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何が起きているのか、よく分からなかった。
(どういうこと?)
ヴィクトリアは確かに処刑された。絞首台に立たされ、無理矢理に刑を執行され、そして死んだはずだ。
なのに、どうして今自分はベッドの上にいるのだろう?
(絞首刑から逃れられたの? ……いいえ、そんなはずはない)
確かに殺された。その感覚は不思議と覚えている。
首の絞まる息苦しさ、必死で悶えたくなるような苦しみ。息が出来ず、頭が真っ白になる感覚。そして、苦しみから解放される瞬間を。
ヴィクトリアは全て覚えていた。
「姉上」
思考に更けていたヴィクトリアの髪をカミルが愛おしそうに触れた。
「よくご無事で……何処か痛む箇所はありませんか?」
心配そうに見つめてくる薄藍色の瞳。
「カミル…………お前、帰っていたのね」
ヴィクトリアの知るカミルは、ヴィクトリアが結婚式を挙げた一年前から、見聞のためにと国を離れていたはずだ。だから直接カミルに会うのは一年以上振りだった。
ヴィクトリアの言葉にカミルは苦笑する。
「どうやら誤解していらっしゃるようですね。まあ……無理もないか」
独り言のように呟くと、カミルはヴィクトリアに一歩近づいた。
そうして優しくヴィクトリアの両手に触れたのだ。
「よく聞いてください、姉上。今はコーネリアス歴708年。姉上が殺される、二年前なのですよ」
「……………………は?」
コーネリウス歴は700年以上の時を刻んでいた。
ヴィクトリアの知るコーネリウス歴708年といえば、ヴィクトリアと第一王子との婚約が決まった時だったはずだ。
それはつまり……カミルが言うように二年も時を遡っているということになる。
「何の冗談?」
「冗談ではありません……鏡をご覧になってみてください」
まるで言われることを想定していたのだろうか、カミルがベッドのサイドテーブルから手鏡を取り出した。
日の光で一瞬眩しい鏡がヴィクトリアを映した。
「……うそ…………」
処刑直前、ヴィクトリアは薄汚れていた。髪も無残な扱いにより整えられず、肌も土気色に変わり果てていた。なのに今鏡に映るヴィクトリアは。
「以前の私だわ」
そう。アンディ王子と結婚する前に姿が戻っていたのだ。
「お分かり頂けましたか?」
「分かったも何も……どういうことなの?」
時を遡るなど、出来る筈がない。
(だとしたら、今までが夢だったの?)
夢にしては長すぎるだろうと首を横に振っていればカミルが小さく笑った。
普段表情が豊かなわけではないカミルの穏やかな笑みに思わずヴィクトリアは釘付けになった。
「……本当に、二年前に戻ったというの?」
「はい」
「どうして? そんなこと、不可能だわ」
過去に戻ることが出来るなど聞いたことがない。もし、実現できるとしたら誰でも歴史を変えられてしまうではないか。
「不可能ではありませんでしたよ。だからこうして、私も姉上もこの場にいるのでしょう?」
随分と楽しそうに語るカミルに眉を潜める。
「どうしてお前は驚かないの? 過去に戻っているのよ。信じられないし、驚くでしょう?」
カミルの様子を見ていたヴィクトリアはずっと違和感が拭えなかったのだ。明らかにカミルは過去に戻った事実に驚いていなかった。それどころか彼はヴィクトリアに対し「おかえりなさい」と言った。
「…………待ってちょうだい。つまり……」
一つの考えが浮かび、ヴィクトリアは思わず口元を押さえた。
つまり、カミルはヴィクトリアが過去から未来に戻ってくることを知っていたのではないか?
(あり得ないわ……けれど、もしそうだったら……?)
それ以外の答えが導き出せず、ヴィクトリアは顔を青褪めさせてカミルを見つめた。
そして理解した。
「やはり…………お前がやったのね……」
カミルは、穏やかに笑っていた。
カミルは、ヴィクトリアに淡々と語りだした。
抑揚もなく、一切の感情を見せない声色は、まるで教師のように丁寧に、そして穏やかにヴィクトリアへ説明していた。
「姉上が亡くなられたことを知った私と父は急いで王城に向かいました。ですが姉上の遺体は伝染病だからと既に処分され、真意も掴めぬままに帰されました。虚言であることは誰が聞いても分かることでした。私と父は王城の使用人をくまなく問い詰め、漸く真実を知りました……アンディ王子によって、姉上が絞首刑を受け、殺されていたことを」
「…………」
「それからは早かったです。反第一王子派を集結し、反乱を起こしました。元より第一王子は王妃の操り人形でしたから、王妃を捕らえれば呆気ないほど制圧出来ました。神官として神殿にいた第二王子を呼び戻し、彼に王位を与え、コーニリアス王国は大きな改革を迎えた」
一息呼吸して、それから続ける。
「……けれど、姉上がいない世界は、何の喜びもありませんでしたよ」
自嘲するようにカミルが小さく笑った。
「元々姉上は横暴な令嬢で通っておりましたからね。反逆罪で捕らえられた頃より非道な令嬢として囁かれていました」
「横暴は余計よ」
「事実ですので」
「…………」
何も言い返せない。
ヴィクトリアの評判は、実はあまり良くない。貴族の令嬢らしく淑やかに、そして優雅に見せないといけないのだが……
正直、苦手だった。
笑えと言われても楽しくないのに笑えない。顔が引き攣る。
言葉巧みに会話を弾ませろと言われるが、出来ない。何を話せば楽しいのだろうか。
努力したこともあった。
お茶会の場で話題を弾ませようと、父の狩りに付き合った時に牡鹿を捕まえてその場で捌いてもらった話をしたらドン引きされて以来、ヴィクトリアは社交の場に出ていない。
その内、貴族の間でヴィクトリアはおかしな噂話が広まっていったのだ。
『血のように赤い目をした狂気の令嬢』、『横暴な令嬢』、『狂人令嬢』。
まったくもって失礼な話だ。
それでも、見目は母譲りで美しいお陰で「顔は良いけれど」と付いていたので我慢も出来たものだった。
だが、それで良いとも思った。
(あんな噂があれば……王子の婚約者になることもないと思っていたのだけれど)
小さく溜息を零していれば、ベッドが僅かに傾いた。
顔をあげれば、カミルがベッドに腰掛け、ヴィクトリアの髪のひと房に触れていた。
「なので、せめて姉上の名誉だけでも回復できないかと父は奔走していらっしゃいましたよ」
「お父様が…………」
ヴィクトリアの胸が痛んだ。
(お父様……きっと後悔なさったことでしょう)
第一王子アンディとの婚約を決めたのは父だ。ヴィクトリアは伯爵家の令嬢として父の命に従った。このような結果になるなど、誰が分かっただろうか。
アンディの醜悪な生活を理解したのは、ヴィクトリアが婚約し王城で暮らすようになってからだった。
賭博、女、態度は悪く、すぐに癇癪を起こすような男だった。
ヴィクトリアは初めて夫となる男のそのような姿を見た時に唖然とした。これが、夫? 夢なら覚めて欲しいと。
しかし、一切公になることなく王城の外では品行方正な王子として名が知られていたのは、ひとえに彼の母親である王妃の尽力があったからなのだろう。
全ての醜聞をもみ消しし、美談となるような逸話を民に流していた。
更に言えば、アンディの悪評は、全て『狂人の第一王子妃』と異名をつけられたヴィクトリアのせいにされていた。
(恐らくその方が都合が良かったんでしょうね)
本来のヴィクトリアの性格を知っている者ならば、噂がただの噂に過ぎないことを知っているだろう。けれど知らない者は皆、噂を信じた。悪いのは全て第一王子妃であるヴィクトリアなのだ、と。
「死んでからもお父様に苦労をかけてしまったわ」
「いいのですよ。自業自得ですから」
「……随分冷たいのね」
ヴィクトリアの知っているカミルは、父を信頼していたように見えていたが、今の彼からは微塵もその感情が見えなかった。
「先ほども言いましたが、姉上のいらっしゃらない世界は何の喜びもありませんでした。味覚は消え、視界はモノクロに映り、楽隊を見ても楽しくない。人と会っても会話をする気もしない。生きている意味が分からない。生きる理由がない」
「カミル」
ヴィクトリアが諫めるが、カミルは静かに首を横に振る。
「全て事実です」
薄藍色の瞳がヴィクトリアを見つめた。
吸い込まれるような色の奥に、深い慟哭を帯びた闇が見えた気がした。
「姉上。覚えていらっしゃいますか」
「…………何を?」
カミルの腕が伸びてヴィクトリアの肩に触れる。
「誤魔化しても無駄です」
そうしてゆっくりと己の胸の内にヴィクトリアを抱き締めた。
温かな温もりがヴィクトリアを包み込んだ。心臓が早鐘を打っている。あれほど落ち着いて見えるカミルが、こんなにも鼓動を高鳴らせていることに驚いた。
抱き締められるヴィクトリアの耳元にカミルの顔が近づいて、囁いた。
「愛しています」
「……………………」
「幼い頃、お伝えした私の気持ちを……姉上が忘れる筈がない」
細長いカミルの指がヴィクトリアの髪を掬う。心地良ささえ感じてしまい、ヴィクトリアは強く瞳を閉じた。
「どうして時を巻き戻したか……お分かりになるでしょう。姉上を愛しているからですよ」
「…………お前は見る目がないわ」
それしか答えられなかった。
抵抗することもなく、カミルの腕の中で抱き締められた。けれど一度たりとも、ヴィクトリアが抱き締め返すことはなかった。