北沢あかね 3
俺は茫然としていた。思わず口から「なんじゃ………………これ……」と出てしまっていた。
俺は頭がクラクラするのを何とか堪えた。
目の前では、北沢あかねが俺の感想を待ち遠しそうな顔をして、こちらを見つめている。
俺は額の間を揉んだ。
どうしたもんか……。
俺は頭を振った。いや、本当にどうすればいい?
どうすれば、北沢を傷付けずにこの事実を伝えることができるんだ!?
くそ。くそくそくそ。
明らかに某人気青春ミステリの後追い作品だった。
まぁそれはいい。人気のある作品に寄せて書くなど、いくらでもある。
だがあまりにも劣化がすぎる。
なんとなく、北沢が書きたい方向性はわかる。
だが北沢あかねは、なんというか、明らかに文章が下手なのだ。
てにをは、はしっかりしているのだが、どうもむだな文章が多い。
説明が難しいのだが、本筋とはまったく関係ない比喩がよく出てくる。
そして探偵役の主人公。
あまりにも幼稚……!
推理を披露するのだが、どれもこれも小学生が考えたレベルだ。
どうしよう。
北沢がすごい笑みを浮かべて、こちらを見ている。
その顔には「感想まだかなぁ……」という感情がありありと浮かんでいた。
ダメだ! ダメだダメだダメだ! おれは北沢を傷つけたくない。
だが、この作品の出来はあまりのもひどい。こんなひどいモン初めて読んだ。
小学生レベルの名探偵。それを『すごいすごい!』とか言っちゃう親友キャラ。推理シーンを主人公が披露すると、顔を赤らめてしまうヒロイン。
しかしまぁなんというか、小説の新人賞だったら容赦なく1次選考で落とされるレベルだ。
そんな残酷なことを、北沢に言ってしまっていいのだろうか?
彼女は傷つかないだろうか?
俺にとって、北沢は初恋の人だ。
だから傷付けたくない気持ちは強い。
だが、それは北沢のためにならない。
俺ははっきりと言うことにした。
「……ひどいな、この作品は」
「――なっ」
北沢が驚いて声を上げる。やばい、言い過ぎたか?
しかし、言わないと分からないことだってある。
ここは彼女のために、きっぱりと言ってやろう。
「推理パートも稚拙。かつ主人公自身もあまりキャラクターが立ってない。
正直、読ませない方がいいレベルだなこれは」
「……ひ、ひどっ」
「いや……悪い。言い過ぎたか?」
「………………そ、そうなんだぁ……………………私の小説、つまらないんだぁ……」
「おいおい! 気を落とすな。悪かった! だが、改善の余地はあると思う」
「かい……ぜん?」
北沢は首を傾げた。
俺が言っていることの意味を、よくわかってないらしい。
「ちょっと待ってろ」
俺は意気込んで、立ち上がった。
そのまま自室に戻って、三冊ほど本棚から引っ張り出す。
そして、応接スペースまで戻ってきた。
「ど、どうしたの小島くん。それにその本」
「俺の書いた本だ」
「おっ……俺の書いた本!?」
北沢は今にも飛び上がらんばかりに驚いた。
教科書通りの反応をしてくれてどうもありがとう北沢。
「小島くん、本出してたの?」
「あぁ、ミステリだ」
「す、すごいなあ。私なんかとは大違いだな」
「そんな自分を卑下するな。べつに、誰だって最初に読まれるときは恥ずかしいと思うものだ」
俺は昔、ネットで小説を書いていた。
ミステリだ。その小説がネット内で大ブレイクし、出版の声を掛けてもらった。
著者累計で五万部。そこそこの売り上げだと思う。
「す、すごいな本当に……。うわ、ちゃんとしてる」
北沢は俺の本をまじまじと見つめている。
「て、っていうか、この本書店で見たことあるかも知れない」
「まぁ……あるな」
「ふわぁ、ほんものの作家さんなんだね」
「まぁな」
俺は恥ずかしくなってややうつむいた。好きな女の子から尊敬の眼差しを受けると、嬉しくてたまらなくなる。
北沢は顔を赤らめて、こちらを見た。
「なんだ?」
「わ、私、プロの作家さんに自分の作品見てもらった……ってことだよね? す、すごく恥ずかしい」
「……うぅむ、正直、面白いか面白くないかで言えば、面白くなかったな。ケド、上から目線な物言いになるが、才能は感じた」
嘘だ。まったく感じなかった。
だが嘘をつかないと、また彼女を傷付けることになってしまう。
「ほ、ほんとにっ!? 私才能ある!? いやったー!」
調子に乗るな。ちょっと褒めただけですぐこれか。
まぁプロに褒められて嬉しいってのはあるんだろう。
正直、俺はプロ意識を持ったことはないけどな。
ただネットで小説を垂れ流してたら、声を掛けてもらう。
ただそれだけだ。
「お前の小説には改善の余地がいくつかあった」
「た、たとえば?」
「主人公とヒロインのキャラ設定だな。ヒロインがおしとやかすぎて、事件が起きない」
「け、ケド、べつにヒロインがいつも事件を起こすわけじゃないよね……」
「まぁそうだな。だがヒロインがトラブルメーカーだと、主人公も事件に巻き込まれやすくなるだろ? 巻き込まれ体質の合理的説明がつく」
「な、なるほどそっか。……や、やっぱり小島くんって頭いいんだね」
「そうか? 俺はべつに、ふつうな方だぞ? っていうか、お前の方が遥かに成績よかっただろ。学年トップクラスだし」
事実、トップになったことも何回かあるはずだ。
「そ、そうじゃなくて。その、地頭の良さが……」
「それこそそうでもないけどな」
俺は今まで、地頭がいいなんて言われたことがない。
買いかぶりすぎでは……と思ったが、小説が書けるって言うことは、地頭がいいってことなのかも知れない。
世間的に見れば、な。
北沢はおずおずと顔を上げた。なにか言いたいらしい。
「なんだ?」
「そ、その……私の小説、クラスのみんなに見せない方がいいかな?」
どうだろうか。
現状のままだったら、見せない方がいいと思う。
とてもじゃないが、人に見せられるレベルじゃない。
読みづらい、というのが致命傷だ。読みやすかったら、多少瑕疵があっても高校生には読んで貰える。
だが、昨今では本を読まない高校生も増えているからな……
それらをひっくるめた上で答えを出すなら、
「やめといた方がいいだろうな」
「そ、そうだよね……」
北沢がしょんぼりとうなだれる。
おいおい、いつもの氷属性はいったいどこに行ったんだ?
北沢と言えば、あのクールな無表情から繰り出されるどぎついセリフの数々なのだが、今の北沢には一切覇気がなかった。
それどころか、女の子らしい。
やっぱり、いつもこうしていりゃいいのにと思う。
だが、同時に、こういう姿を見せてくれるのは、クラスの中でも俺だけなんじゃないか、とも思うわけで。それはそれで嬉しかったりする。
「ね、ねぇ小島くん?」
「ん?」
「そ、その、私の小説のお師匠さんになってくれないかな?」
「オシショーサン?」
俺はその言葉を繰り返して、あぁ「お師匠さん」のことか、と思い至る。
うーんどうしようか。その申し出はすげー嬉しい。
好きな女の子が小説を書いていて、その小説の師匠になってくれって言うのなら、それほど嬉しいことはない。
だが、店の手伝いがあるのだ。放課後と休日は、あまり自由に時間を使えない。
うーん、悩むな。
だがまぁ時間くらい作れるだろうし、あの北沢が俺にお願いをしているのだから、ここは、
「わかった。いいだろう」
と答えた。
北沢はぱーっと顔を華やかせて、
「ほんとにっ、嬉しい!」
ガバッと俺の手を取ってきた。温かい手だ。そして小さい。
「お。おれなんかでいいのか?」
「な、なに言ってるの? 小島くんだから、いいんだよ!」
「そ、そうか……」
くそ、なんか照れるな。
話の成り行きとは言え、俺好きな子の師匠になっちまった……!
ライトノベルでも見ない展開になって、俺は戸惑っている。
小説の師匠って、いったいなにをすべきなのか。
それすらもわかってない。
だが引き受けてしまった以上は全うしようと思う。
パソコンでデータのやり取りもできるくらいだしな。
そう考えると、楽しみになってきた。
だってあの北沢と、会話する機会が与えられたんだぜ?
嬉しくない男がいるのなら、今すぐここに出てこいよ、ってくらいすごいことだ。
俺は高鳴るテンションを悟られないようにしていると、北沢が顔を上げた。
どうやら時計を見ているらしい。
「……そろそろ時間かな」
まるで魔法が解けてしまった王女様みたいなことを、北沢は言った。
たしかに俺にとっても、魔法のような時間だった。
「帰らなくちゃ」
「きを……つけてな」
何なら送ってく、といえるほど親しくはないのでこの先は言わないでおく。
「うん、ありがとね。今日は助けてくれて。それと、話ができてすごく楽しかった」
北沢はすっと立ち上がった。それから鞄を提げる。
本当にお姫様みたいだなこいつ。
整ったスタイルに、整った顔立ち。どうして神はこんな存在を作り出したのだろうか。
いや、神の最高傑作と言っても過言じゃない。
俺は机の上に置いてある原稿を手に取ろうとして、同じく伸ばされていた北沢の腕と接触してしまう。
「……わるい」
「ご、ごめんねっ!」
ただ肌が触れ合っただけ。傍目からはそう思えるだろう。
しかし当人達からすれば、緊張が走る一瞬であった。
北沢はたちまち、顔を真っ赤にする。と同時に、俺まで萎縮する。
なんだ、なんだなんだなんだちくしょう!
ふだんから冷静なキャラを作り上げている俺だが、今回だけは冷静でいられなかった。
多分人生で一番、ドキドキした。
「こ、これね。持って帰らないとね。……………………あはは」
乾いた北沢の笑み。もしかして嫌われてしまっただろうか。
「ほ、ホントに気を付けて帰れよ。く、車とか、あ、怪しい人とか……」
どんだけ心配性なんだ俺は! だが本心から言ったことであった。
北沢は眉尻を下げて、笑った。そんなことはわかってるよ、と言外にその表情が語っている。
もしかして本当に嫌われたかも知れない!
だぁちくしょう! こんなことなら原稿を手に取らなければよかった! 北沢だって自分の原稿なんだから、持ち帰るのを忘れるわけないだろうが!
北沢はそのまま、応接スペースの扉を開けて廊下に出た。
俺も見送る形で出たのだが、いかんせん萎縮しているので、ストーカー感がすごい。
あぁくそ、から回ってばかりいる。
北沢は危なっかしい足取りで階段を降り、やがてホールまで出た。
喫茶室を利用する人は少ない。数人くらいか。
店内の灯りは眠くなりそうなくらいおとなしめに設定されており、これまた眠くなりそうなBGMが流れていく。
ときおり皿洗いの音と、客の談笑がわずかながらに聞こえる。
北沢は振り返って、「じゃ、じゃあね。また明日学校でね!」と言って、店をあとにした。
俺は手を宙空に挙げたまま、たっぷり三十秒ほどその場に固まっていた。
それから、親父がぽんと、背中を叩いてきて、ようやく解放された気持ちになった。
「うまくやったか?」
「……ぼちぼちだ。三年分くらい疲れた気がする」
「はは。まぁ、誰しもが通る道だ」
「その口ぶりだと、親父俺があいつのこと好きなの知ってたな?」
「バカかお前は。ふつう好きじゃない女の子と、二時間も喋らないわい」
た、たしかにそうか……。
会話をしていると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「店、手伝えなくて悪かったな。あとこれからも、手伝う時間が減るかも」
言ったあと、親父は目を丸くした。
それから、どわっはっは、と豪快に嗤った。
「いいのぅいいのぅ青春じゃのう! 大学時代に母さんと喫茶店に初めてデートしたときのことを思い出すわ」
俺は肘で親父の腹を小突いた。
「からかうな」
「悪かったわい。けどま、もっとうまくやれよ」
俺はうなずく。
これから、北沢とどんな日々を過ごすんだろう?
不安でもあり、また楽しみでもあった。
俺が応接スペースまで戻ると、とんでもないことを発見してしまう。
「北沢……パソコン忘れてんじゃねぇか!」
いや俺も気付けよ! って言う話である。
だがあのときは緊張して、そんなところまで気を配れる余裕はなかった。
むしろ手が触れ合ってしまった緊張で、どうにかなりそうだったのだ。
「……明日返すか」
今から自転車で追いかけても、あいつがどこにいるのかはわからない。
だとしたら、取れる選択肢はそれしかないだろう。
俺は鞄の中に、北沢のパソコンを突っ込んだ。
北沢の思いが詰まった、大事な大事なパソコンを。