ある令嬢が恥も外聞も投げ捨て赤裸々に語った結果
親が決めた婚約者と結婚し、初夜を迎えた。
そこまでは、ごく普通のありふれた貴族としてのよくある話だったと思う。
婚約期間中、お互いそれなりに歩み寄って仲良くなっていたし、愛のない結婚にはならないだろうな、とも思っていたからこそ、初夜を迎えた時は幸せで一杯だった。
ところがだ。
「貴方を愛することはない。私には真実愛する人がいる」
ヤる事ヤッてからこんな事言うのって、どうなの?
シルヴィア・メルヴェットは元は子爵令嬢である。
それが、アルト・セルドウェン伯爵令息と結婚し、伯爵夫人となったわけだ。
伯爵家が貴族全体から見ると大体中間に位置してそうだから普段はあまり気にした事もなかったが、一応は高位貴族に該当する。
そんな高位貴族として生まれ育ったこの男性はのたまいました。
本来愛している者と結婚するつもりだったが、親が決めた事に逆らえず仕方なしに結婚する事となった。
とはいえ、お前に伯爵夫人としての立場を求めたりはしない。
余計な事はせず家の中で大人しくしていろ。
余計な事を言えばわかっているだろうな?
と、まぁ、誰が聞いても脅しにしか聞こえない事を言ったわけだ。
シルヴィアは危うく怖くて泣きそうになった。
貴族令嬢として生きてきた中で、こんな直接的に粗野で乱暴な脅しをされた事など今までなかったのだ。
その本来愛している者、というのが身分が低いとか、はたまた平民である、とかなのかと思って念の為確認してみれば、お相手はセレネ・ヴィオレッタ伯爵令嬢だという。
……家格だけなら何も問題なく結婚できるのでは?
同年代の貴族あたりなら多少知ってるシルヴィアは、しかしセレネの事は詳しくなかった。
だからこそ、身分だけでそう判断したのだ。
だがしかし、セレネとの結婚は許されなかったのだとか。
うーん、何か厄介な事情でもおありで? とは思ったけれど、シルヴィアはそれ以上踏み込めなかった。
大体脅してお飾りの妻でいろとか言う男に、愛する女性の事をあまり根掘り葉掘り聞けば何か企んでいると思われる。
念の為、知らずに近づいたりしないように確認だけさせてくださいね、というこちらがとっても下手に出た上で得た情報がこれだけだ。
いやあの、常識的に考えたらそもそも平身低頭弁えた態度を取らなきゃいけないの、そちらでは……?
身分が上だから居丈高でいるけれど、やってる事とっても下種では。
白い結婚を突きつけて離縁するという方法も奪われてしまった挙句、どうやら既にこの家の使用人たちには情報伝達がしっかりされていたようで、シルヴィアの味方はこの家にはいなかったのである。
とはいえ、ずっと部屋の中に監禁されて外にも出られない、というわけではなかった。
一応しょぼくはあるがご飯は出たし、子どものお小遣いかよ、と言いたくなるが多少のお金はもらえた。
積極的に社交の場に出て交流を深めるような事はさせてくれないというか、そもそもドレスとかないので無理だったが、町の中を外出するくらいは許されていた。
まぁ、普通の貴族令嬢として育てられてきたのであれば、自分の恥になるだろう話をそこかしこでするとは思われていないだろうし、シルヴィアの実家はここから二つ程離れた町にある。徒歩でそこまでろくすっぽ鍛えたわけでもない女の足で行けるなどとも思われていないのだろう。
(でも、お小遣いをコツコツ集めて乗合馬車に乗ればいつでも実家に帰れるのよね……)
常識的に考えて、そうやって実家に帰る事も考えた。
けれども婚約の話が持ち込まれてから結婚するまでの間、アルトはとても好青年だった。
あの好青年が実は他に好きな相手がいて、お前はお飾りの妻だしそのうち彼女の踏み台となるのだから泣き寝入りする準備だけしておけ、とか言うとはとてもじゃないが思わなかったし、仮に逃げ帰って両親に伝えたとしても簡単に信じられないだろう。
初夜を迎えず白い結婚狙いだった、とかであればまだ話が通ったかもしれない。
けれども、初夜は済ませているのだ。
何かにへそを曲げてシルヴィアが我儘を言っているだけ、と思われるような事になれば、流石に精神的に落ち込む。
だって本当に、初夜を終わらせる前までは最高の結婚相手だったのだ。
婚約者時代でも手紙のやりとりは頻繁にしていたし、贈り物だって……誰が見ても愛し愛されている恋愛カップルそのものだった。
だがしかし、それはシルヴィアを油断させるための罠だったのである。
高位貴族のやる事って怖ァ……と思いながらも、シルヴィア一人ではどうすることもできない。
同じ町に暮らしているお友達が一人いるので、シルヴィアはお手紙を出して遊びに行ってもいいかと伺いを立てた。
ライラ・カルバリ男爵令嬢である。
貴族たちが通う学院で同級生だったお友達だ。
彼女の婚約者は現在隣国に留学に行っているので、戻り次第結婚するのだとか。
なのでまだ未婚だから夫人ではなく令嬢だとのたまっている。
というか、シルヴィアの同年代で学院卒業と同時に結婚した相手は実のところ数える程度しかいなかった。
家同士の色々な事情があるので深くは突っ込まない。
ともあれ、唯一シルヴィアが心の拠り所として直に会いに行けるのは、現時点ライラだけだった。
彼女の家がこの町じゃなかったら、それこそ本当に誰も味方がいない状態だったに違いない。
とはいえライラは男爵家。伯爵家、それも後継者として後を継いだアルト伯爵をどうにかできるとは思っていない。
けれど、それでも。
自分の身に起きた理不尽をちょっと愚痴るくらいはいいんじゃないか、解決してくれとは言わないがせめて慰めてほしい。男運が大層悪かったのね、と。
茶会に呼ばれたかのような服装ですらなく、本当に普段着すぎて平民が余所行きの服を着てるくらいにしか思われないくらいラフな姿でシルヴィアはライラの屋敷を訪れた。
学院にいた時服装や身だしなみをきちんとしていたシルヴィアがいくら気心しれたとはいえ友の家に来るにあたってこんなラフすぎる服で来ると思っていなかったライラはシルヴィアを見てほんの一瞬ぽかんとした顔をして……それからすぐに何かを察したらしい。
「えっと……その、今日は実は他にも友人たちが集まっていて、ちょっとしたお茶会みたいになってしまっているのだけれど……それでも構わないかしら?」
「私は構わないけれど、そちらが構うのであれば出直すわ……だって急な訪問だもの……」
気遣われている、と悟りながらもシルヴィアはとても惨めな気持ちになった。
本当だったら、もうちょっとちゃんとした服で来るつもりだった。
けれども、あまりしっかり着込んだら使用人たちの目が鋭くなるのだ。
下手に外に出るのを邪魔された挙句アルトに連絡をされたら、かろうじて外出が許されている今よりももっと待遇が悪くなるかもしれない。
「何か事情があるのよね。いいわ、入って」
素晴らしい察しの良さでもってライラが庭へ案内してくれる。ガーデンパーティみたいな感じでお茶会をしていたらしい。
そこにはシルヴィアが学院に通っていた時に実際話した事がある令嬢だけではなく、遠くから眺めるだけだった雲の上の人みたいなご令嬢もいた。
ライラは相変わらず顔が広いわね……とシルヴィアは感嘆した。
だって、伯爵家のご令嬢とか公爵家のご令嬢もいるのだ。
身分を考えたら恐れ多くて話しかけられない……! と思うような方が当たり前のように存在していて、なんだか別世界に迷い込んだ気分になる。
ちなみに彼女たちがここに来るまでに乗ってきた馬車は、屋敷から少し離れた所で待機しているのだとか。まぁ、男爵家の家の近くに公爵家の馬車があったら何事かと思われるのも仕方がないと思うので、シルヴィアはそうなのね、と受け流す事にした。
突然現れたあまりにも軽装すぎる女に視線が向くのは当然だった。
たくさんの視線に思わずシルヴィアは身じろぐも、ともあれ挨拶だけは忘れない。
シルヴィアはこの場にいるご令嬢たちを知っているけれど、ご令嬢がシルヴィアの事を知っているとは限らない。それもあってライラが手短に紹介してくれた。
伯爵家に嫁いだ、という事でつまりは今シルヴィアは伯爵夫人である。
けれども、公爵家のご令嬢も伯爵家のご令嬢も、ついでに嫁ぐ前のシルヴィアと同じく子爵家のご令嬢も、シルヴィアが結婚したという話はもしかしたら耳にした気がするけれど、しかし伯爵夫人として活動しているとは聞いた事がない。
あら? 一体どういう事かしら、もしかしてその装いと関係ありまして?
露骨に表情には出さないけれど、若干の好奇心を滲ませてご令嬢たちが質問する。
シルヴィアは、もうどうにでもな~れ~! の気持ちでいっぱいだった。
大体ロクな味方もいないまま孤立無援と言ってもいい状況で、結婚してから既に一年近くが経過しようとしていたのだ。もっと早くにライラの家に駆け込めば良かったのかもしれないけれど、そっちにまで意識が回らなかったというのもある。
だって、初夜を迎えた後も普通に幸せな夫婦になれると思っていたのが一転してそんな事はないとなってしまったのだ。しかも使用人たちも自分の監視をしているような鋭い眼を向けるばかりで、外出する時に下手にめかし込めばあれこれ言葉を駆使して外出をやめさせようとする。
外部に助けを求めに行くかもしれない、と思われるような行いをするとアルトに連絡がいくのか、そういうときだけアルトは屋敷に戻ってきて、余計な事はしようとするな考えるなと怒鳴りつけてくるのだ。まだ暴力まではふるわれていないけれど、それも時間の問題だと思うには充分だった。
そんな風に自由を奪われるようにじわじわと心に鎖を巻き付けるような日常を過ごしていたのもあって、友人のライラの実家がこの町にある、と思い出すまでそこそこの時間がかかってしまったのである。
だから、ご令嬢に一体その装いはなんですの? と聞かれて。
「今日の私はお茶会参加者というよりは道化だと思ってくださ~い」
と、完全にヤケッぱちになってのたまったのである。
きょとん、としたご令嬢たちの表情は、誰もかれも美しかった。
久々にしっかり抽出された紅茶を飲みながら、シルヴィアはそれではお聞きください、高位貴族に搾取された憐れな女の話、とのたまってそのまま語り始めた。
え? え? と最初は戸惑っていたご令嬢だが、そこから始まった親が決めた婚約者、それでもお互い上手くやっていたなんて部分では、あぁわかるわかる~と共感する者もいたし、他人からもたらされた恋の話にあらあらまぁまぁ、と色めき立った者もいた。
恋愛トークなどしたくても普段はあまりする機会がない。
普段は割と恋物語だとかの本から得られるときめきを摂取している令嬢たちは、新鮮な恋愛話に目を瞬かせ胸をときめかせた。
とはいえ、そんなときめきがあったのなんて序盤だけだ。
結婚してさぁ初夜だ、というあたりは最高潮に盛り上がったのだけれど、初夜が終わった後の男の言葉に話を聞いていた令嬢たちの目は一様に死んだ。
は? はぁ?
という気持ちである。
騎士団に属する家系に生まれた伯爵家のご令嬢は、女であっても文武両道たれ、という教育の元育てられていたのだが、そのあまりの展開に思わず手にしていた扇子をべぎぃっ、と素手で――それも片手でへし折った。
立派なゴリラであそばしている。
もし、この初夜を迎えていたのがシルヴィアなどではなくこちらの伯爵家のご令嬢であったなら、きっと今頃アルトの命はなかったかもしれない。
そうしてその後は使用人たちに監視され、一応の外出はできるけれど下手にどこか、誰かに会うような装いをして出かけると邪魔をされるし夫に連絡されてそうなると夫が怒鳴り込んで余計な事をするなと叱ってくるし、助けを求める事もできず、そのうち夫の本命女性と結婚するためだけに自分は踏み台にされてしかも泣き寝入りするしかない状況に追い込まれるかもしれないのだと何もかも喋った。
初夜を迎えるまでは本当に非の打ちどころもないような素敵な素敵な男性だったので、本性がこれです、と両親に訴えてもすぐに信じてもらえないかもしれないし、最終的に信じてもらえたとしても最初の時点でちょっとでもこちらが嘘を言っているみたいな反応されたらもう心が傷つくなんてものじゃなくて、親に助けを求められないし……ましてや夫一人繋ぎとめておけないなどなんて不出来な娘だ、とか言われたらもう一生立ち直れない……と言われてしまえば令嬢たちも何も言えない。
完全にDV男の仕打ちを訴えても初回は信じてもらえないのと同じパターンである。
物的証拠がそろっていれば初回であっても信じてもらえるとは思うが、それでも心情的に「でもあの人が……? そんなまさか……」となるわけで。
一番信じてほしい相手に信じてもらえなかったら確かに心がとても痛いのは皆よくわかっているので、ご令嬢たちは各々慰めの言葉を口にしてその中の一人が、そっとマカロンをシルヴィアの口に押し付けた。
ぱく、と餌を与えられた鳥の雛のように抵抗なく食べる姿を見て、警戒心をお持ちなさい……とマカロンを押し付けた令嬢は思った。
ふぇぇ久々の甘いお菓子だよぉ、とか悲しい事を言いだしたシルヴィアに同情票がどんどん集まっていく。
伯爵夫人のはずなのに、お茶はお茶とは名ばかりの出涸らし。色着いたお湯レベル。お菓子も滅多に出てこない。食べたきゃお小遣いで買えとばかりである。
伯爵夫人のはずなのに……ッ!!
正直結婚前の子爵家にいた時の方がまだマシな暮らしをしていたまである。
少なくともご飯でひもじい思いはしなかった。
最初から愛のない政略結婚であるならばまだ諦めもついた。
けれども、初夜を迎えるまでは本当にお互い愛しあっていると思っていたのだ。
そのせいで余計に天国から地獄。落差が激しすぎる。
ご令嬢たちも流石に不憫に思った。
そりゃあ、敵対している相手を陥れたりすることはある。そういう時にちょっと上げてから落とした方がより効果的なのもわかる。
けど、いくらなんでもそれを結婚相手、しかもお互い上手くやれていると思っている相手にするのは……と思った。
お互いに愛がない結婚だと割り切っているならしでかす可能性もあったかもしれない。だが、相手の人間性によるのだ。
上手く転がせそうなら転がすし、そうでないなら自分に被害が来ない程度に相手を陥れる。こちらの家に損失がこないよう、上手に向こうだけに痛手を負わせて離縁に持ち込んだりすることも考えるだろう。
とはいえ、そういった考え方は高位貴族のご令嬢がほとんどで、低位貴族となれば流石にそうもいかない。
最初から愛がない結婚なら割り切れた。
愛があると思ったのに実際はそうでなかったから余計に傷つくのだ。
しかも聞けば、まるでそのうち何らかの罪でも被せられて家を追い出されるのが確定しているような言われよう。
その男の本命はどなたですの? と問えば、セレネ・ヴィオレッタの名が。
セレネ……あぁ、あのヴィオレッタ家の、と思い当たった令嬢がへぇ、とばかりに声を上げた。
シルヴィアはセレネの事を何も知らない。会った事もないし、聞いたのは名前だけだ。ヴィオレッタ家がどんなものかもよくわからない。
有識者であるご令嬢曰く、落ちぶれる寸前の名ばかり伯爵家なのだそう。
没落寸前で貴族という椅子に必死にしがみついている家。ロクな権力も持ってないし、金もない。
爵位が欲しい金持ちの商人あたりから見れば格好のカモだが、しかしヴィオレッタ家のプライドは高く、いくら金を持っていようとも平民との結婚などするつもりがないのだとか。
貴族で金を持っているとしても、プライドの高い女、それも持参金を持つ事も難しい経済状況の家の女を嫁にと思う物好きは中々いないし、婿に入るにしてもヴィオレッタ家は特に領地を持っているでもないので、経済的にどうにかするとなると、相当の才覚が必要になる。
だが、優秀な男は基本的にそんなギリギリの女を選ぶ必要がない。むしろ他にも選択肢がある。
故に、売れ残っている女だとヴィオレッタ家の事を多少なりとも知るご令嬢は淡々と述べた。
シルヴィアとアルトの年齢は、四つ程離れている。
セレネはアルトと同年代で、どうやら貴族学院で学友だったらしい。
その頃から噂になりかけてはいた……のだったかしら? お姉さまからふわっとしか聞いていないのだけれど、と姉を持つ子爵令嬢が言う。
アルトは学院を卒業したあと、両親から後継ぎとしての教育の詰めの部分をしていたはずだ。
婚約期間中だったので、手紙で何かそんな事が書かれていた気がする。
シルヴィアが学院を卒業するまでの間はそういった期間として、シルヴィアが学院を卒業したらすぐ結婚式を挙げようとなっていたのだ。
だが、ご令嬢たちの話ぶりや、当時のアルトの言葉を思い返すと、つまり、それって。
結婚前からずっと相手がいて不貞をしていたという事だ。
アルトからすると不貞相手はシルヴィアなのかもしれないが、正式に婚約を結び尚且つ結婚までしているのだから世間的にはいくら真実の愛だろうとなんだろうと、セレネの方が不貞相手。
婚約していた頃からずっと騙されていたのか、と思うと、怒りはもちろんあるのだが、なんだかとてもやるせない気持ちになった。
うちが子爵家でそこまで身分も高くないし、権力的にも強いわけじゃないから、だからアルトは丁度いいセレネのための踏み台としてシルヴィアを選んだのだろう。
どれだけ酷く踏みにじっても最終的に泣き寝入りしてくれるだろう相手として。
確かに見た目からしてシルヴィアは大人しそうだし、そういう風に見えたのかもしれない。
けどそれにしたって……
「あんまりよぉ~~~~!!」
わっと、テーブルの上に突っ伏すようにしてシルヴィアは泣いた。
汚い流石高位貴族汚い、とまで言われてしまえば、その場にいる高位貴族のご令嬢からは何も言えなかった。
ハッキリとは言われていないが、恐らくお飾りの妻にしておいて、きっと周囲では妻が何もしないのだとさも悪妻のように言いふらすのだろう。悪妻ならそのうち他の男と関係を持ったと言われても何もおかしくはないだろうし。
白い結婚で穏便に離縁という方法を選ばなかったのは、きっとこのためだろうとすら思ってしまう。
もしかしたら本当に誰かしら人を雇ってならず者に身を汚される可能性すらある。
そのまま死んだとして、邪魔者が消えてアルトは万々歳。死人に口なし、いくらシルヴィアが本当は何もしていなかったとしても、悪女の名を勝手に轟かされるのだろう。
そんな事ありませんよ、という慰めの言葉は出なかった。
だってこの場にいる令嬢の皆さん満場一致で「あぁ、ありそう」と思ってしまったので。
それなのに大丈夫ですよ、なんて言えるはずがない。気休めにしたってもっとマシな言葉を吐けという話だ。
えぐえぐと泣いていたシルヴィアががばりと顔を上げる。
涙と鼻水で酷い顔になっていた。とんでもなくおブスである。
だが、その誰が見てもレディとはとても言い難いおブスなツラを見て一人だけ、まるで雷に打たれでもしたかのような反応をした者がいた。
公爵令嬢である。
彼女は周囲からセーラ様と呼ばれ、幅広く支持されている。令嬢たちからは憧れの君、みたいな反応をされていた。憧れのお姉さまなんです、とのたまう年下のご令嬢は数知れず。
令息たちからすれば令嬢たちの視線を掻っ攫っていく強力なライバルでもあった。
別に男装してるわけでもないのに、立ち居振る舞いのあまりの凛々しさに下手な王子様より王子様しているとも言われていた。
けれどもそんなセーラ様は、一部の者から陰で犬キチ令嬢と呼ばれていた。
犬をこよなく愛している。婚約者よりも犬を優先する。セーラ様に愛してほしくば自らも犬となれ、とは一部の令息たちの間で囁かれている戯言である。実際犬の振りをしてセーラ様の前に侍ったところで、冷たい視線を頂戴するだけであった。
そんなセーラ様が、泣いてぐしゃぐしゃな顔を晒しているシルヴィアを見てこう呟いたのだ。
「ベス……!」
――と。
ベス、というのは昔セーラ様が飼っていた犬だった。
ちっちゃくて、丸くてコロコロしていて一生懸命よちよち歩いては時々コロンと転がって、どうして転がったのかわからない、みたいな顔をして幼いセーラ様を見上げてくる小型犬であった。時々舌はしまい忘れてるし、寝てる時の姿は野生一切感じられないし、割とおバカな部分が多いわんこだった。
けれども、セーラ様にとっては自分が犬好きになるきっかけをくれた大事な大事なわんこだったのである。
とっくの昔に寿命で亡くなってしまったけれど、それでもセーラ様の心の中にはいつでもベスがいたのである。
ぐすぐすと鼻をすすっているシルヴィアではあったが、その鼻からピスピスと音が漏れ、何だったらふぐぅ、というなんとも情けない泣き声も漏れた。
その音が。
かつてのベスと全く完全一致した音だったのである。
同じ犬種であっても微妙に違いがあったというのに。
雰囲気もそうだけど、まさかこういう所まで同じだなんて! とセーラ様は感動で打ち震えた。
だって、虹の橋でお別れしたはずのあの子が、人の身になってるけど戻ってきてくれたのだ!
全体的にこのちょっと漂うお間抜け感といい、何もかもがかつてのベスを思い出させてくれる。
実際本当に生まれ変わりかどうかは関係なかった。
セーラ様の中でシルヴィアはベスである、という事になってしまったので。
「おぉよしよしベス、可哀そうに。わたくしにお任せなさい。どうにかして差し上げましょう」
「あの、セーラ様、その人ベスではなくシルヴィアさんです」
「ベス、とは一体……?」
困ったように指摘する令嬢と、ベスが何者かを知らない令嬢の戸惑った声もセーラ様にとってはなんのそのである。
「皆様にも是非協力していただきたく存じますわ」
セーラ様がそう言うのであれば。
この場にいる令嬢たちに拒否権はなかったのである。
そもそも、そんなクソ男を野放しにしておくとかちょっとな、とも思ったので。
だってそんなクソに感化されて他の男までこんな風になられたら、自分はさておき自分の友人や家族に魔の手が伸びないとも限らない。
出る杭は打たれる、という言葉もあるがつまりは。
第二第三のクソ野郎が現れる前に叩き潰さねばならないのである。
そのとばっちりを受けたのは、高位貴族の家に生まれた令息たちであった。
家格が同じくらいの相手が婚約者ならまだいいが、自分の家よりも身分が少しばかり下の令嬢たちが、ある日を境にまるで犯罪者を見るかのような、どこか警戒した眼差しを向けるようになってきたのだ。
何か、自分はしてしまっただろうか……? そう思って問いかければ、貴方が悪いわけではないのですが……と可愛い可愛い婚約者はそこはかとなく彼との距離を保ったまま、最近聞いたとても酷い話をしてくれた。
曰く、本当に愛する人と結婚するために、そんな彼女との結婚が認められるために、踏み台として身分が下の女を用意した男がいるのだとか。
その男は初夜を迎える前までは、婚約者だった令嬢にも大層優しかったようだが、いざ初夜を済ませた後で本性を現してお飾りの妻に仕立てた挙句、緩やかに使用人たちに監視させて動きを制限させたのだとか。
そうしてお飾り妻に仕立て上げて、貴族の妻としての仕事を何もしていないんだ、と他所で嘯き、本来のお相手が代理で彼を支えてくれている、という風に周囲に印象付けて、悪妻とした相手には他の男と不貞をしていたとかいう証拠を突きつけて家を追い出すという計画を立てている可能性がとても高いのだとも。
相手が泣き寝入りするしかないように。身分が自分より低い、おとなしそうな相手を結婚相手にしたのはそのためなのだろうと。
まだその女性は追い出されたりはしていないようですが、それも時間の問題だろうと。
女性の両親に助けを求めようにも、結婚するまではとても好青年だった男の事をそう簡単に疑う事もないだろうし、ましてや経済的にも色々と握られている状況だ。手紙一つ出すにしても、使用人が妨害するのが目に見えている。
現時点で男がやっているのは不貞でしかないが、しかしそれだって妻が何もしないのを見かねて彼女が手助けをした、という話にしてしまえば情状酌量の余地があるように思わされてしまう。
口八丁で自分たちにとって都合の良い真実をばら撒いてしまえば、悪妻を追い出した後で彼女と改めて結ばれる事になった時、それは美談にすり替える事も可能だろう。
悪女に負けず真実の愛を貫いた二人の愛の物語として。
そんな、傍から聞けば色々と酷いとしか言いようのない話を終えると、可愛い可愛い婚約者は探るような目を向けて問うのだ。
「我が家の婚約も親が決めたもの。そして家格はこちらが下。もし、貴方に他に真実愛する方がいらっしゃるなら、どうか先に言ってくださいませ。穏便に婚約を無かったことにして、わたくしそちらの方と貴方が円満に結婚できるよう協力いたしますから」
「いやいやいやいないから! 真実愛しているのは君だけだから!」
「ですが、それが高位貴族のやり方なのでしょう……?」
「断じて違う! それは、一部のどうしようもない屑だけだから!」
まさか自分がそんな事をするような男として見られているのもショックだし、それ以前に折角仲良くやってきていたはずなのにどこの誰とも知らない野郎のせいでその仲に亀裂が生じているのも業腹である。
まるで高位貴族なら普通にこれくらいやるのですよね? と言わんばかりだが、とんでもない風評被害だ。
そしてそれは、この家だけに留まる話ではなかった。
現時点婚約しているこの国の令嬢たちはほとんど知っていると言ってもいい。
そして、多くの令嬢が婚約者の男性に疑いの目を向けた。
自分は踏み台にされるのか、それともマトモな妻として扱われるのか……果たしてどちらなのかしら、と。
勿論政略結婚で愛のないところもあるにはあった。
だが、政略結婚は別に新手の人身売買などではなく、家同士の契約に基づいて行われるものだ。
一方的に搾取するために結ぶものではない。
貴族社会が男尊女卑の傾向にあるといっても、流石にこの問題は放置できなかった。
放置すれば、自分たちは女をそうやって利用する男です、と言っていると見なされてしまうのだ。
同類だからそういう話は当たり前のものとして受け入れているよ、という風に見られたら終わりである。
婚約者だけではない。下手をすれば母親から、姉や妹からもそのような目で見られるのだ。
嫡男だけではない。次男以降の息子たちも、更には家の主たる父親もだ。
娘など政略の駒で別に嫁ぎ先でどう扱われようとも構わん、と言い切れるちょっとロクデナシタイプの親に、ある娘は言った。
「ですがそれって、家から出た娘をどう扱ってもいい、って思ってるわけなのでそれってゆくゆくは我が家をも下に見ているという事ですよね?
あちらの家が我が家に莫大な援助をしてくれて、そうされたとしてもこちらから何も言えない、というくらい力の差があるならともかくそうでないのにわざわざ自分から馬鹿にされに行くのですか?
そういう所はそのうちますます増長して、娘を嫁にもらってやったのだからむしろそちらが家に援助をしろ、とか言い出したりしてもおかしくありませんわよ?
お父様、正気ですの?」
自分が周囲を見下すのはいいが、自分が見下されるのは我慢ならん、というダブルスタンダードが過ぎる面倒なプライドの持ち主は、そうやって疑問を口に出されて即座に言葉を返せなかった。
娘だけが下に見られるなら婚家での扱いなどどうでもいいが、それがいずれあの家の娘なのだから下に見てもいい、という風に変わり、あの家の人間なのだからうちよりも格下だ、と認識がすり替わらないとも限らない。
確かに莫大な援助をされるならそれくらい我慢しろと言ったかもしれないが、その家の婚約はそういった旨味がたっぷりあるわけでもなかった。
故に、いずれは我が家そのものまで下に見られるという疑心暗鬼に駆られた男は娘の言い分にまんまとのせられ婚約の見直しをしたのである。
疑いの目を向ける娘に、確かに政略結婚かもしれないけれどでも君の事は政略とか関係なく好きなんだ、と告白し仲を深めた家もあれば、その噂のような男ではないという証明のために私に尽くしてくださいませね、と何かを勘違いした令嬢の婚約が破棄されたりと、まぁいくつかの家の婚約が見直されたり白紙になったりもした。
王命で結ばれた婚約もである。
高位貴族がそんな企みをしているという噂が流れた時点で、最も国で権力を持つ家が放置などできるはずがなかった。
王家は決して自分の利益だけを求めて臣下の家庭を疎かにするつもりはありませんよ、というアピールが必要になったのだ。
王命で結んだ婚約は国のためでもあるけれど、お互いの家の事もきちんと考えてますよ、というアピールをしないと、成程あの噂の高位貴族のやり方は王家直々なのですね、などと最悪な噂に変化しかねない。
面と向かって王家にそんな事を言う者はいないだろうけれど、人の心の内までは王家も強制などできないのだ。
そんなこんなで、王国内は突然の婚約見直しブームが巻き起こってしまったのである。
噂の男が悪妻に仕立てた妻にいつ暴漢を嗾けるかわかったものではない。
それもあって、恋敵を人を雇ってどうにかしましょう、というような依頼は今までなら秘密裏にでもどうにかできたかもしれないが、最近は周囲の目が厳しくなって下手にそんな依頼を出そうとすれば、まさかあの噂の人物はお前か!? となってしまいかねない。
邪魔者の足を引っ張るのではなく、自分が自らアピールに出た方がマシ、という状況にまでなっていた。
噂の男のせいで、今卑怯な手を使おうとするともれなくそいつの親戚か? みたいな目が向けられるのだ。
邪魔者を追い落とすより自分が努力して上がった方が確実となって、若干治安が上がったのは余談である。
社交界はもっぱらその話題で持ち切りであるし、それよりなによりとんでもない事になんと。
市井での劇でも上演されるようになった。
じっくり演技の練習をして、という格式ばったところではなく、庶民でも楽しめるアドリブありきの本当に気軽に楽しめる、なんだったら演技でトチった事すらネタにしてしまうようなところで行われたそれは、何と今お貴族様の世界でもちきりの話題らしいとの謳い文句で爆発的な人気になったのである。
とはいえラストは実際そのお貴族様がどうなったか、まだ知らない状態で、それ故終幕はその時の演者のアドリブでコロコロ変わる。
それもまた客にウケて、市井は途端に賑わいを見せ始めたのである。
普通の貴族の娘なら、自分の事をこんな見世物のようにされたならもう恥ずかしすぎて外を出歩けないだろう。
けれども社交界に出してもらえなかったシルヴィアからすれば、別に知られたところでなぁ……どうせそのうち私悪妻として処分されるんでしょ? という投げやりモードに突入していたので。
社交界での噂も、市井での演劇も。
なぁんにも気にしちゃいなかったのだ。
さて、そんなこんなで社交界でも市井でも一つの話題で持ち切り状態だったために、とうとうシルヴィアの両親にもそれらが知られる事となった。
不憫な娘もいたものねぇ、とか最初は他人事だったけれど、しかし聞こえてくる婚約時代のあれこれにとても覚えがあったのだ。
勿論手紙の内容なんて知らないけれど、それでも贈り物としてもらった物や、逆に娘が贈った物。そういった品に、とても心当たりがありすぎた。
それどころか、メッセージカードの内容も一部しっかりと知られていて、それがどうにも記憶に引っかかるのだ。
なんだかとても嫌な予感がして、シルヴィアの両親は馬車に乗ってアルトとシルヴィアが暮らしているだろうお屋敷へと出発したのだ。
ところが家にいたのはシルヴィアと使用人たちだけ。
しかも使用人たちとシルヴィアの間に流れる雰囲気はどうしたって上手くやっているようには思えない。
使用人たちは後を継げない貴族の家の娘だったり息子だったりといった、そこそこ身元が確かな者たちだけれど、本来ならば伯爵夫人であるシルヴィアに礼を尽くさねばならないはずなのに、どうにもそういった態度ではなく。
そしてアルトの姿は見えない。いや、辿り着いた時間的に仕事をしているのだ、と思えるが、それにしたって。
なんというか、あまり人が暮らしているような空気がないのだ。
嫌な予感はあった。だからこそ、単刀直入に聞いた。
結果としてシルヴィアの母は崩れ落ちたし、父もまたなんてことだ……と天を仰いだ。
今あちこち賑わせている話題の泣き寝入りを求められている女と、その夫というのがまさか自分の娘とその夫だなんて!
領地に引っ込んでいたアルトの両親は間違いなくそういった噂を把握していないだろう。領地の隅っこでのんびり土いじりでもして過ごす事にする、とかのたまっていたし。
けれども、のんびり引退ライフをさせたままいられるはずもない。
シルヴィアの両親は大急ぎでアルトの両親と連絡をとったのである。
アルトの両親がここに来るまでに数日経過したけれど、こちらも噂と真実を知って危うく卒倒しそうになっていた。
これで一人前としてやっていけるだろう、と信じて後を継がせた息子がとんでもない事をしている。
確かにアルトとシルヴィアとの結婚は親が決めたけれど、その理由は別に政略的なものでもなく、単に親同士の仲が良かったからだ。決してアルトの両親はシルヴィアを食い物にするために結婚させたわけではない。
人としてなんと不誠実な事か! と怒り心頭になったアルトの父はこうしちゃおれんと息子の元へ殴り込みに行く事にしたようだ。
もう全く帰ってこないこの屋敷で待っていたって、どうせいつまでも会えないのだから。
引退したとはいえ先代と、子爵ではあるが現役のままのシルヴィアの両親が相手では、流石に屋敷の使用人たちもシルヴィアと同じように軽んじるような態度を取れるはずもなく、彼らは早々に白旗を上げて何もかもをゲロったのであった。
社交界では一体こんな不憫な女性とその女性を使ってこんな酷いことを目論む貴族の男性ってどなたかしら、と本人探しのような事もちらほらとされてはいたのだが、実のところこの頃にはほとんどの貴族が公然の秘密扱いで真犯人を知っていた。
ただ、大っぴらに声を上げていないだけだ。
セレネの家が持参金も出せないくらい貧乏で、いっそ爵位を売り払って平民になった方がマシくらいなのにけれどもプライドだけは高いセレネの父はそれをせず、嫁入りさせるのも難しい状態だったため、自分の食い扶持は自分で稼げとばかりに王宮女官の道に進ませた。
王宮で働いている優秀な女性というのは、多少年齢が高くなってもそれなりに貰い手があるというのもセレネの父としてはポイントが高かった。
家の方で結婚させようとしたら金銭面がとても大変なのだが、しかし職場恋愛からの結婚なら妻に金がなくとも同じく城で働く男なら問題ないだろう。
そういう打算も確かにあった。
それに、夫婦で優秀であるのなら、王家の覚えも目出度いとなって、特に悪い事にはならないのだ。
打算もあるが一応の親心でもあった。
だがしかし、国中で噂になっているそれの当事者になるとはセレネの父も予想外だったに違いない。
アルトは学生時代に淡い思いを持ちつつもしかし婚約者がいるからと別れたはずのセレネと、卒業し王宮で働くようになってから再び再会、結婚した妻はしかし妻としての責務を果たさず何もしないまま。
それを見かねたセレネが学生時代の友人というよしみでもってアルトの手助けをするようになり、そうしていくうちにいつしか二人は恋に落ちた――というのがどうやらアルト側の筋書きであったようだ。
実際は学生時代にも普通に仲睦まじく過ごしていたから、アルトたちと同級だった者たちからすればあいつら付き合ってただろ、という認識だし、なんだったら卒業した後も続いていると知っていた。
周囲には妻が何もしてくれなくて、と言っていたが、実際はアルトが何もするなと言っていただけだし、そういった意味では彼の言い分と最初噂になっていた話とは食い違いが存在していた。だから、最初のうちはまさかその話題になってる人物がアルトとセレネではないと思っていたのだが。
それが密やかにバレた。
大々的に知られていないのは何故か、となればそこにはセーラ様の暗躍があった。
公爵家のご令嬢は、自分の派閥のご令嬢にシルヴィアの話を悲壮感たっぷりに伝え、万が一婚約者が何か、そういった事を目論んでいるようであれば迷わずわたくしに伝えなさいと、私は貴方たちの味方ですよというのを全面的に押し出して噂を広めた。
他人事として聞いただけでも割と酷い話、しかももしそれが自分たちの身に降りかかったら……と恐怖した令嬢はそれこそ不安になりながらも、上手くいっていると思っていた婚約者におそるおそる話を広めた。
実際に、ここで内心婚約者の事などなんとも思っていないし、結婚後には愛人囲って好き勝手しようと思っていた者も密かにいたのだけれど。
噂が広まるにつれて、もし結婚後に本当に愛人囲って妻を蔑ろにして好き勝手やり始めたなら、今回の噂の比ではない程に自分の悪名が轟くだろうな……と察したのだ。
噂の最低野郎は初夜を終えた直後に本性出したみたいだけど、もし結婚後も上手い事良き夫のツラをしたまま妻を裏切り軽んじるような事をしていたとして。それが発覚したらこの最低野郎より更に酷い屑として社交界に名が広まるだろう。
自分だけは大丈夫、とは思えなかった。
この噂が精々知り合いの間だけでちょっとだけ広まっている、程度で済めば、もしかしたら大袈裟な話だとして、自分は大丈夫上手くやるさ、なんて思いあがったことを考えたかもしれない。
だが、社交界のみならず市井にまで広まっている。
これでやらかしたら、あの話広まってるのにあれと同じ方向性でやらかすとか馬鹿なの? と真顔で問われる光景がありありと浮かんでしまった。
そんなわけで密かにやらかそうと思っていた男性陣も、流石に今やらかしたら間違いなく自分の身は破滅すると察してしまい、結果としてどうしようもない程に思いあがった者以外は婚約者との関係を今一度見直し、新たに歩み寄るべきか、それとも他の縁を結び直すべきか――なんて感じで色々あったのだけれど。
その元凶が、アルトにある、と知ったのはこれも勿論セーラ様からだ。
セーラ様は王家にもこの話をばら撒いて、いっそすぐさまお叱りを受けた方が良いのではないか、このアルトという男、とのたまう王子に対し、彼が改心するかもう少し見守りましょうとのたまった。
セーラ様からすれば改心とかする以前の話だろうなと思っているし、それは王子も同様だった。ついでにその場で話を聞かされた国王も王妃も同様だった。
王家から内密の話、という事で、これまたアルトとセレネ以外の者たちに、この噂の当事者の事がばらされていったのである。
そうなれば。
表立ってあの噂の最低野郎お前なんだってな、と言ってはいけないと王家にくぎを刺されているとはいえ、だがしかし今までと同じような態度でいるのも難しい。
露骨に避けたりはしないけれど、仕事の同僚などは今までそれとなくフォローに回ったり回られたりしていたものをやんわりと距離をとって、フォローに回れないのを装い、フォローに回ってくれそうな時は先んじて他の人に頼んであるから大丈夫、と断りをいれた。
それはセレネも同様だった。
元々優秀ではあったけれど、やはり一人で何もかもをするのは無理がある。そういう時、他にフォローしたりしてくれたりする人がいるからどうにか回っているのだが、それがなくなった事でじわじわと自分たちの仕事の負担が大きくなっていく。
けれども、別に今まで以上の仕事を押し付けられているわけでもない。だからこそ面と向かって文句も言えず、二人は家に帰る時間もどんどん遅くなっていって、最近ではすっかり疲れ果てた表情を隠せなくなっていた。
アルトとセレネもまた、国中に広まった噂話を知らないわけではなかったが、勿論自分の事だとは思っていない。普通の結婚だと思ったら初夜の日に白い結婚持ち掛けられて呆然とする話、というのは今までにもいくつかあったし、それもあって今回の話もそういうのがやたらと誇張されたものだと思っていた。
実際の内容はもっとしょぼいのだろうと。
そんな事よりも最近忙しくなってきた仕事をどうにかする方がアルトにとっては余程重要なのだ。
お互い家に帰る時間が遅くなってきたのもあって、最近はセレネとの仲もギスギスし始めている。どうにかしないとと思っても、それを改善するためにはまずやはり仕事を手早く片付けなければならなかった。
家に帰るのが遅いだけであるならば、別に二人もそこまで不仲になりかけたりはしなかった。
ただ、アルトは妻がいる屋敷にめっきり帰宅はしなくなったし、城から程近い場所に借りた家でセレネと暮らしている。
使用人までこちらで雇うと色々と勘繰る者がでるだろうから、使用人を新たに雇ったり、屋敷からこちらに連れてくるのはできなかった。
だからこそ、アルトとセレネは当初、お互いで家の事をやっていたのだ。平民はこういう事を普段やっているのね、なんて笑いあいながら言える余裕が当時はあった。
けれども今は帰宅する時間がそれぞれ遅くなった事で、家に帰っても夕食の準備から始めないといけない。帰る時間によってはそこらで食べる物を買って帰ろうにも、店が閉まっていたり、かろうじて営業していても目ぼしいものは売り切れた後。材料を買って自分たちで調理しないとロクな食事にもありつけない状態だった。
学生時代に授業の一つで調理もあったために、一応基礎はできていたため自炊もどうにかなっていたけれど、疲れて帰ってきてから更に料理を、という気力は正直ほぼ無い。
しかも家に戻ってくるのはセレネの方が若干早く、そうなると彼女にばかり家事の比重が傾いた。
最初のうちは仕方のない事、と割り切っていたセレネも毎日やっていれば負担にしか思えないし、後から帰ってきたアルトは感謝の言葉こそ言ってくれるがそれだけだ。
お互いに忙しくなっているのはわかるけれど、セレネの中でアルトはわざと帰りを遅くして自分に家事を押し付けているのでは、と疑い出すのは時間の問題だった。
たまの休日も、以前なら二人で町に出かけてデートを楽しんだりしていたのに最近は疲れ果てて出かける気力もなくなってきたし、そうでなくとも家の中の掃除や洗濯をしておかなければならない。
元々家が貧乏で使用人の数も最低限だったセレネはそこら辺の家事のやり方も教わっていたけれど、折角の休みだから、で寝てばかりいるアルトに内心不満がたまらないはずもなく。
あと少し遅かったら、間違いなくセレネも精神的に限界がきて爆発していたのだろう。
だがしかし、そうなる前にアルトの両親が二人の家に乗り込んできたのである。
そう、全てが明かされたのだ。
ついでにシルヴィアの両親とシルヴィアもやって来た。
二人で暮らすなら丁度良かったアルトとセレネの愛の巣は、一転とんでもない人口密度となったのである。
セレネもまた、王都で流れている噂の事は知っていた。
アルト同様に元の話を大袈裟にしているのだろうな、と思っていたから特に気にも留めていなかったけれど。
だがしかし、流れていた噂の婚約者が優しかった時代のお手紙だとか、そういう内容と全く同じ現物をシルヴィアは持参してきたのだ。
そんな細かい部分まで噂になってるとか、変なとこディティール細かいのね、なんて思っていたがまさかの実話。
しかもだ。
この手紙がその噂の内容のそれだというのなら。
噂になっている酷い男というのは言うまでもなくアルトである。
父親にぶん殴られて頬を腫らしている男を、セレネは信じられないものを見るような目で見た。
「ちょっと待って、初夜を迎えた……? だってあなた、妻とは白い結婚にして、数年後にそれを理由に離縁するって……」
「いえ、しっかり純潔を奪われましたよ」
恥じらいなどとうに捨てた、とばかりのシルヴィアの言葉にセレネは目をひんむいた。
「ちょっ、ちょっと待って!? 親が決めた結婚でどうしても婚約を破棄とか解消できないから、だからせめて白い結婚にするっていう話は!?」
「親が決めたのはそうですが、別に強制力の強いものではなかったので、お互い不満があるようなら話し合いで無かったことにするのもできましたね」
「あの、もしかして、今国中に流れてるこの噂って……本当の事? どこからどこまでが本当でここら辺は嘘、みたいなのは……」
「全部本当です。ま、誰かがつけた尾びれや背びれまでは知りませんけど。アルト様がくれた手紙はこちらに。贈り物は……私の実家にいくつか残っております。私が送ったアルト様への手紙や贈り物はどうなっているかわかりませんが、この手紙にはこういう返事を返しましたよ、というのは聞かれればお答えしますよ」
アルトがくれた手紙というのをセレネはちょっと失礼、と言いながらそっと封筒の中から取り出して中を拝見する。
聞き覚えのあるあれやこれやがたっぷりとそこに存在していた。
えっ、それじゃあ、やってもいない悪事をかぶせられて家を追い出される予定だった可哀そうな妻って……とセレネは思わずシルヴィアを見た。
シルヴィアもまたセレネを見ていた。
けれどもシルヴィアの目は決して夫を奪った女狐に向けるものではない。今しがたのちょっとした言葉から、彼女も都合の良いようにアルトに言われていたのだなと理解したからだ。
セレネがアルトから聞かされていた内容は、そもそも学生時代に子供の頃に親が決めた婚約者がいて、そいつと結婚しないといけない、であった。アルトの態度からどうにもお互いの仲はそこまでよろしいものではなさそうだ、とセレネは思っていたし、だからこそどうにかその婚約はなかったことにできないのか、とも聞いた。
だがそれが難しいとなって、ともあれ結婚さえすれば後はどうにかなる、みたいに言われていたのだ。
その後は白い結婚で離縁して、それからセレネ、君と結婚したいとも。
セレネの家は名ばかり伯爵家なので、そもそも縁談など持ち込まれてもこなかった。一応全くないわけじゃなかったけれど、自分の父親より年上の金はある貴族の後妻や愛人といったものばかりだ。貴族としてのプライドを捨てきれない父ではあったが、流石に娘をそういった相手に売るまではしない人だったのと、将来自分で食べていけるように稼げる仕事を見つけなさいと王宮女官あたりを勧められていた。
実家が貧乏だろうとも本人が優秀でそこそこ稼ぎがあるのなら、若い娘を金でいいように弄ぼうなどと考える男より余程マシな相手がみつかるだろうと父なりに考えてくれていた。
それもあって、セレネは学生時代ただ日々を無作為に過ごす事なく必死に学んで、そうして晴れて王宮で女官として働く事ができたのだ。
学生時代から恋をしていたアルトも伯爵家の跡を継いで、城に仕官した。
あとは、家が決めた結婚相手と白い結婚をして円満にお別れすれば、ようやくアルトと結婚して幸せになれる……と思っていたのに。
白い結婚って話はどこへいったのか。
妻になる女とは家が勝手に決めただけで、愛も何もないから白い結婚にするって言ってたはずなのに、聞く限り婚約者時代のやりとりとか、噂で聞こえた部分も本当なら、とんでもなく仲睦まじいわけで。
初夜を終わらせた後で本性を出したのは、初夜の後も素敵な旦那を演じていたらそりゃあ離縁なんてできるはずもないからだろうし、ましてや伯爵家の妻としてお飾りでいるはずもない。そんな旦那のために自分にできる事は頑張ろうとするに違いないのだ。
どういうつもり……? とばかりにセレネがアルトへ目を向ければ。
彼はどこか気まずそうに、ギリギリこちらに聞こえるかどうかの声音で呟いた。
「……だって、手を出さないのは勿体ないだろ……?」
セレネはその言葉を聞いて咄嗟に今まで愛していたはずの恋人を容赦なくぶん殴っていた。
常識があって、頭も悪くなくて、倫理観だとかもそこまでぶっ飛んだりしていなかったはずで、金銭感覚だってマトモで、そういった意味で最高の恋人で将来は結婚して夫になるんだろうな、と思っていた相手が。
確かに大まかにマトモではあるけれど、しかしそれでもどっかずれていて、しかもそのずれが世間的に許容できるかどうかも微妙、となれば。
それはつまり、一見マトモに見えるだけで実はマトモではない、と言ってもいいと思われる。
表立って犯罪をやらかしたわけではないが、しかしアルトはこれから妻であるシルヴィアを悪妻に仕立て上げたりしてこっ酷く捨てる予定を立てていた。しかも相手が確実に泣き寝入りするようにして。
妻になった女は立場だけで実際何もしてくれやしない、家にいても息が詰まる。
なんて言っていたけれど。
奥さん家で使用人からギッチギチじゃないにしても見張られてたわけで。
それってどちらかといえば奥さんの方が息が詰まるんじゃない!? とセレネはつい叫んだ。
あー、まぁ、微妙な監視生活でしたが、あからさまに余計な事をしなければ多少の自由は許されてましたよ、とか言われても何の救いにもならない。
多少の自由が許されていたのは、シルヴィアが完全に屋敷の中に監禁された状態だと、悪妻の噂をばら撒くにしてもその肝心の奥さんの姿を見た者が誰もいないとなるからだ。
誰も見た事がない相手を悪妻だと言われても、そもそもそれは本当に実在する奥さんなのか? という疑問が生じかねない。
そういや町でそんな感じの人見かけたなぁ、という程度であれど目撃情報がアルトにとっては必要だったのだ。
実際は悪妻も何も、活動資金はスズメの涙なので何かをしようにもとても清貧な生活なので、悪妻と言われたからとて周囲もすぐに信じたりはしなかっただろうけれど。
ただ、アルトは今まで周囲に対して一見すれば爽やかに、それでいて誠実に振舞ってきた。
だからこそ、多少おかしな事を言ったとしても、一切信用されないという事もなかったのだろう。
とはいえ、それもシルヴィアが自分たちの事をあまりにも赤裸々に語ったことで全部台無しになったようだが。
本来なら、こんな醜聞自分から広めるはずもない。
だがシルヴィアは別に自分が社交の場に出るわけでもないから、広まったところで……と言った気持ちであったし、どっちにしても後になって悪妻扱いされて捨てられるならやっぱり社交界で何言われたところで……となってしまっただけだ。
両親に助けを求めようにも家は遠く、仮に助けを求めたとしてもアルトは初夜が終わる前までは非の打ちどころのないような素敵な素敵な好青年だった。
そう簡単にシルヴィアの言い分が通るとも思わなかった。
味方になって欲しい人物から疑いの目を向けられたりすることを想像すると、とても恐ろしかった。
それもあって余計にシルヴィアはもうどうでもなっちゃえ、と自棄になっていた部分があるのは確かだ。
けれども、シルヴィア一人が自棄になったとして、ここまで話は広まらなかっただろう。
自分の友人であるライラの顔がやたら広かった事、そしてセーラ様が味方についてくれたことがとても大きい。他のご令嬢たちも協力してくれたので、そういう意味では一人でせっせとシルヴィアを破滅させるためのフラグを積み重ねていたアルトに勝てたのは、数の暴力と言えるだろう。
――かくして、シルヴィアは無事にアルトと離縁することができた。勿論アルトの有責である。
セレネもアルトと共謀してシルヴィアを陥れようとしていたのであれば彼女にも慰謝料だとかを請求したかもしれないが、セレネもまた被害者であった。
なんだったら結婚詐欺として訴えても許される気がしている。
王国中に広まった噂なので、その後どうなったか、をはっきりさせないわけにもいかなかった。
そこをあやふやなままにした場合、なんだかとんでもない方向に話が捻じれたりしそうだったので。
むしろ積極的にこの一件が終わりを迎えた事を知らせないと、アルトと一緒にいたセレネもまた悪女の誹りを受ける可能性が高く、そうなると彼女の今後の人生に差し障ってくる。
噂として広まっていた男は言うまでもなく最低だし、その男と一緒になっている女もまた最低だという風に思われていたがその実女は騙されていたに等しい。
あいつらとは関わらないようにしよう、とそっと距離を取られていた事で仕事のフォローに入ったり入ってもらったりというのもほぼなくなったせいで大変な目に遭っていたのだ。そこら辺の話はきちんとしておかないと、いつまで経ってもセレネは孤立しっぱなしになってしまうし、そのうち物事を曲解されて王宮女官としても働けなくなってしまうかもしれないとなれば、彼女の人生にも関わる。
だからこそ、シルヴィアは協力者でもあったセーラ様にこういう感じで決着がつきました、セレネさんは思っていた程悪くなかったのでせめて彼女がこれ以上酷い目に遭うような事は避けたいです、と言えばセーラ様は「わかったわ」としかと頷いてくれた。
恐らくどうにかなるだろう、とシルヴィアが安心した二日後くらいには本当にどうにかなっていた。
セレネもセレネで、職場の同僚に休憩時間とかにいっそ赤裸々に語ってしまえとばかりに突撃した。
「聞いて! もうひっどいの!」
と、憤慨した様子で食堂にやって来たセレネの事を最初は遠巻きにしていた者たちも、彼女の話を聞いて少しだけ彼女に同情したのだ。
何故ってアルトとの付き合いがそこそこ長かったのを知っている者はそれなりにいたし、つまりそれってその年数分騙されてたようなものと言ってしまえばそうなので。
後にセレネは語った。
「もう男など知らん。これからは仕事に生きる」
――と。
市井で行われていた演劇も、しっかりばっちりエンディングまで広まった。
男のした事は、実際そこまで酷かったか? と問われれば酷くはあれど、別に世界が滅ぶわけでもなく、国が滅ぶような、大勢の人が死ぬようなものではなかった。ただ、もし男の望むとおりの展開になっていたのなら、一人の女性が社会的にも実際としても死んでいたかもしれないだけで。
だが、もしその利用されて惨めに食いつぶされる女が、自分であったなら。
そう考えれば、見過ごすわけにもいかなかった。
その自分とやらが男の場合は、家族や友人がそうなったら、と置き換えて考えてみればいい。
自分の都合で他人の人生を平気で踏みつぶそうとした男の話は、大まかな部分は同じでもいくつかのアレンジが加えられた話が大量に出来上がり平民たちにとっての娯楽の一つとなった。どんな展開になっても最後は男が悪を暴かれ失敗し、転落するのがお約束である。話の展開によっては男が女のパターンもあるが、基本は最後に悪は滅びるのであった。
噂になってた酷い奴がアルトである、と公然の秘密状態だった職場のみならず他の場所でも広まった結果、言うまでもないがアルトは国にいられなくなった。
いたとしても、もうどうしようもない状況だ。
伯爵としての仕事をしようにも、職場の人間は彼と関わりたくないし、家に引きこもるにしても、親のすねをかじれるはずもない。
引退したはずのアルトの父が城であれこれ面倒な手続きをして再び伯爵に返り咲いた後、セルドウェン伯爵家は特に周囲の家から関わりを絶たれる事もなく、どうにか続いていく事となった。とはいえ後継者に関してはどうしようもないので、アルトの父がセルドウェン家最後の当主となり、彼の死後は爵位は返されるのだとか。
父親もまさか実の息子がこんなことになるとは思っていなかっただけに、楽しい引退ライフから胃薬とお友達コースに進路変更されて周囲は若干同情の目を向けていた。
アルトの両親が現役だった頃、夫妻の為人は知られていたので、親も潜在的に屑なんだろう、と思われなかったのだけが救いである。
何もかも赤裸々に暴露したシルヴィアであるが。
離縁したところで社交界に戻れるか、となれば難しい。
もう色々曝け出しまくったのだ。それこそまだ幼かった頃と言っても差し支えないアルトと出会った頃の少女時代の、淡い恋心から始まって終わるまでの何もかもを。
贈ったプレゼント、もらった贈り物。
やりとりをした手紙の内容。
シルヴィアの人生の中で、アルトと関わった部分だけならもう国中皆が知っていると言ってもいい。
それくらい、ぜーんぶ洗いざらい吐き出したのだ。
その部分の話題だけなら、シルヴィアの事を知らない人でもシルヴィアと会話ができるレベルで。
自分の幼い頃を知ってる親戚の昔はこーんなにちっちゃかったのになぁ、とかそういう話題の比ではない。
どう足掻いても、社交の場に戻るのはシルヴィアとしても色々と厳しかった。
どうせもう戻る事もないだろうしなぁ、とか自棄になっていたからやらかしたので、事態が解決して自分も無事のままだとか、そこまで想像していなかったのだ。
シルヴィアの両親は実家に戻ってくるならいつまでもいていいからね、ととても優しく言ってくれたけど、シルヴィアは断った。
そんな話題になりすぎた娘が家に引きこもったままとか、今度は別の意味で話題になってしまうではないか。流石に親に迷惑をかけたいわけではない。
だからこそシルヴィアは告げたのだ。
「私、メイドになる!」
――と。
正直な話、うまく転がろうと最悪な事態になろうとも、どっちにしてもシルヴィアの社会的生命は割と終わっている。話題の人、みたいに広まりすぎて何をするにもネタにされるだろうな、とは思っていた。
いっそ国を出て、誰も自分の事を知らないような遠い国まで行ってやろうかと考えた事もないのだが、自分一人で生活していくにしても、あまりにも無謀。
どうしたものかと悩んでいた時に手を差し伸べてくれたのが、セーラ様である。
セーラ様はシルヴィアの事をベスと呼ぶけれど、メイドとしての教育を受けさせてくれるらしいし、なんだったら住み込みで屋敷にいてもいいと言われたし、アルトと結婚した後の、あの屋敷での生活に比べればとてもマシに思えた。何より、子どものお小遣い程度の金額しか手にできないという事もない。
あと、シルヴィアがいくら話題の人だろうともセーラ様がシルヴィアの事をベスと呼ぶならセーラ様の屋敷の人間もシルヴィアをベスと呼び始める気がしているし、私はセーラ様の犬ですと堂々と公言すれば案外何もかもごり押しできるんじゃないかなとも思い始めていた。多分セーラ様もシルヴィアの事は人間に生まれ変わったわんこのベスという扱いだろうし。
どうしようもないくらいに広まった噂を更にどうにかするには、より強烈な話題をひっさげるしかない。
もしくは別の所で新たな火種になりそうな話題が出るのを待つか。
なんにせよ、セーラ様の屋敷で働くというのは、シルヴィアにとっては大きな救いだったのだ。ロクに外とか出歩けなくなるだろうなと思っていたけれど、屋敷の中での仕事を優先して覚えるようにと言ってくれたし。シルヴィアの事がいくら話題になったとて、シルヴィアが滅多に外に出なくなればそのうちシルヴィアの顔とかほとんどの人は覚えちゃいないし忘れられていくだろう。
髪型とメイクでがらりと印象を変えてしまえば、普通に外を歩けるようになるとも思う。
だからこそシルヴィアは実家に引きこもるという選択肢を選ばなかった。
シルヴィアは、お金持ちのお嬢様の家のメイド兼飼い犬となったのである。
お友達のライラからは、「あっ、う、うん……」みたいな反応をされたのが解せない。
転生しないでお金持ちのお嬢様の犬になるエンド。