10
カチャカチャと、茶器を用意する音が聞こえる。
シャツを着たカミルが紅茶の用意をしていた。湯を用意してもらい、自室に置いてあったヴィクトリアが好む紅茶を淹れている。
左の頬は赤らんだまま、二人分の茶を淹れるとカップを持ってヴィクトリアの側に戻ってきた。
「どうぞ。姉上のお好きな茶葉でブレンドしたものです」
「ありがとう」
礼を告げながらも、ヴィクトリアの視線はテーブルに置かれた懐中時計に釘付けである。
懐中時計。
今の王国に、二つとして存在しないであろう精密な作りをした時計。これほど小型の時計をヴィクトリアは見たことがない。
手にとってみれば重みがずしりと掌に掛かる。だが手に運べるサイズというだけで感動ものだ。耳を近づけてみれば秒針が規則正しく時を刻んでいる。遠目から見ても、精密な時計にしか見えない。刻まれた文字も異国のものではないため読める。だが、どうやって作られているのか全く分からない。
「これが懐中時計…………」
「姉上が逝去した後、国を制圧した後に発見しました。国立図書館の禁書庫をお調べになったのでしょう?」
ヴィクトリが頷けば、困ったような様子でカミルが笑った。
「行動が早すぎます。よく見つけられましたね」
「過去から目覚めてすぐ、お前から時計の秒針が聞こえたのよ。時計にだけ絞って目録を調べたら見つけたわ」
「なるほど。姉上は天才だ」
当然、とばかりに胸を張りたいところだが、今はそうしている場合ではない。
「これを使ったらどうなるか、書いてあったわよね」
「はい」
「命を失うとあったわ」
「そうですね」
「…………もう一度引っ叩いていいかしら」
「次は右の頬をお出しすればよろしいですか?」
「結構よ」
ヴィクトリアは溜息を吐くしかなかった。
「…………そう簡単に命をかけないで欲しかったわ」
紅茶は甘く飲みやすいというのに、ヴィクトリアの声は渋かった。
「簡単にかけたわけではありませんが……死ぬつもりなんてありませんよ。書物には書かれておりませんでしたが、時計を元の場所に戻しさえすれば命は奪われないそうです」
「…………そんな内容書いていなかったわ」
ヴィクトリアが読んだ文献には書かれていなかったことだ。
カミルは自身に淹れた紅茶を飲むと優雅に微笑む。
「時計を使う時、使用者にのみ見ることが出来る説明文がありました」
「カミル。今すぐ元あった場所に戻しなさい」
「それはできません。当時の私が使用したその時に正しく戻す必要があるとも書かれていましたから」
「…………」
ヴィクトリアは真っ直ぐカミルを見た。
カミルは紅茶を飲んでいたカップを口から話すと、小さく首を傾げながらにこりと微笑んだ。
ヴィクトリアには分からなかった。
カミルが真実を述べているのか。それとも偽りを伝えてきているのか。
「言っておくわ。カミルの命を引き換えに生きるつもりはありません」
時計を手に取る。しばらく見つめた後、時計をカミルの手に渡す。
「私がお前を守ると幼い頃に誓ったことを覚えている?」
「ええ…………」
「私は嘘をつかないし、誓ったことを破るつもりはないの。だから、もし私に誓いを違えさせるようなことをさせたら」
言葉が止まる。
懐中時計を渡してきたヴィクトリアの手をカミルは握った。
「…………違えさせたら?」
ぐっと言葉を詰まらせてからヴィクトリアは顔をあげて、笑った。
「この時計を使ってもっと昔の過去に戻ってお前と赤の他人になってやるわ。姉にもならないし、愛してるなんて言わせやしないわよ」
カミルの薄藍色の瞳が大きく開いた。驚いた様子で言葉を失っていたが、小さく笑う。
「姉上らしい」
「いいこと? カミル。死ぬんじゃありません。これは絶対よ。約束して」
「…………はい。約束します」
「誓う?」
「誓います」
ヴィクトリアの手を取り、その甲に唇をあてる。忠実なしもべのように恭しく頭を下げ、愛おしそうにもう一度口づけた。
「愛しています……姉上」
「生きなさいよ、カミル。じゃないとその愛をゴミ箱に捨てて一生忘れてやるから」
ヴィクトリアの発言にカミルが声を出して笑う。
「はは……それは嫌だなぁ」
そして、寂しそうに笑うから、ヴィクトリアは視線を外して窓を見た。夜も更けているため外の景色は一切見えない。
「…………本気よ」
それ以上言葉はなかった。
寂しそうに、困ったように笑って見つめるカミルの表情を、見ていられなかったからだ。
カミルの自室を出て、ヴィクトリアは自室へと戻る。
薄暗い部屋の中に入れば窓から差し込む月の灯りだけを頼りにベッドに向かい、その柔らかなベッドに倒れこんだ。
「はぁ…………」
顔が赤い。心臓が今になって破裂しそうなほど煩い。
押し倒された時のカミルの顔を思い出す。
首元に、耳元に触れた彼の唇の感触を思い出し。
「ー……!」
その場でベッドをこぶしで殴りだした。
(何なのよ、何なのよ何なのよ…………っ!)
叱咤し、罵る相手はヴィクトリア自身。ヴィクトリアは自分の頬を引っ叩いてやりたかった。
(私の意志よ、しっかり仕事をしなさい!)
何故、口づけを望むような姿勢をしてしまった?
どうして押し倒されて、ろくに抵抗をしなかった?
窒息しそうなほどにベッドのシーツに顔を埋めながらヴィクトリアは身悶えした。怒りと恥ずかしさと悔しさと感情がごちゃ混ぜになって、叫ばないのがやっとだった。
カミルの瞳は切なくもヴィクトリアを見つめていた。
普段従順な口調でヴィクトリアと会話する声は切羽詰まった様子で責めた。
「ああ…………」
落胆の声がベッドの埋もれた箇所から漏れる。
『私ではなく別の男にも……このような事をなさるのですか』
苦しそうに問うカミルの声を思い出して、ヴィクトリアは身体を仰向けにしてから顔を手で覆った。
暗闇の中でも分かるぐらい顔は赤かった。
「…………しないわ…………貴方にだけよ」
か細い声で囁いた。
言うつもりなんて無かった。誰にでも出来ると言い張ってやりたかった。
けれど出来なかった。
ヴィクトリアは嘘が苦手だ。彼女自身、嘘を言わないのだと自分に誓っている。
けれどこういう時は、言えるようになりたかった。
(期待させてしまうから)
まるでカミルの愛に、自分が応えられるのだと期待させてしまうから。
(そんな残酷なこと……したくない)
期待をさせておいて、出来ない時の絶望をもう二度とカミルにさせたくなかった。
傷ついた心を隠しきれないままに、それでも笑ってアンディとの婚約が決まったヴィクトリアに向けて『婚約おめでとうございます』と伝えてくれたカミルを思い出すたびに、ヴィクトリアは胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。
あんな顔、させたくなかった。
もっと手酷く断って、カミルが自分を諦めて別の女性に意識を向けさせるように努力すべきだった。
(そんなの無理よ)
惨めな気持ちになり、ヴィクトリアはもう一度ベッドでうつ伏せになった。
自分が望まないようなことを仕向けたくない。自分の心に嘘をつきたくない。
近くにあったクッションを引っ張り腕に閉じ込める。
何かを抱き締めて精神を落ち着かせることにした。ほんの少しだが落ち着けた気がした。
「もう一度チャンスがあるのなら……私だって……」
けれどそれは、カミルの命を代償になんてしたくない。
しかし同じ時を歩めば、カミルは何度だって時を戻しかねない決意を感じた。何よりカミルは今度こそ約束を叶えようとしているのだ。
だったらヴィクトリアの行動はただ一つ。
「私だって約束を守るわよ……カミル」
手元に抱えたクッションに、ヴィクトリアは小さく口づけた。
それが誰を考えてのものなのか……無機質で柔らかなクッションでは、何も分からなかった。
そろそろ更新が遅くなってきますが3月中目標で終わるように頑張ります!