15
何が起きたのか分からなかった。
突然の耳をつんざくような音、そして衝撃。
恐怖から目を閉じたヴィクトリアの周囲から悲鳴が聞こえ出し、目を開ければ映し出される世界が大きく変わっていた。
「セ……セイラン様!」
天井に飾られていたシャンデリアが落下し、セイランを押し潰していたのだ。幸いなことといえば、正面の扉の日差しが眩しいことから照明の蝋燭に火が灯されていなかったことだろう。
散らばる破片と倒れるセイランの辺りに、点々と赤い飛沫が見えた。
血だ。
ヴィクトリアは震えを押さえ、急いでセイランの元に駆け寄った。同様に駆けつけた衛兵らがシャンデリアを動かし、セイランの背からその重しをどかした。
「セイラン様っ!」
「…………う……」
声が漏れ、微かに表情を歪める姿にヴィクトリアは思わず神に感謝した。
「早く医師を!」
近くの侍女に叫べば、慌てた様子で廊下へ駆けだした。
下手に動かしても傷口を広げてしまう。ヴィクトリアは名を呼び意識を失わせないようにすることで必死だった。
到着した医師によって診察されるセイランに息はある。乱暴に動かせないため、その場で一時治療をする様子をヴィクトリアは息を殺して見ていた。
それから顔をあげて天井を見る。
シャンデリアが掛けられていた天井。あと一歩でもヴィクトリアが離れていれば。それか、セイランと共に歩いていたら同じように潰されていたのかもしれないと思うと全身から震えが走る。
想像する恐怖を払拭し、天井を眺める。
(留め具が緩んでいたの……?)
素人目だから分からないが、そう簡単に外れるような仕組みでないことは分かる。
毎日外が暗くなる前に蝋燭を灯し、天井に掛けるシャンデリアの点検は必ず行われている。それが何の不調もなく突然落ちてくることに、どうしてか違和感があった。
ふと、視線を感じた。
それは凍てつく冬のような冷たい視線で、ヴィクトリアは自然とそちらに目を向ければ。
そこには王妃が立っていたのだった。
彼女は離れた場所で恐ろしそうに手を口元に押さえていたが、ヴィクトリアには遠目からでも分かった。
王妃は、笑っていた。
ヴィクトリアを乗せた馬車が屋敷に戻ってくる姿を窓から覗いていたカミルは、少し訝しんでその様子を見ていた。
使用人から聞いていた予定より随分と遅い帰宅だったのだ。
馬車が到着した様子を見て、カミルはヴィクトリアに会いに屋敷の入口に向かった。
「姉上」
カミルが辿り着く頃、タイミングよくヴィクトリアは扉から入り、使用人にコートを預けているところだった。
「…………何があったのですか」
カミルはすぐ異変に気付いた。
ヴィクトリアの表情が暗く、その顔色は青かった。
慌てて駆けつければ、両手でヴィクトリアの頬に触れる。近づき体調を確認しようとしたカミルの腕を、強い力で掴まれた。
「…………カミル、来て」
「え……?」
尋ねるよりも早くヴィクトリアがカミルの腕を掴むと、大股で屋敷の中を歩き出した。カミルは抵抗することなくその後を付いていく。
明らかに様子のおかしいヴィクトリアに驚きつつ、黙って廊下を進んでいけばヴィクトリアの私室の前まで辿り着いた。
ヴィクトリアは考えるまでもなく扉を開け、カミルと共に入室した。
扉が閉まる。
「…………何があったのですか」
カミルの腕を掴むヴィクトリアの手に触れながら尋ねても答えは無かった。
「王城に向かわれたのですよね。何を」
「カミル」
会話を遮る勢いでヴィクトリアがカミルの名を呼んだ。
顔をあげて見つめてくる瞳は、真剣だった。
「私のことは諦めてちょうだい」
「…………え?」
「私が出したあの条件を、貴方が果たそうとしているのは知ってるわ。でもお願い……もう止めて」
「姉上」
「これ以上、何もしないで」
ヴィクトリアを掴んでいたカミルの手の甲に、空いたヴィクトリアの手が重ねられる。
ヴィクトリアは本気だった。本気でカミルに訴えていた。
「…………止めません」
「カミルッ」
「何があったのか分かりませんが、私は止めるつもりはありません。必ず約束を果たします」
「やめなさい」
「やめません」
どちらも引かない声に空気が張り詰める。
「姉上。仰って下さい。何があったのですか? 何が、貴女をそこまで頑なにさせるのですか」
「お願いよカミル。私は大丈夫、今度は絶対に間違えない。絶対に死なないでみせるから」
カミルが掴んでいた腕が離れようとするが、それをカミルは許さず強く握りしめた。
「……絶対に止めません」
「……! だったら、約束なんてしないっ!」
ヴィクトリアの叫び声が部屋に響く。
その声は苦しく、張り裂けんばかりの悲痛な声で、カミルは表情を歪めた。
ヴィクトリアが泣いている。それだけで、胸が痛い。
「あの時の約束を、やめ」
言葉の続きが紡がれるよりも前に。
ヴィクトリアの唇はカミルによって塞がれた。
強く抱き締められながらカミルの唇がヴィクトリアを覆い、息すら奪いかねない勢いで口づける。
抱き締められる腕に力がこもる。
「…………やめません」
微かに離れた唇から漏れる声。
「私は必ず、王になってみせます」
そうしてまた、塞がれる。
ヴィクトリアの額に涙が伝う様子をカミルは眺めると、その涙を自身の指で掬った。
ヴィクトリアとカミルが子供の頃に交わした約束。
カミルは十歳の頃に交わした約束を、一度たりとも忘れたことはなかった。
草原の庭で、愛を告げた少年にヴィクトリアが出した条件は一つ。
『王様になったら、考えてあげてもいいわよ』
それは、王位継承の権利を持つカミルに対して投げた、絶対に果たせない条件だった。