
二匹の快諾を受け、侑子は彼らを懐に押し込んだ。
けれど自分の局から直接簀子縁へ出ることはない。先ほどの掌待がまだ、こちらを見張っているからだ。
侑子は一度、昼御座へ移動する。
昼御座から漏れる光は、御簾の外からもわずかに見えるだろう。
先ほどから昼御座へ出入りしている……と勘違いさせるようなことをしているので、掌待は『まさか女御が花守の典侍?』といぶかしんでくれるだろう。
とはいえ、信じたりしないはず。
麗景殿女御は元内親王。
王の女御が花守の典侍という本来よりも低い官位を与えられて、粛々と受けるわけがない。
人々は官位で人を判断するのだ。
それが政治を動かす基準でもあるから。
だから侑子は、慎重に相手を撒くことにした。
昼御座の向こう、北庇から麗景殿を出る。
めんどうではあるが、ぐるっと殿舎を迂回して梅壺へ向かうつもりだ。
宣耀殿から遠回りをした侑子は、弘徽殿の東側まで来たところで、掌待がまだ麗景殿の方を監視しているかを伺う。
ぽつりと、麗景殿から少し離れた場所に明かりがまだ見えた。
「どちらの手の人間やら……」
この機会になんとしても正体を知りたがっているのなら、ただの興味本位ではないかもしれない、と侑子は思い直した。
闇夜の中で人を監視し続ける女房など、そうそういない。
いくら灯りがあっても、ここが後宮であっても、暗闇には魔が潜んでいると考えられているのだ。
普通の女人ならば恐ろしくて、自発的に夜を通して監視をすることはまずないのだから。
そのため、誰かから依頼されていたのだろうなと、侑子は判断した。
でも依頼主も、今回は『わからなかった』と報告を受けるだろう。
想像しつつ、侑子は明かりも持たないままさっさと夜道を進んだ。
向かうは梅壺だ。
そろそろと、足音を立てないようにして進む。しかし思うほど早く進まないものだ。
いつ誰に会うとも知れないからと、しっかりと着こんでいるので、装束が重い。
「衣装を軽く出来たら良かったのだけど……」
そんなことを考えてしまうのは、侑子が山寺で育ったせいだろう。
子供であるうちはよく外へ出た。単衣と袴の上に一つ二つ短い衣を重ねただけで、山野を走り回った経験があると、いつになっても宮中での移動はまどろっこしく感じられてしまう。
しかも宮中は、夜になっても出入りする者がいる。
眠れずに月を眺めようなどとする者。
暗い中では、燈台の明かりで物語を読みふけっていては、目を悪くしそうでできない。そのうちに頭痛がしてくる。
そこで星空を眺めて時をやりすごすのだ。
風流かもしれないが、侑子にとっては邪魔だ。
それよりももっと多いのは、女房の曹司へ忍んで行く男性。
宿直の合間にそんなことをする者もいて、深夜でも気は抜けない。
いくら夜目が効くので明かりを持っていないとはいえ、鉢合わせたり、足音を聞かれては侑子のことを見られてしまう。
そうなると、逆に手燭すら持たずにいたことを怪しまれてしまう。
念のため侑子は「火が消えてしまいまして……」と言い訳をしようかと思いはしたが、邪魔になるので置いてきてしまっていた。
侑子は時に足を止め、時に隠れつつ人をやりすごした。
おかげで梅壺へ到着するまで、かなり時間がかかってしまった。
「急いでくださいます?」
白砂に前栽の植え込み、そして花が散った後に実をつけている梅の木の側で、侑子は懐に押し込んでいた二匹を取り出す。
「任せるぞえ」
「梅じゃああ!」
二匹はきゃいきゃい小声で騒ぎながら、大きく飛び跳ねて梅まで移動した。
そうして梅の木に登り始めると、木の幹に大きな白い綿がくっついたように見える。
侑子は二匹を追いかけるように、簀子縁から庭へ降りた。
普通の貴族の娘や女房なら、決してしないことだ。けれど山野を駆けていた侑子は、『人前でなければいい』と認識している。
もっと言うと、『花守の典侍としてはそうするしかない』ので問題ないと考えていた。
近づくと、太郎丸と次郎丸は、やや困惑したように話し合っている。
「猫はおらぬ?」
「猫は今日は来ておらぬのか?」
「猫の姿は見てないのであるか?」
「姿は見てるじゃろ。ほれ見てるじゃろ」
梅に話しかけるようにしている太郎丸と次郎丸は、やがてぴたっと動きを止めた。
「……いかがですか」
侑子の問いに、二匹が同時に答えた。
「猫は一匹逃げたままぞえ」
太郎丸が言うと、
「その猫がいないことを、女房の一人が誤魔化しておる」