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カミル・コーニリウスの父シエルは、現国王の年離れた弟だった。聡明であった弟は兄である国王のサポートに徹し、自身の王位に対する野心はなく、純粋に兄を慕う弟として勤めていた。
だが、彼に大きな転機が訪れた。シエルに仕える侍女にして、カミルの母となる女性、ステラとの出会いだ。
互いに想い、愛しあうのに時間は掛からなかった。シエルはステラとの結婚を兄に報告したが反対された。それどころかステラを解雇され、彼女は城にいることができなくなった。
『彼女がいないのなら、自分の居る場所もないのです』
何一つ未練なく、ただほんの少しの寂しさを滲ませた言葉を兄である国王に投げかけ、王弟シエルは王城から姿を消した。
侍女であったステラと駆け落ちしたのだ。
弟の真剣さを知った時には既に遅く、シエルを見つけ出せることはなかった。
ただ、唯一シエルの親友であったフェルチェ伯爵だけが居所を知っていた。勿論場所を教えるようなことはせず、時折手紙のやり取りをするだけに留まっていた。
それから数年の間、シエルによって支えられていた国王の評判は地に落ちた。弟に頼りきっていた国王の支えは消え、国王としての治世は一時期荒れていた。
その中で地位を上げた者がいた。
王妃だった。
王妃の親族を家臣に招き入れ、シエルの抜けた穴をどうにか塞いだのだ。そのお陰もあり、国政はどうにか崩れることはなかった。だがその事実は、どれほど国王が頼りないかを物語るものでもあった。
ようやく落ち着いた中で、次第に心が衰弱し出した国王は、己の弟を求めた。
どうか戻ってきてほしい、と。顔を見たいのだと切々と語ったのだ。
その言葉に胸を痛めたことは、全ての過ちだったのかもしれない。
シエルとステラは辺境の村に居を構え穏やかに暮らしていた。時折送られてくるフェルチェからの手紙を読むことで自身の兄やコーニリアスの情勢を聞いていた。
たとえ国を飛び出したといえ、シエルは王族としての責務を常に感じていた。治世が脅かされる度に心を痛めていた。
兄が自分に会いたいと望むのであれば……せめて一度だけでも顔を合わせようと、会いに行こうと考えた。
妻であるステラにも了解を得た。せめて、ステラやカミルの身に危険が及ばないよう、親友であるフェルチェ伯爵の屋敷に預けることを約束していたのだ。
冬の、寒い時期だった。
滅多に出掛けることなどない旅にカミルは喜んでいた。
カミルへ、向かう先に友達になれる女の子がいるからと言えば、もっと喜んだ。
日頃姿を隠すように暮らしていたため、カミルに同世代の友人がいないことも、シエルは息子に申し訳ないと思っていたのだ。
もし、兄に会って当時のわだかまりが消え、自身の愛する家族を認めてもらえるのならばまた……
そんな淡い期待は、呆気なく崩れ去った。
森を抜ける道中に、襲撃に遭ったのだ。明確な殺意を持ってシエルの乗った馬車を襲った。
御者は息絶え、シエルが代わりに馬車を走らせる。途絶えることなく打ち付けられる矢から息子を守るために庇っていたステラは、カミルを抱きしめたまま生き絶えていた。
愛する妻の死を見たシエルは絶望した。
戻ってくるべきではなかった。
誰が自分達を襲うのかなど分からない。シエルが居た頃と、コーニリアス王国は変わってしまったのだ。
心の中で何度となく愛する妻に、息子に詫びながら、それでも馬車を走らせた。
追手は途絶えることなく追いかけてくる。薄暗闇の中でも、馬の嘶きが聞こえてくる。
覚悟を決めた。
御者の席から離れるとシエルは眠るカミルを抱き起こした。眠るように目を閉じているカミルは、馬車の衝撃に頭を打って意識を失っていた。きっと、何が起きたかすら分からないまま目覚めることだろう。
「愛してるよ」
額に口付けを落とし、揺れる馬車から隙をついてカミルを投げた。
降雪の多い箇所に、刺客に見えない暗闇に目掛けて。
どうか生きてくれ。
それが、シエル・コーニリアスの最後の願いであった。
シエルの死を知ったフェルチェ伯爵は深く後悔した。呼び戻すべきではなかった、知らせるべきではなかったのだ。
昨今、コーニリアス国では王妃の勢力が制圧している状態に憂いていた。王妃は暴君ではないが、あまりにも保身的で狡猾だった。
心を弱める夫である国王の元で優しい言葉を投げかけながら自身にとっての反乱分子を駆除いていたのだ。
分かった頃には遅かった。
第二王位継承権を保持していたシエルを排除したかったのは、他でもない王妃だったのだ。
王妃の嫡子アンディは、幼いながら期待外れであった。癇癪持ちで権威をひけらかし好き放題に振る舞う様に家臣は憂いていた。王が諌めることもなく、忠告する家臣はクビになった。
王妃とて分かっているというのに、それでもアンディを追い詰めるようなことをしない。
それこそ、母の愛をもって障害を除去したのだ。
幸いなことに救い出せたカミルの事を思うと心が痛んだ。アンディの次に王位継承を持つカミルが生きていることを王妃が知れば、必ず手を下してくるだろう。
そうはさせない。
それが、親友であったシエルにできるただ一つの罪滅ぼしだった。
立場上素性を明かせない子供を引き取ったフェルチェ伯爵は、カミルを不義の子として周囲に伝えた。使用人の子として預けていると偽った。
表舞台に立たせるようなことをせず、なるべく周囲から隠すように過ごさせた。
それでも王妃は聡明で、時折どのような子なのだと、挨拶を交わすような手紙の中でフェルチェ伯爵を追い詰めた。
王妃は警戒しているのだ。
いずれ、フェルチェ家がカミルを中心にして謀反を起こすのではないかと。
あらゆる可能性を想定して周囲を排除してくる王妃に対抗する術を、フェルチェ伯爵はヴィクトリアに託したのだった。
ヴィクトリアが十歳を過ぎた頃。
滅多に呼び出されることのない執務室に呼ばれたヴィクトリアは、真剣な眼差しで尋ねてくる父から目が離せなかった。
「ヴィクトリア。カミルの事が大事か?」
「もちろんよ。私は弟のように思ってるもの」
弟の割に自身より頭も良いし器量も良いところがムカつくが、それでもカミルはヴィクトリアにとって大切な家族だった。
「そうか……なあ。ヴィクトリア」
躊躇った後、ヴィクトリアの父は口を開いた。
そして告げた。
「カミルのために、お前はアンディ王子と結婚できるか?」と。
ヴィクトリアは十歳を過ぎたばかりの子供だったが、伯爵家の令嬢でもあり、カミルを家族と思う姉でもあった。
父の説明を受け、カミルが王家の人間であったこと、命を狙われていること、そしてヴィクトリアがアンディと婚約することでフェルチェ家に謀反の意思がないことを表明できるのだということを、ちゃんと理解した。
「できます。私、王子と結婚します。フェルチェ伯爵家の娘ですもの」
自信満々に答えたが、その足は震えていた。ふわりとしたドレスで足の震えが見えないことに安堵した。
伯爵家の娘として、家を守るのだと幼い頃から教わってきた。
力強く答える娘の顔を見て、フェルチェ伯爵は寂しそうに微笑んだ。
それから王子妃となるために妃教育を始めた。礼儀作法や学術まで学び続けた。
一度決めたら揺らがず、実直に物事を進めるヴィクトリアだったが。
十一歳の時。
「愛しています。どうしたら姉上と結婚できますか?」
ヴィクトリアは初めて、カミルの言葉に揺らいだのだ。