説得 1
あかね視点
「最近、また帰るのが遅くなっているようだが?」
お父さんが、私の部屋の扉を開けて言ってきた。
「お父さんには、関係ないし」
「関係なくはないだろう。私は娘の帰りを心配している。
それが、おかしなことかね?」
このお父さんはいつも正論しか言わない。
そろそろだ。
私はもう、反抗できない子どもじゃない。
「お父さんいつもそうだよね。そうやって正論ばっかり。ちょっとは娘の気持ちを考えたらどうなの?」
これにはお父さんも戸惑ったらしい。
だが、彼は冷静に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それが?」
お父さんはゆっくりと続けた。
「正論がそんなにおかしいかね? お前はまだ、子どもだろう。
それに、お前は私に向かっては言いたいことが言えるが、他の人間に対してはどうだ?」
………………っ。
私は下唇を噛む。
「お前は自分の意思表示が、得意な人間なのか? それほど協調性にすぐれているのか? お前の担任の教師から聞いたよ。北沢さんはいつも一人でいる、とな」
………………くっ。
私は悔しかった。言い返す言葉がなかったからだ。
「そんな人間が社会に出て、どれだけ苦労すると思っている?
ならば社会に出る前に、私のような正しい大人が、お前のような子どもを導いてやらねばならない。そうは思わないか?」
痛いところを突かれた。
私はたしかに、協調性というものがない。
コミュニケーション能力だって、悔しいけど低い。
そんな私が、社会に出てうまくやれるのだろうか。
「………………だ、」
だから小説家になりたいんじゃん、
とは言わなかった。堪えた。あぶない。
小説の話題は、いますべきじゃない。
今完全に論破されたら、後日彼に小説を見せたときに、説得する言葉が全部無意味になるからだ。
だから堪えた。
「お前は、恥ずかしいことに、大人になりきれてない。
大人ぶってる子どもだ。私のような大人から見れば、特にな」
「…………へぇ、じゃあお父さんは言うほど大人なんだぁ……。あんなにお酒飲んで」
「お酒を飲むことのなにが悪い。法律上、認められてることだろう。
それともあれか? 酒を飲んでる大人はだらしない、とでも言うつもりか? たわけ。
それは本当にだらしない人間に限る。私みたいに、節度を保って飲んでいる人間には適用されない。
お前が思う大人、という尺度が、あまりにも小さすぎるのではないか?」
…………………………ダメだ。
お父さんはああ言えば、こう返してくる。
しかもそのどれもが正論だ。
果たして、この人を説得できるのだろうか?
「お前、まだ小島一茂とやらにあっているのか?」
「洋太だよ。小島洋太。一茂はペンネーム」
「どちらでもよかろう。私に電話番号を教えなさい」
「はっ、な、なんで!?」
「なんでもだ。彼に直接はなしをつける。もうお前と会うのはやめるようにな」
「そ、そんなっ、それに小島くんに会ってたなんて証拠がどこにあるの!?」
お父さんはギラリと、私の方を睨みつけた。
「――ちがうのか?」
その目を見て、嘘はつけないと思った。
「そう、です……」
「ならば電話番号を教えたまえ」
私は小島くんから聞いていた、電話番号を教えた。教えてしまった。
ごめん小島くん。
もしかしたら、お父さん説得できないかも知れない。
洋太視点
いつものように勤務していると、ふとスマートフォンが鳴った。
「なんだ?」
俺はゆっくりとをそれを持ち上げ、知らない番号からだと気づかされる。
俺にこの番号の知り合いはいない。
「……もしもし」
「………………キミが、小島一茂くんとやらかね?」
「そうですけど、なにか?」
一茂? ってことは出版関係者か? それとも粘着質なファンか?
俺は次の瞬間、その答えがどちらでもないことを知る。
「私の娘が世話になっているようだね。私は北沢あかねの父親、北沢圭一だ」
なっ――――――、
俺は心臓が止まるかと思った。
北沢の父親、だと……。
胸の高鳴りが、どんどんひどくなっていく。
下手したらその場に倒れそうなくらい、緊張してきた。
「それで、何の用ですか?」
俺はあくまでも、素っ気なく聞き返す。
下手なことは言わないように、できればしたい。
「やめて欲しいのだ。あかねとキミは、師匠と弟子の関係性に当たるそうだね?」
「そうですけど、それがなにか?」
「だからそのカンケイをやめて欲しいと言っている。あかねの帰りが遅くなるわ、あかねが小説家になりたいと言い出すわで、迷惑しているのだ、こちらは」
勝手なことを言いやがる。
だが、予想はついていたことだ。
いつか似たような展開になる、とは、俺も考えていた。
あかねが作家になりたい、ということは、父親に反対されている。
そしてその父親が、ついに俺にも口出しするようになったのだ。
「オタクの娘さんとは、しっかり話したんですか?」
「もちろんさ。した上で、キミに電話を掛けている」
俺は嘘だな、と思った。
俺にはそれを、確認する術がない。
北沢は多分、どこかで論破された。
かなり早い段階でだ。きっと親がパソコンを買い与えている……とかなんとか、上からの理由を突きつけられたに違いない。
それを持ち出されれば、彼女も反抗できなくなるからだ。
「とにかくこういったことはやめていただきたい。金輪際な。
娘の学力も、そのせいで落ちてきてしまっているのだ。
キミは学生にとって、学力がどれだけ重要かわかっているのかね?」
それは………………聞いてないことだった。
北沢あかねの成績が、落ちていた?
多分、北沢も心苦しくて俺には言えなかったのだろう。
言ったら、もしも言ったら、俺は何と言っただろうか。
多分、「じゃあやめにしよう」とでも言っただろう。
そうしたら北沢は、ショックを受けたのではないか?
だから成績が下がったことは言わなかった。
……はは。
なんだよ、北沢。お前も、この関係性続けたかったのか。
確証はない。だが、北沢ならそう考えるだろうなと言う、確信がある。
俺と彼女が過ごした時間は短いが、それだけわかり合えたことも多い。
「むりだ、といったら?」
「――金を出そう」
思わず口笛が出てしまいそうなほどに愉快な回答だった。
クレバーな回答だ。思わず拍手したくなるくらいに。
相手は、大人だった。
大人ぶっている大人だ。
お金があればなんでも解決できると思っている。
「なんのつもりだ?」
「プロなら、五十万でどうだ?」
気分が悪い。俺は早々にこの話を打ち切りたかった。
「あんたはなにもわかっちゃいない」
「わかっているさ。あかねの受講料として、だ。決して理由のないお金ではない」
なるほどそう来たか。
俺があかねに小説の指導をした、その対価として、お金を払おうというわけか。
ふざけんな。納得できるか。
「むりだ。むりな相談だ」
「そうか。ではキミは、どうやったらやめてくれるんだ?」
「あかねさんが自分からやめると言い出すまで、ですかね」
俺はさっきから冷や汗だらだらだった。なんたってこんな緊張しなくちゃいけないんだよ。
「今のところ、それは難しそうでね。私も頭を悩ませている」
ほら見ろ。
お前は北沢のこと何にも考えちゃいない。考えてる振りをしてるだけだ。
父として。親として、な。
「あかねさんがどれだけ努力したかも知らねーで、大人みたく偉ぶってんじゃねーよ」
俺は強気で言った。ここで引いたら、つけ込まれる。それがわかっていた。
大人というのはそういう生き物だ。弱気になった生き物を排除する。
それが社会というシステムだからだ。
ため息が聞こえた。
「キミも引かないね」
「引く理由がないんでね。引けと言われたら、さすがに納得できませんよ」
「やれやれ。君の要望はなにかね?」
俺は、言った。息を吸って、覚悟を込めて。
「喫茶室『ららら』ってところは知ってますか? そこに日曜十七時に、来て下さい」
「それで、君の気が済むのかね?」
俺は悟る。
この男はどこか、この展開を楽しんでいる。
そう思った。そう感じさせるだけの、なにかがあった。
まるで俺がなにをしているのか、期待しているような。
「あぁ。あかねさんも来ると思います。彼女には僕から事情を伝えておきますんで」
「わかった。喫茶室『ららら』に十七時だな。名前くらいは聞いたことある」
「ありがとうございます。では」
俺は早々に電話を切った。これ以上会話したくなかったからだ。
俺は無言になったスマートフォンを見下ろして、思う。
これでよかったのか。
しかし、原稿は完成している。いや、完成まであと一歩というところだが、もうほとんどが完成している。
ならば、それを読んで貰えれば、圭一さんにも納得して貰えると思う。
だが、本当にいいのか、これで?
妙な不安が俺の胸を抉った。