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アンリ・ダレノはアンディ王子の偽名である。
彼はお忍びで街に出ては夜会クラブの賭博場に足を運んでいた。賭博が好きだった。
しかし、運の女神は彼が栄光ある王子であったとしても振り向いてはくれない。負けを繰り返し、ついには自身の私財を全て使い果たしてしまったのだ。
それでも賭博は止められない。彼は、街の高利貸しにまで金を借りて勝負を続けた。いつか大勝ちして返せばよいのだ。担保は国で保管してある宝庫の物品を。いくつかくすねてもすぐに露見しないだろう。そうして伝統ある王家の財産に手を出しながら、国の私財をくすねながら、賭博を続けていた。
勿論母である王妃には内緒でやっていた。
高利貸しにも王家と関係はあるが当事者ではない事は十分に伝えていたし、何より押し掛けるなんてこと考えもしなかった。
だからこそ、アンディは混乱した。
何故? どうして自分だと分かった!?
それよりも、大変だ。
「お母様に叱られてしまう……!」
顔を真っ青にすると席から立ち上がり、足を縺れさせながらガゼボを飛び出した。
「……………………え?」
取り残されたのは、ヴィクトリア一人だけだった。
「おかえりなさい」
「…………ただいま」
呆気なく帰宅させられた馬車から降りれば、一度目と同じようにカミルが馬車の前でヴィクトリアを待っていた。扉を開けて優雅にエスコートをする姿は、今も昔も変わらない。
唯一異なることと言えば、あの時は夕暮れも過ぎて夜になりかけていた時刻が、今はまだ日中の陽も明るい時間帯ということだ。
カミルは何も語らず、ヴィクトリアの歩調に合わせて歩き出した。
「…………お前が手を回したのね」
少しだけ恨めしそうに横目でカミルを見る。澄ました顔は憎らしいほど整っていた。
「賭博で多額の借金をしていることを公にすれば、お茶会が破綻すると思ったのでしょう。正解よ。王子はさっさと出ていったわ」
「そうですか。それは良かった」
「…………お前がアンリ・ダレノを知っているとは思わなかったわ」
歩調を合わせていたカミルの足が止まり、ヴィクトリアを見つめた。
「姉上もご存じでしたか」
「そりゃあ元夫だから。不明な支出を私のせいにされていたのよ。身に覚えのない事を言われて調べたら、アンリの名前に行き着いたの」
「そうでしたか……私は反逆して城を制圧した後に文献を漁って知りました。アンリ・ダレノの名で高額の借金をしている証書が見つかりました。筆跡はアンディ王子でした」
「愚直ねぇ」
「そうですね」
呆れて何も言えなかった。
恐らく騒動は王妃によってもみ消されることだろう。暫くはお咎めにより王子も外出が禁止となるかもしれない。大体の騒動は、そうやって消されてきたのだ。
屋敷の玄関まで到着すると、使用人の代わりにカミルが扉を開けてヴィクトリアに入室を促す。
傍で待機していた使用人に外套を渡すと、「カミル」と呼んだ。
「お茶の飲みなおしをしたいわ。この後テラスにいらっしゃい」
「…………!」
普段、素直に表情を見せないカミルの顔が少し驚いたように瞳を大きくする。
「……かしこまりました」
そうして嬉しそうに微笑む。
「…………じゃあね」
暫くカミルを見つめていたヴィクトリアは視線を前に向けて歩き出した。
カミルは決して表情が乏しいわけではない。ヴィクトリアと同様に社交的なわけではないが、それでも人前で笑みを浮かべることは出来る分、ヴィクトリアよりも十分社交的である。
けれどその表情はいつも作り笑いだった。
だからこそ、今のように素直な感情で喜ぶ彼を見ていると、落ち着かない。
「……いやだわ」
ヴィクトリアは血が顔に集中するのを感じ顔を手で押さえた。顔を隠しても、耳まで赤らんでいることに気付く者は誰一人としていなかった。
一方、カミルは心なしか浮足立つ歩調で自室へと戻っていた。
義姉とのお茶会だ。当然のように心が弾んでいる。何を着ていこうか。冷えるかもしれないからひざ掛けを用意させるべきか。
対して変わらないというのに、いそいそと衣類を着替え終えてテラスに向かおうとしたところで、足を止めた。
そして、激しく咳き込んだ。
「…………っ……は…………!」
息が吸い込めないほどの苦しみ。胸の痛み。頭痛がする。
あまりの痛みによろめき足を崩して床に倒れこんだ。震える手で胸元を押さえる。
駄目だ、落ち着け。
大丈夫だ。
その時間は数秒かそれとも数分だったのか。次第に痛みが引いてくるのをカミルは感じた。
「…………はあ……」
上半身を起こし、汗で濡れた額を拭う。べたついた髪を洗いたいが、時間を考えると難しいだろう。
深呼吸をして立ち上がり、部屋にあった手拭いで顔を拭う。
鏡に向かい顔を覗き込ませ、乱れた髪と服を整えれば、先刻まで倒れていたとは思えない平常さを取り戻す。
「姉上のいる時じゃなくて良かった」
懐から懐中時計を取り出す。
この時代、精巧な時は正確な時間を測るのも難しく、決して手に入るような代物ではない。現在の時計といえば、時計塔の時計で時刻を調べる程度のものだけであった。
それでもカミルは時計を持っていた。
蓋を開けると細い針が時を刻んでいた。壊れているような形跡もなく、静かに秒針を動かしていた。
「…………」
かちりと、長針が動く。
その時刻は確実に今の時刻と異なっていた。短針は10をさし、長針は12を過ぎていた。カミルが以前見た時、長針は12ぴったりだった。
明らかに時は過ぎている。
「これではどれだけもつか、分からないな……」
深く眉に皴を寄せ、苦々しい顔で時計を握りしめた。
世界に二つとない精巧な懐中時計を丁寧に、大切に胸ポケットへしまい込む。
ひと呼吸置いてから部屋を出る。廊下の窓から見えるテラスにはドレスを着替えたヴィクトリアがテラスに到着しているところだった。左右を見渡し、誰かを探している。
(私を探しているのか)
ヴィクトリアが自分を探してくれている。
それだけのことでカミルは頬が緩んだ。
離れた廊下からでも、ヴィクトリアの姿だけが鮮明に見える。周囲の景色が色褪せて、まるで美しい絵画が一枚だけそこに存在するように、目を惹いて止まない。
あれほど輝かしく彩られたヴィクトリアを、周囲が見放す筈がない。だというのに周囲は義姉の悪しき評判を信じて距離を置いている。
それがどれだけ、カミルを安心させたか……きっと誰にも分からない。
「姉上」
窓越しに手を差し伸べる。窓ガラスに隔たれたヴィクトリアの姿は、平和そのもの。
幼い頃、共に草原で過ごした日々のように穏やかで優しい世界を、いつだって義姉に捧げたかった。
「今度は決して……違えません」
声は霞むような小さな声だったが、確固たる意志を込めて紡がれた。