桜に眠る 8
「あれは……」
白猫を抱きしめた冬継は、先ほどの女房のことを思い出していた。
間違いない。
鍵を探していた深夜に見た、花守の典侍……だと思われる女だ。
彼女は麗景殿の女房で間違いないようだ。
麗景殿の女御が昼間に清涼殿へ来ると聞き、不可思議には思っていたが、まさか猫を見に来るとは。
名前も他の女房の言葉で知ることができた。五条の君と呼ばれているらしい。
五条に実家か夫の家があるのだろうか。
(いや……夫があるようには見えなかったが)
五条という女房は、自分よりも年下だった。それだけならままあることだ。裳着を済ませたばかりの者ならば、十三や十四歳の娘も多い。
しかし裳着を終えたばかりの娘を女御の女房に上げるなら、女御の親族でもなければありえない。
女房としての仕事の出来もそうだが、秀でている才で、女御の殿舎を活気づかせることも女房達に求められる役割なのだから。
そもそも彼女が花守の典侍だとして、なぜ麗景殿の女房などをしているのか。
「全くわからん……」
つぶやくと、腕の中の猫が小さく「みー」と鳴いた。
「お前にもわからないか? なんだかあの女房と親し気にしていただろう」
この白梅の命婦は、梅壺で誰にも懐かなかったらしい。
けれど上東門院から賜ったものだということで、懐かないながらも大事に世話をされていた。
そうして主上が猫を不憫に思い、庇の間にて加持祈祷をということで、猫を一時預かったものの……。
(気の毒な感じだったんだよな)
具合が悪い中、僧侶たちの読経を聞かされ続けるというのも、なかなかの苦行ではないだろうか。
そもそも猫に、読経をありがたいと思う気持ちは芽生えるものではないと思う。
読経は早々に終わったものの、水すらも飲む気力を失った猫が気の毒になり……つい手を出してしまったのは、運命だったか。
冬継が抱き上げて口にやわらかくした餌を差し出すと、それまでのぐったりとした様子が嘘のように、一心になめ始めたのだ。
水も飲み、回復した様子に側にいた掌待が驚きの声を上げたところで、主上がやって来て言ったのだ。
「どうやら藤の蔵人に懐いたようだね。ちょうどいい。麗景殿が来た後で、君にそのまま猫を見ていてもらおうかな。病の猫を清涼殿へ置き続けることに難色を示す者も多かったから、出仕している間だけでも、蔵人所へ置いてもらえると助かるよ。それ以降はこちらへ戻してくれてかまわない」
主上はにこやかにそう言い、冬継の返事も待たずに立ち去った。
どうやら大納言との囲碁の途中で、掌待の大きな声が聞こえて覗きに来ただけだったらしい。
「え、猫の世話を……?」
私がするのですか? と問う暇すらなかった。
掌待はほっとして、
「ようございました。白梅の命婦が餌も水もなかなか口にせず困っていたのです。せっかくですので、命婦にもう一度食べさせてもらえませんでしょうか? もう少し口に運んだ方が良いでしょう」
申し訳なさそうではあっても、隠しきれないほど喜びを溢れさせて言われると、冬継としても断ることができなかった。
冬継とて犬猫がかなり好きな質だ。気の毒すぎて離れがたかったこともあり、主上の頼みを拒否するつもりはなかった。
「だが仕事中、ずっと私の曹司で預かるのか……?」
不在時は内舎人に任せるとしても、その姿に気が行ってしまって、仕事に集中できなさそうな気がする。
不安を抱えていたら、麗景殿の女御が到着し、そしてあの女房が御簾内に入って来たのだ。
入ってきてすぐ、「あ」と声を上げそうになった。
女御のために几帳を用意する間も、その顔から視線をそらせない。
それほどに、あの夜に見た現象は不可思議で、本当にあの女房が実在したのかと目を疑う気持ちだったからだ。
実はあの一件の後、麗景殿の近くまで行ったことがある。
女房達の中に、白い不可思議な生き物を連れた女が本当にいるのか、確かめたくなったのだ。
朝になってから、やっぱり見間違いかもしれない……と自信が無くなってしまって。
「あんなおかしな生き物など、いるわけがない」
つぶやくのは、自分に言い聞かせているからだと冬継はわかっていた。そしてどうしても、あれを『物の怪』とは言いたくなかった。
思い出すのは幼少の頃。
山寺へ参詣に連れられて行き、そこで一夜を過ごした時のこと。
夜中に起きてしまった冬継は、興味本位で外を見て……悲鳴を上げて父の寝所に飛び込んだ。
夜の闇の中、浮かんでいる無数の白い人影、のしのしと行き過ぎる人よりも蜘蛛のような巨大な生き物、空を飛ぶ小さな人の姿。
どれもが恐ろしく、冬継は飛び起きた父に「早く家へ帰りたい」と泣いて頼んだのだ。
泣いているうちに夜が明け、ようやく落ち着いた冬継に父は笑って言った。
「お前には夜の闇が恐ろしく思えたのだ。けれどほら、朝になってしまえば、お前が物の怪と見間違えたものはすべて、ただの木や草が揺れていたのだとわかるであろう?」
そうなだめられた冬継は……言えなかった。
昼の光の中、父が指さした寺の池にも、人の顔をした鳥がたたずんでいるなどということは。
幸いなことに、その山寺へこもるのは一日だけで、すぐに都の家に戻ることができた。
その上、都の中では山寺で見たようなものは一切目にすることはなかったのだが……。
以来、山の中へ入ろうとは思わなくなったのだ。
父が争いに巻き込まれて失脚した時も、元服していて良かったと思ったものだ。国守になる父に同行することになれば、あの山寺で見たような者達と遭遇しかねない。
自分は一人で頑張るからと言いながら、都に残れることを喜んだ。
……だというのに。
「内裏で見かけることになるとは」
間違いなく、あの女房が連れ歩いているのだ。花守の典侍というのは、物の怪使いなのか?
そんなことを考えていたから、ついついその女房のことを見てしまったのだが……。
やはり、いた。
懐紙を挟んだ懐のあたりから、時折ひょこっと白い毛玉のような物が出入りしていた。
あげく、白梅の命婦が冬継の元からその女房のところへ移動してしまったのだ。
今まで誰にも懐かず、冬継に懐いたのが珍しいと言われていただけに、ものすごく驚いた。
側にいた女官も目を丸くしていたくらいだ。
とにもかくにも、その後すぐに麗景殿の女御が御簾内に入って来ようとしたので、冬継は慌てて外に出たわけだが……。
庇の間から御簾越しにしか様子が見えないとはいえ、冬継は不審に思った。
なぜ麗景殿の女御が来るのか。その理由はわかった。
花守の典侍と思われる女房に、猫を見せるためだ。おそらくは、猫の状態について調べさせるために。
(花守の典侍というのは、物の怪を操って、失せ物探しをしたりする存在なのだな)
冬継はそう結論付けた。
なるほど。それならば様々なことを知る力があっても当然だろう。
ただ不思議なことが増える。
「この猫は……病気ではない?」
会話の内容は、あまりよく聞こえなかった。
意識してささやき声で会話していたのだろう。女御の声は他の男性にはめったに聞かせるものではないので、変なことではないのだが。
おかしな発言が漏れ聞こえたのだ。
――病気なの?
誰かの発言は、あの花守の典侍らしき女房に向けたものだと思われた。
御簾越しに影だけうっすらわかるあの女房が、小さくうなずいたのがわかったから。
他の女官や女房達は、特に不審がったりはしていないようだった。
けれど冬継は首をかしげていた。
(病気だとわかっていて、見に来たのではないのか?)
花守の典侍が呼ばれるのだから、猫の治療法でも言い当てるためだと思っていた。だがわざわざ『病気なのか』と聞くならば、病気ではない可能性を考えている……ということではないだろうか。
梅壺の女御も、病気だと嘆いていたらしいし。
主上はその病気が平癒するように、いち早く僧侶を呼んで読経をさせるため、清涼殿の庇に一時的に猫を移動させたのだ。
一体どうして猫が病気ではないと疑ったのか。
「誰かが……病気ではないと、疑っている?」
根拠は何だろう。
そう思っていた冬継だが、とりあえず自分にできることは何もない。
とりあえず、放置している自分の曹司の様子が気になった。まだ仕事が完全に終わる前に、清涼殿へ預けられた猫に興味があって、ちらっと覗いたらこの状態になってしまったのだ。
少し部屋を開けるのでと女官に言えば、
「では、白梅の命婦をお連れくださいませ。少々私も、ここを離れてしまいますゆえ……」
主上が女御の元へ行っているため、付き従っている女官もいて人手が足りないようだ。梅壺の女御から預かった猫を一匹だけ置き去りにすることもできないので、後で迎えに行くまで側に置いていてほしいとのこと。
そこで冬継は、猫を連れて蔵人所の自分の曹司へ向かった。
途中、すれ違う女官は微笑ましそうに目を細めるものの、たまたま行き会った上達部は渋い表情をする。
道を譲って一礼する冬継を一瞥し、少し離れてから聞こえるような声で言った。
「伊勢の宰相の息子か」
「さすが親が鄙に親しむと、猫係を仰せつかっても様になるものですな」
「藤の蔵人というより、あれでは猫の蔵人ですかな」
あざ笑う声は聴かないふりをしつつ、冬継は校書殿の曹司へ向かう。
伊勢の宰相とは、自分の父のことだ。
過去の一件で参議から国守に降格され伊勢へ都落ちした父。けれど事件に関わった証拠がないとして、参議へと復職することが叶った。
しかし人の評判というものは、それだけでは動かない。
特に現左大臣派は、敵対勢力の一人でもある冬継の父をうっとうしがり、田舎者よと笑うことが多いのだ。
(いちいち取り合っていては面倒だからな)
嘲りだけなら、今までにも沢山受けて来ている。
父が伊勢に下向している間は、もっとあからさまだったのだ。
すっぱりと先ほどのことを忘れ、数歩進んだところで「冬継殿」と後ろから追いかけてくる者がいた。




