11
カミルの覚えている記憶は、雪景色と燃える馬車だった。
まだ五つのカミルは、自分に何が起きたのか全く分からなかった。
ただ呆然と燃え続けている馬車を眺めていた。
「カミル。みんなで出掛けよう」
日頃多忙な父が、そんな事を言ってカミルとカミルの母を連れて出掛けることになったことは覚えている。
とても嬉しかったのだ。
父は家に帰ることがほとんど無かったから、そんな風に家族で旅行すること自体初めてだったから。
カミルは大喜びで荷物をバッグに詰めた。おもちゃ、ペン、紙、お気に入りのお菓子を淹れようとして母に止められた。
「出掛けた先で美味しい物を食べましょう」
穏やかに母は笑って喜ぶカミルを抱き締めた。
幸せな時間だった。
普段乗らないような豪勢な馬車は、少年の心をより弾ませた。町でみかけるような茶色い足の太い馬ではない、毛並みも綺麗な白馬。そして装飾が綺麗な馬車は、まるで絵本に出てくる王様の馬車だ。
乗車席の扉を開けて中に入り、ふかふかの椅子に座った。この馬車にのって出掛けるのだ。カミルは胸が弾んだ。
母を隣に座らせ、ずっと窓を眺めていた。季節は冬。カミルの住んでいた地域にはまだ雪が無かったが、移動するにつれ山間に入ればちらほらと粉雪が舞い降りてきた。
母が寒いでしょうとひざ掛けをカミルに乗せてくれた。見上げればカミルと同じ薄藍色の瞳がカミルを見つめていた。
カミルは母に近づきひざ掛けを一緒に使った。これで暖かいです、と言うと母は嬉しそうに笑った。
父は時折御者に話しかけている。いつもと雰囲気が違う父の様子に話しかけるのは遠慮した。邪魔したくなかった。
長い間の馬車によってカミルは次第に睡魔に襲われる。こくりこくりと首を揺らすカミルに、母が優しく自身の膝にカミルを寝かせた。
甘く優しい時間だった。
目覚めたら、何もかもが変わっていた。
カミルは馬車から放り出されていた。急な衝撃に驚けば自身が雪まみれになっていたのだ。
雪の上に落とされたお陰で身体に痛みはなかったが、何が起きたのか全く分からなかった。
起き上がってすぐに見えたのは遠ざかる馬車が、次第に遠ざかっていく姿だった。
まって、おいていかないで!
取り残された恐怖からカミルは立ち上がり、寒さでふらつく身体を抱き締めながら馬車に向かって走り出した。身体を包むように母のひざ掛けがカミルの手元にあった。母の香りがする。
かあさま、と叫んだ時。
遠くで馬車が燃えだした。
大きな火だった。
白馬の嘶きが聞こえた。
何が起きたのか分からず、その大きな炎の恐怖にカミルは立ち止まった。
びゅうびゅうと冷たい風が吹く。馬の鳴き声と何かが燃える音だけが聞こえてくる。
カミルは少しずつ馬車に近づいた。
そうして見えた光景を、地獄絵図と言わず何と言うのだろうか。
馬車は轟々と燃えていた。その中に父と母がいるのかまで、カミルは分からなかった。
ただ、叫んだ。母を、父を。
しかし返事はなかった。
馬車に近づきたくても炎の強さで近づくことも出来ない。
流れ落ちる涙が炎の熱で蒸発する。
「母様、父様…………!」
眠る前まで二人は一緒だった。笑って、一緒に出掛けようと言って、馬車の中で歌を歌って。
「かあさま……」
喉が灼ける。悲しみで声が出なかった。
雪の上で膝をつき、うずくまるようにしてカミルは泣いた。
抱き締めてくれるはずの母はもういなかった。
次に目覚めた時、カミルは広いベッドに寝かされていた。
心配そうに覗き込んでいる少女がいた。
吊り目で、赤い瞳が印象的な少女だった。赤は炎の色みたいだけれど、その赤はとても綺麗に見えた。
「起きた。ねえ、大丈夫?」
少女が身を乗り出してカミルの頭を撫でる。心配してくれる小さな手。母とは違い、小さい。
母のことを思い出し眦から涙が落ちる。
「どこか痛いの?」
心配そうに聞いてくる少女にカミルは尋ねようとした。母は? 父はどこ?と。
けれど。
「…………っ…………」
声が出なかった。
驚いて少女の顔を見た時、ふと周囲の異変に気が付いた。
カミルの視界に、色が無いのだ。
窓の景色も、部屋の装飾も全てが白か黒のコントラストで写し出されていた。
「どうしたの?」
ただ一つ異なるのは、心配そうに見つめてくる少女の赤紅色の瞳だけが、今もなお鮮やかにカミルの視界に入っていた。
カミルが燃える馬車の前で意識を失っていたのを見つけたのはヴィクトリアの父、ノーマンだった。幸か不幸か、凍えるほどに冷える雪の中でカミルが無事であったのも、長く燃え続け、まるでカミルを守るように照らしていた炎があったからだった。
凍傷しかけていたカミルを救助し、屋敷に連れ帰った。その後高熱にうなされたカミルだったが、数日後に熱が下がり意識を取り戻した。
しかし、意識を戻したカミルに待ち受けていたのは両親の死と、声を発することが出来なくなった事実だった。
医師からは精神的なショックによるものだと聞かされたカミルは、抜け殻のように気力なく話を聞いていた。
言葉を失ったカミルにはもう一つ失ったものがあった。
それは”色”だ。
世界の全てが白や灰色、黒のモノクロに映っていた。色褪せた世界は雪景色のように真っ白な世界。
ただ、その中に一つだけ異例の存在がいた。
ヴィクトリアだった。
目覚めた先にいた少女。可愛らしい顔立ちに、アーモンドのような形をした吊り目。そして、その瞳は吸い込まれるほどに美しく輝く赤い瞳。そう、ヴィクトリアの瞳だけに”色”があった。
面白味のなくなった真っ白な世界の中で唯一輝きをみせる瞳が自身に映るたびに、カミルはどうしてだろうとヴィクトリアを見つめていた。
ヴィクトリアは気にする様子もなく、歳の近い子が家にいることでカミルに興味を抱いていた。暇さえあればカミルの元に訪れては勝手におしゃべりをする。外に出歩いても良いと分かれば近くの庭や草原に出掛けようと連れ出した。
抵抗する気力すらなく、連れ去られるがままに行った草原の花々を見てヴィクトリアが綺麗と喜ぶが、カミルには色褪せた花が広がっていた。
けれど、その場で喜ぶヴィクトリアの瞳が輝いている。
綺麗だと思った。
カミルにとっての、たった一つの色。
屈託なく名前を呼んでくれるただ一人の存在。
ヴィクトリア。
彼女の名前を呼びたいと、思うようになった。
ヴィクトリアと過ごしてひと月ほど経った。
体調も落ち着いてきたカミルは正式にヴィクトリアの父に引き取られることになったと教わった。
「お父様からカミルが暮らすって聞いたわ! 私のこと姉と思ってね。私、妹か弟がほしかったから嬉しいわ!」
その話を聞いたヴィクトリアが嬉々としてカミルに言うが、カミルは嫌だった。
姉と呼ぶことが……どうしてか嫌だなと思った。
とはいえ、未だ声を失ったカミルがヴィクトリアを姉と呼ぶことすら出来ないのだが。
声が出せないカミルをヴィクトリアもリーマスも気にせず接してくれていた。
筆談をすることにすれば、一緒に文字の勉強を始めた。そうして筆談で話すだけでヴィクトリアは喜んだ。
赤紅色の瞳がカミルを見る。それだけで胸が温かくなった。
そうして過ごして数か月が経った。
相変わらず喋れず色も取り戻せなかったカミルだったが、ヴィクトリアやリーマスと暮らす日々に慣れていった。無気力だった表情も最近は僅かだが笑うようにもなった。
そんな頃のこと。
カミルが両親の事を思い出して眠れない夜、まるで心の中を呼んだようにヴィクトリアが一緒に眠ってくれた。
その日も、ヴィクトリアが突然部屋にやってきて「一緒に寝るの」と言って寝台に入ってきた。
一緒に寝転がりながら見つめ合う。暗闇の中でも瞳は星のように煌めいていた。
「カミル。私のお母様も死んじゃったのよ」
ふと、そんなことを語りだした。
「お母様に会いたいけど、お父様がいつか会えるって言ってた」
見つめ合っていた赤紅色の瞳はほんの少しだけ潤んでいた。
「カミルのお父様とお母様にも会いたいね」
寂しさを埋めるようにヴィクトリアがカミルを抱き締めた。柔らかな温もりがカミルを包み込む。母に抱き締められた時のことを思い出す。
瞳が揺れて涙が落ちる。
「…………会いたい」
気づけば、声が漏れていた。
久しく出していなかった声は掠れ、喉もうまく動かない。けれど、確かに声が出た。
抱き合っていたヴィクトリアが驚いて顔をあげる。
「カミルがしゃべった!」
潤んでいた涙を引っ込めてヴィクトリアが笑った。
満面の、満開の花のような笑顔を見せてカミルを抱き締める。
心から喜ぶヴィクトリアの笑顔と、抱き締められる温もりがカミルを包み込めば、一瞬にして世界が色を取り戻す。
薄暗闇の夜空に浮かぶ月の色、寝台の敷布団の色。
ヴィクトリアの揺れる亜麻色の髪。
こんなに綺麗な色をしていたんだ、と間近で見て思う。
掠れた声をふり絞って声を震わせ、カミルは口を開いた。
「ヴィク、トリア……」
名を呼ばれたヴィクトリアは顔をあげ、笑った。
心臓が激しく高鳴り、頭の中で鐘の音が響いた気がした。
そんなカミルの様子など知りもしないヴィクトリアは、「お姉様って呼びなさい」と、残酷なことを言ってくる。
それが、カミルがヴィクトリアに恋をしたことを自覚した時のことだった。
次回更新は明日予定です!