適応障害と診断された話
不快に思われる方も多いと思いますが、適応障害と診断され社会復帰をしつついまだ戦ってる話です。
適応障害と言われて休職することになったのは4月の頭のことだった。
当時派遣社員で某通販サイトの巨大な商品倉庫で事務の仕事をしていた、派遣の為勤務先が決まっているのにもかかわらず、私は片道1時間半かけて契約した勤務先ではなく別倉庫の商品の管理のヘルプに行っていた、新しく契約した倉庫の商品管理が行き届かずこまっている、色んな業務をやっているあなたにしか頼めないと担当の上司からお願いされたのだ。期間限定で落ち着いたら元の倉庫に戻ること、また個人的な理由から曜日は火・水・木の週3日だけという条件でOKを出したものだった。
いざ始まってみると聞いていた話と全く違った、まずは別倉庫の上司は私がどんな仕事も一人で引き受けると思っていたこと、今までと条件も何もかも違うのにヘルプに行った次の日には「今日の業務は〇〇が引き継ぎます」と説明し丸投げされたのだ。
まだ業務を覚えていないのにコレはさすがにいけないと思い元倉庫の担当上司に相談したところ「確認します」と放置され何も解決せず一日が終わってしまった。
また別日、倉庫間で荷物の移動が必要なため問い合わせをした時「確認します」と数週間放置され、しびれを切らして再度相談したところ最初から決まっていたやり方があったそうでそれでいいに決まっているだろうと注意を受けた。
そして決定的だったのは火・水・木という条件だったにも関わらず勝手に月・金に曜日を変更させられた、その上元の倉庫では全く別部署に移動とのことだった。
最初に約束してくれた条件はなんだったのだろう、期間限定でもいいと言っていたのにどうしてこんな仕打ちを受けなくてはいけないのだろう。悔しくて毎日毎日泣いて過ごしていた。そして元の倉庫で仕事の日、別派遣社員の失敗について担当上司より注意が入った。
いつもの注意ではなく私の失敗ではなかったが根掘り葉掘り聞かれたうえでそれがどれだけ駄目なのかということを長々説明された、それが私の元倉庫の最終出勤日となった。
次の出勤日、ヘルプ先の倉庫に向かう電車の中気がつくとポロポロポロポロ泣いていた、もう何が辛いのかわからなかったが涙が止まらなくてそのまま出勤し仕事中も泣き続けた。流石にその状態で仕事はできないため早退し、そのまま病院に駆け込んだ。俗に言う心療内科はどこに電話をしても予約制で診ることができないと断られたため、文字通りネットで見つけた病院に電話もせず駆け込んだのだ。
その病院も予約制で最初受付のお姉さんたちは困った様子だった、すいませんでしたと病院を出ようとしたところで箱ティッシュを渡してくれて『どうにか先生に頼むから座って待っていて』とのことだった、安心したのもつかぬ間次の不安は『この程度で来たの』と呆れられるのではないだろうか、わざわざ予約の隙間で頑張って時間を作ってもらったのにたいしたこと無いと言われてしまうのではないかと、もう引き返す事もできないため静かに待合室で自分の順番を待った。
1時間ほど待った後まずはカウンセリングを受けることになった、自分の状態を赤裸々に話す経験などほとんどの人間には無いと思うのでなかなかに恥ずかしい経験だった。その後先生の診療に移った。その頃にはもう何が悲しいのかわからない状態だったが聞かれるままに話したことを覚えている、診断結果は【適応障害】だった。
小学生の頃イジメを受けていたのだが、なかなか親に言い出すことができず毎日学校に行きたくなかった、休もうとすれば『その程度で学校を休むな』と母親に叱られていた。思えばその頃から人間関係に悩むことが非常に多かったと思う、学校に行きたくない理由も仕事に行きたくない理由もすべて人間関係が上手く築けないところだったと思う。先生の診断結果を聞いて【障害】という文字にショックだった反面、自分の弱さに理由がついた気がして少しだけ安心した。すぐに派遣元に連絡しそのまま二度とその倉庫に出勤することはなかった。
療養期間に入ると毎日が暇で仕事をしていない罪悪感や妄想に悩まされた。急に仕事を辞める事になった事で恨まれているのではないか、私の仕事の不備について笑われているのではないか、こんな不出来な娘をもって両親は心底残念に思っているのではないか、と。
実家には戻るつもりはないのに一人で生活することも困難になってしまうのではないかと金銭面でも不安で仕方がなかった。もう出勤しなくていいという安心間の反面、仲の良かった派遣仲間に会えない寂しさが特に強かった、なんせ私はその派遣仲間が好きだった。趣味も何もなかったので毎日家でゴロゴロするだけだった、心にぽっかり穴が、それはもう大きな穴が空いてしまったような気分だった。
生活も荒れていた、ご飯を食べられないことが多かった、夜はもちろん眠れなかった、そのせいで肌はとても荒れていた、お風呂もとてもめんどうくさかった、でも好きな相手がいる以上汚い身なりで出勤することはできずちゃんと入っていた、ただ髪の毛を乾かすことはできなかった。入ってくるお金が減るという恐怖の中改善しなくてはいけないということが辛かった。
そんな私を支えてくれたのは好きだった元派遣仲間のお母さんだった、別に付き合っていたわけでもないしむしろ嫌われていたと思っていた派遣仲間のお母さんとは連絡先を交換し仲良くなっていたのだ。ストレス発散のために作ったパンやお菓子をもらってくれてその味を気に入ってくれていた。息子の誕生日のケーキを作ってほしいとお願いされいちごのホールケーキを作らせて頂いたのは今でもいい思い出だ。
そして意外にも実兄も私の退職を知って隣県から遊びに来てくれた、めったに会うことの無い兄であったが車で片道2時間ほどかけてわざわざドライブに連れ出してくれた。急に富士山に行くと言われたときは驚いたが、山開きをしていない富士山には近づくことすらできず、近くの湖などから眺めるだけに終わった。その後焼肉にも連れてってくれた、その日の食事代やガソリン代は全て兄が持ってくれた、流石に申し訳ないと言うと『俺の方が歳上だからな!』と結局一銭も受け取ってもらえなかった。
そしてせっかく長い休みとなったのだから思い切って実家にも帰省してみた。心配をかけてはいるだろうが仕事を離れてそこそこ元気になったので元気な顔を見せなくてはと思った。珍しく両親が空港まで迎えに来てくれたのでそこまで疲れることもなく実家に帰ることができた。5月だと言うのに北海道は寒く雪が降る日もあった、関東ではすでに夏の気配を感じる日もあったため驚いた。久々の滞在で両親や弟や祖父母との時間もしっかり取れたことと、唯一の友人とも温泉に行くことができてとてもリフレッシュした気分になれた。ただ毎日感じていたのは「それぞれ全員仕事なり何なりしているのに私だけ何もしていない」という罪悪感と不安だった。北海道から戻った私を再就職へ奮い立たせたのはほかでもないみんなの働いている姿だった。
【適応障害】と診断された私の再就職は壁がとても高かった、自分のような根性のない人間を雇ってくれる企業なんてあるのだろうか、求人サイトを見漁る日々、代わり映えしない求人の中からコレいいかも!と詳細を診るたび年齢的にも転職するには遅かったと年齢制限に落胆する日々だった。そんな時頼りになったのはよく聞く【転職エージェント】だった。ダメ元で登録しすぐにテレビ電話での面談が行われた、私の希望と適応障害という再就職に対しての大きな壁のこともお話しさせていただいた、どうにか働けるところが無いか動いてくれて数日に分けて何件か紹介してくれた。正直大変だったと思うが紹介された勤務先はどれもこれも魅力的で、その中でも無理なく通うことができそうな職場を受けてみることにしたのだ。業務内容は大変そうな雰囲気だったが、自分にとって何がネックで何が大事なのかをよく考え一番通勤のし易い職場を選んだ。これは第一歩だから大丈夫落ちても大丈夫と言い聞かせ面接に挑んだ。結果から言えば速攻受かった、素直に喜んでいいのかわからなかったが面接から内定まで1週間もかからずトントン拍子に再就職が決まったのだ。一番驚いたのは後出しになっても気分が悪いだろうと思ったので包み隠さず私は自分の障害について面接の時点で社長にお話をさせていただいていた事、会社側にとっても不利な条件だったにも関わらず、実は居たもう一人の候補と比べて私を選んでくれたということがとても嬉しかった。
新しい仕事が始まると、同僚となる先輩が社長は厳しい人だから新しい人が続かないとの事で初日から不穏な空気が立ち込めた、業務が始まるとたしかに社長は容赦無い言いようではあったが、私にとってはそのように裏表なく常に裏なら裏のように接してもらうほうが潔くて助かった、前の職場のように全員に対等に接しているように見せて裏で文句を言う、その裏というのも他の派遣社員がいる前で「◯◯は何やらせても駄目だな」と事務所で笑っているという、そんな話を何度も聞いたし実際自分もその姿を見ていた。そういうやり方が一番キライだった。業務に関しては説明が足りないところがあり戸惑うことも沢山あったがなんとか辞めずに今に至っている。
順調に業務を覚えて行く中で仕事ではない問題が浮かび上がった、元派遣仲間に連絡をしたが返信が来なかったのだ。前々から私がしつこいので好かれていないとは思っていたが、とうとう嫌われてしまったのだと落ち込んでいた。私が悪いと思いながらも悲しくてたまらなかった、そんな話を元派遣仲間のお母さんと話していたのだが、ある日そのお母さんからも既読のまま返事が来なかった。思い当たるフシが全く無かったため流石に絶望してお休みも動けなくなるくらい落ち込んでしまった、また私は人間関係で失敗してしまったのだと、家族揃って陥れられているような激しい怒りのような気持ちになっていた、そのような時どのように過ごせばいいのだろう、どのように伝えればいいのだろうと思い、本当に軽い気持ちでネット検索したときに長年の悩みを解消する記事を見つけた、それが【パーソナリティ障害】だった。
パーソナリティ障害とは日常生活に支障をきたすような思考や反応によって対人関係などをスムーズに行うことができないというものらしく、その中でも私の症状は【境界性パーソナリティ障害】というものがピッタリとハマっていた。人に見捨てられるということにひどく不安を抱き、対人関係の変動が激しくコミュニケーションの安定も難しい、激しく怒り、傷つきやすいというものだった。そのまま私の人生というものだった。
ああ、私はこういう障害のせいで周りの人たちに大変迷惑をかけて生きてきたんだろうな。
そう思うと2日間くらい何もできないくらい落ち込んだ。適応障害と診断されたのも、自分を適応障害に追い込んだのは自分だったんだとわかった瞬間でもあった。だいぶ時間はかかってしまったけど自分の状態にようやく気がつくことができたと言うことは、遅すぎたかもしれないがありがたかったと思う。もう結婚も無理だと思うので一人で生きていくことになると思うが、このちょっとした気が付きで今後出会う人達に少しでも嫌な思いをさせずに付き合っていくことができるのならば、収穫は大きかったと信じたい。
無視された元派遣仲間だが、今度ご飯を食べに行くことになっている。
そのお母さんとも連絡をまた再開することができた。
今後は少しでも変わった姿を見せて友達で居られるといいなと心から願うばかりだ。
今では好きだったあの派遣仲間は仲の良い友だちの息子になりました。