桜に眠る 6
(またたびでも持っていたのかしら?)
そんなことを思ってしまうが、病気の猫が、それだけで食欲が復活するわけもない。
「少し見てまいりますので、お待ちを……」
女官は蔵人と猫を引き離すためか、部屋の御簾を上げて入ろうとしたが、引き留めたのは麗景殿の女御だった。
「病で気が弱った者が、慕わしい相手の側にいたがるのは人も同じ。引き離すのはかわいそうだわ。中に几帳を置いて、猫と蔵人を隔てるようにして。そもそも、長居をするわけではないし」
「それではお姿が……」
女御の姿を、他の公達にさらすものではない。相手が何かの拍子に垣間見するのではなく、見える危険を冒すのはあまり良しとはされないものだ。
「その蔵人は、真正面から私の顔を観察するような方なの? そもそも主上に忠実な方ならば、私が部屋に入ったり退出する際には、後ろを向いていてくださるわよね?」
女御にそこまで言われては、仕方ないと思ったのだろう。
女官は蔵人にその旨を伝え、侑子達女房が二人ほど先に入り、几帳の位置を変えることになった。
部屋の中に入った侑子は、ちょっと微笑ましい気持ちになる。
確かに、赤い袍を着た五位の蔵人がそこにいた。
けれど彼は、女房達の顔も見まいとするかのように、すでに後ろを向いていたのだ。でも御簾を上げて入って来た侑子の側からは、蔵人の横顔が見える。
鼻筋の通った、凛々しい顔立ちの人物だった。優し気な姿形が好まれる時代の中、彼は美しくも鋭利な印象が先に立つ。めずらしいことだ。
侑子はふと、山寺に出入りしていた修験者を思い出す。あそこまで荒々しくはないが、どこか降りしきる冷たい雪を思わせる人だ。
その手の中には、自分から潜り込もうと袂に頭を突っ込んだ白猫がいる。
よほどこの蔵人が好きなのだろう。
笑いそうになりながら、ようやく几帳の位置を変えたのだが。
「あ、こら」
蔵人のたもとに潜り込もうとしていた白猫が、ぱっとそこから離れた。
ふらふらと歩いてどこへ行くのかと思ったら、やってきたのは侑子の足元だ。
海老染めの袴に爪をたてて取りすがる猫に、侑子は驚く。
「申し訳ない女房殿……」
謝る蔵人も油断していたのだろう。侑子を振り向いてしまった。
几帳の横に膝をついていた侑子は、几帳を動かすために扇も持っていなかった。そして顔を見合わせることになったのだが……。蔵人は、なぜか数秒、侑子の顔をじっと見つめて来る。
これが他人ならば、ひとめぼれしたのだろうと考えたものだが。
(……顔見知りみたいな反応ね)
間違いなく知り合いかどうか確かめている。そんな視線に感じられたのだ。
はて、この人と会ったことがあるだろうか。
侑子の方もそんな疑問が心に浮かび、相手の顔を見つめてしまったのだが。
「申し訳ありませぬ、女房殿。袴にかぎ裂きができておりませんか?」
「大丈夫です。ここに座っているだけですので」
女官に声を掛けられ、侑子は我に返って猫を抱き上げる。
抵抗もせず抱き上げられた白猫は、力なく侑子の腕に抱かれて大人しくなる。
(これはいい機会だわ)
正直、侑子はこれほど猫に近づけるとは思わなかった。別に猫に好かれる質というわけでもなかったし、猫も具合を悪くして丸まったまま動かないだろうと考えていたからだ。
この体勢ならば、太郎丸と次郎丸にじっくりと確認もしてもらえる。
ただ声を聞かれては困るのだが……。
その時蔵人が、慌てて体の向きを変え、御簾の外へと移動した。
なにごとかと思った侑子だったが、声が聞こえて納得する。
「まぁ、その猫が白梅の命婦ね」
麗景殿の女御が入って来たのだ。
大輔の命婦が御簾を上げ、くぐるようにして入った女御は、きちんと几帳の内側に座して、側にいる侑子の腕の中を覗き込む。
白猫はそれには反応せず、侑子の腕の中でくったりと目を閉じていた。
「ねぇ、もう少しこちらへいらっしゃい五条の君。もっとしっかり見たいわ」
意外と猫好きの麗景殿の女御に言われて、侑子も几帳の中に隠れるようにする。
そうすると、側にいる大輔の命婦以外の者からは遠ざかる。
先ほどの蔵人は外に出ているし、他の女房達も御簾の内側に控えている。几帳は部屋の奥にあるので、これなら聞かれまい。
「それで、どうなの?」
ささやく麗景殿の女御にうなずく。
(太郎丸、次郎丸)
心の中で呼びかけた。声を出さなくても、この二匹には聞こえる。
白い毛玉が懐から出てきて、もそもそと腕の中の猫に近づいた。
女御や大輔の命婦には見えていないようだ。侑子と猫を見比べたまま、太郎丸と次郎丸には視線を向けていない。
「さて、これは……」
「むむ。……じゃな」
もそもそ移動して、猫にくっついた二匹がもごもごとつぶやいた。
二匹が猫にくっつくと、猫と同化して見えて面白いが、そんなことを言っている場合ではない。
この反応はたぶん……猫は病気ではないのだろう。
侑子自身にも、感じ取れる。
あたたかな猫の気配。その中心に冷たく凝ったものがあるような感覚がある。
病の場合は、こんなことはありえない。
一度、同じような人を見たことがあるが……その時、冷たく凝ったものを持っていた人物は、呪詛をされたからと山寺の僧侶を頼って来たのだ。
(では、猫が呪詛をされている……?)
それも妙な話だなと侑子は思う。
どうして猫を呪詛するのか。理由がわからない。
あまりに猫が嫌いだからといって、梅壺の中からめったに出ることのない猫を呪う者がいるだろうか?
だから侑子は、もし呪詛だったとしても、梅壺の女御が呪詛されていて、猫が身代わりになったのではないか? と考えていたのだ。
そうだとしたら、もう少し違う感覚があるはず。
猫の身には呪詛は重く、体全体が冷たく感じられるだろうから。
「お姫……やはりこれは呪詛であるぞえ」
やがて口火を切った太郎丸によって、侑子の推測は肯定された。
「猫自身が呪詛されておる。小さき生き物を呪うとは、不可解じゃな」
さらに小さな次郎丸がそんなことを言い、ため息をついた。
「では、その呪いはどうしたら解けるかしら?」
「んんん……」
「わかりにくいのじゃ……。お姫よ、猫に気を分けてやるがよい」
言われて侑子は、猫を少し持ち上げ、その頭に唇をつけた。
ふっと息を吹き込むようにして、自分の体から力が猫に与えられる様を想像する。
同時に自分の体温がすっと下がった。
猫の中の冷えて凝った場所が広がって、すぅっと呪詛が侑子の元に少し侵食してきた感覚が訪れる。
とたん――ふっと閉じた目裏に、不可思議な情景が思い浮かんだ。
僧形の男が、つないだ猫に何かの枝を突き付けている。
枝の先には薄紅の桜の花。
淡い花びらを開き始めた桜の花が、はらり、はらりと落ちて猫の頭に張り付き、そのまま溶けるように消える。
――桜ぞえ。
脳裏に太郎丸の声が響く。
――桜を使った呪じゃ。
次郎丸が断定した。
二匹も侑子と同じ物を見て、そう感じたのだろう。
「五条の君?」
麗景殿の女御の問いかけで、侑子の意識が浮上する。
「あ、申し訳ありません。猫が可愛いらしかったもので、つい」
そう言って、侑子は一度猫を離した。
置かれた猫は不満そうな表情で侑子を見上げたが、それ以上は動かずにじっとしている。
「あら。本当に懐かれたのね、五条の君」
「そうでしょうか……」
侑子はあいまいに笑ってみせる。
だけど自分では、なつかれたというよりも、この状態を治せる相手を求めてくっついてきたように感じていた。
「それで、もういいの?」
「はい」
侑子はうなずく。
猫が病気かどうかはわかった。ただし……これは解くのが難しい。
侑子の表情が浮かない様子を見てとったからか、麗景殿の女御が心配そうにささやいた。
「病気なの?」
侑子は小さく首を横に振るのみだ。
ここでは話せない。なにせ病気ではなかったものの……あまりいい状態ではないし、呪を解くことも難しいことがわかったのだから。
「ひとまず、麗景殿へ戻りましょう女御様」
侑子がそう言えば、大輔の命婦も同意する。
「少し様子を覗くだけのお約束でしたからね。そろそろ下がりましょう」
そこで離れていた女官を呼び寄せ、猫を渡そうとした。でも猫は再び抱き上げた侑子の腕に爪を立ててしがみつき、離れない。
「あらどうしましょう。先ほどの蔵人ならどうかしら?」
麗景殿の女御がそう言うと、御簾の向こうにいた蔵人がみじろぎした。
「藤の蔵人ならば、大丈夫でしょう」
女官が請け負う。
「なにせ私共にはなかなか懐かず、水も飲もうとしなかった白梅の命婦が、藤の蔵人にだけは自ら近寄り、その手から物を食べたり飲んだりしたのですから」
「まぁ。それはすごいわね。まさか前の世では恋人だったのかしら」
麗景殿の女御は茶化しながらも感心する。
「では五条の君、猫を藤の蔵人にお渡しして」
「はい」
麗景殿の女房である自分が、いつまでも主上に預けられた猫を抱きしめているわけにはいかない。
(それに今すぐには、何もできない……)
呪を解くこともできないのでは、今は手を離すべきだ。
侑子は御簾の側へ移動した。
片手で御簾をよけ、もう片方の腕で抱きしめた白猫を差し出した。
「藤の蔵人様。白梅の命婦をお預かりくださいませ」
そう声をかけるが、蔵人はまたしても御簾の隙間から見える侑子の顔に注目してしまう。先ほどよりはぶしつけではないものの、うつむきながらもじっと観察されているのがわかった。
「蔵人様。猫を」
「ああ……申し訳ない」
ようやく蔵人は猫に目を向け、手を伸ばす。
白猫は顔を上げたものの、なかなか動かない。
「失礼する」
蔵人はさっと白猫に手を触れた。
ぐっと脇を持ち上げると、女官の時とは違い、白猫はあっさりと宙に吊り上げられ、緋色の袍を着た胸に抱きとめられた。
「白梅の命婦はお預かりしました」
「ありがとうございます」
蔵人は、もう侑子のことを観察はしていなかった。
だからこそ観察するような目を向けられたことが、不可解だった。