桜に眠る 4
麗景殿の女御の側にいた、大輔の命婦が周囲の女房達を遠ざける。
主上も、自分に同行していた女房や侍従達を遠ざけた。
侑子も他の女房と一緒に下がろうと、立ち上がった。
「ああ、一人ぐらい若い女房がいていいだろう。麗景殿、誰か面白い話を知っていそうな者を選んでくれないか」
主上がそう話を振ると、麗景殿の女御は楽し気に侑子を指名した。
「では五条の君、こちらへいらっしゃい」
侑子はしずしずと、大輔の命婦に手招かれるまま麗景殿の女御の側に寄った。
「君と顔を合わせるのは久方ぶりだね、五条」
「はい、お記憶にとどめていただき誠にありがとうございます」
「……どうせ他の者は聞いていないよ。普通に話してくれてかまわない、五条」
主上が小さな声で言って笑う。
麗景殿の女御まで忍び笑いを漏らした。
「せっかく人払いまでしたのに。堅苦しいわよ五条」
「そうはおっしゃいましても。私は空気を読むのが得意ではございませんので。お許しが出るまでは、常の態度を続けるのみでございます」
侑子はしれっとそう応じた。
自分を側に置いた上で人払いをしたとはいえ、話の内容が花守の典侍のこととは限らないのだ。
それに侑子が、上手く切り替えられないことも事実である。
ずっとほとんど人が来ない山の尼寺にいたのだから、それも仕方ないとあきらめてもらいたかった。
主上は少し姿勢を崩し、口の端を上げる。
「あの山猿娘がここまでしおらしくなるとはね……。やはり五条の伯母上の所へ修業に出して良かったな」
山猿っ!?
主上の言葉といえ、女性に対してあんまりな発言だ。
「主上……。先だってこうして直言をお許しくださった時には、そのようなひどいお言葉はおっしゃいませんでしたのに……」
先月はそんなこと言わなかったですよね? と侑子は主上に確認する。
「それに五条から麗景殿へ移らせていただいたのは、もう一年も前のことでございますよ」
「それは悪かった。君との出会いがあまりに鮮烈でね。昨日のことのような気がしてしまうのだよ」
主上はそう言って、昔語りを口にする。
「あの頃の君は、本当に身軽な子供だったから……。岩から岩へ飛び移る娘など、初めて見たよ」
「主上……。昔は昔、今は今でございます」
さすがに今は、侑子もそんなことはしない。
あちこち飛び跳ねたりするのは、誰も見ていない場所だけだ。
「そもそも子供は皆、身軽なものでございます」
侑子の言葉に、麗景殿の女御が吹き出す。
「私も子供の頃には、やんちゃをした覚えがありますけれど。五条はずいぶん最近まで子供だったのね」
「…………」
侑子はすでに16歳。二年前には14歳だったが、その年齢だと、たいていの貴族の娘なら裳着を済ませて成人と認められている頃だ。もちろん女御も裳着を済ませた後で、すでに子供ではなかったはず。
なので侑子は苦し紛れに言い訳をした。
「私はまだ裳着の前でしたので」
なにせ裳着を執り行ってくれる両親がいない。いや、父は存命で継母もいるのだが、侑子は捨てた物として山寺に放り出した娘なので、裳着のことなど気遣われることなどなかったのだ。
「まぁそれより。五条、君に少し話があってね」
そこで主上が話題を変える。
「梅壺の猫が病を得たようでね。そちらから、猫を治す方法を知りたいと言われているよ」
「猫でございますか? そちらは専門ではございませんが……」
花守の典侍は、動物の治療まではできない。
ただ自然の声を聞いて、後宮の花を守りつつ、後宮内での相談事に手を貸すのみだ。
「それがね」
と、主上が事情を話し始める。
元から飼っていたその猫、脱走していたが昨日になって帰って来たらしい。
先日、鍵を盗んだという猫だろう、と侑子は思う。
猫は戻って来はしたものの、食欲もなく寝たまま動かないらしい。
脱走に気づかなかった梅壺の女御は、その猫が急に病気になったように見えたそうだ。あまりにも沢山の猫を飼いすぎたせいだと、主上は笑っていたが。
梅壺の女御は猫を心配した。
しかし医師を呼びよせて診せたものの、特に原因はわからず。
ならばと僧侶を呼んで加持祈祷をさせたものの、快方に向かう気配もない。そこで『噂の花守の典侍なら……』とこぼしたらしい。
そうして話を聞いた女房達にすすめられ、梅壺の女御は主上に文を書いた。
――もし主上が花守の典侍のことをご存知でしたら、梅壺に遣わしてほしい……と。
さすがの麗景殿の女御も表情をくもらせる。
「やはり頼む先を間違っていらっしゃるのでは? 五条は猫に詳しいわけではございませんし」
侑子は女御の言葉にうなずく。
「私は医師ではございませんので、しかとはわかりかねます」
「普通の病気か、そうではないかだけでも見てほしいとね。君ではわからないだろうか?」
けれど意外と主上が食い下がって来る。梅壺の猫に同情したのだろうか。
侑子は悩んだ。
本当に病気ならば、自分では全く役に立たない。期待させた末に、何もできないと言って落胆させるぐらいなら、受けない方がいいと思うからだ。
それに、無下にするには少々気がとがめる。
また、自分の能力について理解しているはずの主上がこうまで勧めるのだから、侑子が原因を究明できる類の物だ、と思う確信があるのかもしれない。
考えた末に、侑子は告げた。
「病気かどうかを言い当てる程度ならば……できるかと思います。ただし、結局病気だった場合には、私には何も手立てはありません。落ち込ませたり、梅壺の女御様のお怒りを買う可能性もありますので、典侍が依頼を受けたとはおっしゃらないでくださいませ」
侑子は、受けているかどうかわからない状態にしておくことにした。
それで猫を回復させる方法がわかれば、花守の典侍からということで伝えれば良い。病気ならば、花守の典侍は幻の存在だったとでも思わせておく方がお互いにいい。
梅壺の女御は猫のことは病気だったと受け入れるだろうし、『花守の典侍』に対して恨みを抱くこともなく……侑子の今後の行動も、阻害される恐れはない。
主上はそれでいいと考えたようだ。うなずいて、侑子に確認してくる。
「ではどうする。自分で見に行くかい?」
「……訪問すると目立ちます」
麗景殿の女房が、用もないのに梅壺まで行くというのもおかしなものだ。深夜の誰もが寝静まっている時間でもなければ、悪目立ちする。
「では誰かに猫を預からせて、君が見られる場所に置こう」
「猫を……預かることができるのですか?」
「簡単だよ?」
主上はいともたやすいことのように言う。
「私の方で猫やその他知識がありそうな者を呼ぶから、清涼殿へ一時預けなさいと言えばいいだけだ」
さすがは主上、と侑子は思った。
権力に物を言わせるつもりなのだ。でも悪い方法ではない。
決定には逆らわないものの、侑子はあらためて釘を刺す。
「他にお呼びになる方々が、猫の体調不良の原因を探り当てることを願っております」
侑子がどうにかできなくとも、知恵のある人が集まるのなら、何かしら手立てを考えてくれるかもしれない。
侑子は占いや怪異を疑わないのと同時に、人の努力や自然の摂理によるどうしようもない出来事もある、と認識していた。
それは山野で長く過ごしたからこそでもあり、太郎丸や次郎丸といった本物の物の怪と意思疎通を行えるからでもある。
彼らとて、全てが霊だの神の怒りだので説明などできないことを知っているし、侑子に教えてくれるのだ。
もちろん、
主上も侑子があまり信仰が深くないことを承知しているので、黙ってうなずくのみだった。