天正九年の武田勝頼・前編
長かったので、前後編に分けました。
長い長い長い長い考えるだけの地獄の様な日々。手足は勿論目も開けられず耳も聞こえない。鼻も利かず、肌に触れられているかも分からない。自分に出来るのはただ何かを考えるだけ。
5感を失った俺は自分の周りで何が起きても全く分からない。だが、家族にとって俺は良い夫、良い父だった自信はある。それだけに家族は病床に横たわるだけの俺に優しく接してくれている筈だ。そんな俺のただ思考するだけの生活は唐突に終わりを告げた。勿論、自分では原因は分からない。徐々に意識が遠くなっていく感覚だけは朧げに覚えている。
おそらく俺の人生はあそこで終わったのだ、家族に別れを告げる事すら出来ず。生を終えた者は仏教で言えば涅槃、キリスト教で言えば天国に行く筈。人として真っ当に生きた自負はある、少なくとも地獄に行く事はない筈だ。
そんな回想に耽っているうちに目が覚めた。涅槃・天国に到着したようだ。想像していたより薄暗い。美しい花が咲き乱れる楽園のような場所を想像していた俺は少し戸惑った。何しろ板張りの座敷にむさくるしい男ばかり数名が胡坐をかいて座っていたのだ。俺は一応上座だ。
意識がハッキリしてきて、何年振りかで視界が開けた喜びに震えた瞬間!強烈な頭痛が襲って来た。平行世界、並列思考、どのような表現が適当か分からないが、今自身に起きているのは俺の生前ともう一人の人間の記憶・経験、そう、その人の人生との統合が起きているのだ。何だこれは?俺は座っていることが出来ず突っ伏した。下座の人間が慌てて人を呼ぶ声がする、医師でも来るのだろう?やがて俺は意識を失った。
どれくらい寝ていたのだろう?目が覚めてもまだ頭痛が残っている。現世であれば頭痛薬を飲みたい所だが、天国には薬もないのだろうか?
いや、俺はあえて現実から目をそらしているのだ。ここは断じて天国などではない。
あの人格統合のような強烈な頭痛現象の結果、もう一人の人物の記憶によってここが何処か分かってしまったからだ。
ハッキリ言って、ここは地獄の一歩手前だ。時は天正9年10月、場所は甲斐国・府中の躑躅が崎館、そして俺と統合したもう一人の人格とは武田大膳大夫勝頼。またの名を諏訪四郎勝頼。諏訪勝頼は旧名ではなく別名だ。それは勝頼自身の記憶がそう認識しているのだ。
そうここは天正9年(1581年)新暦で言えば11月の日本。来年の旧暦2月に織田信長による甲州征伐が起き、俺は家族と共に自害に追い込まれ甲斐武田家は滅亡するのだ。滅亡までもう4ヶ月を切っている。今更こんな時期のこんな状況に転生していったい何が出来るというのか!
歴史転生物の定番、農業改革は出来ない。来年の田植え前に滅亡してしまうのだ。
椎茸も澄酒も利益を出すには間に合わない。史実より早い鉄砲の入手?いやいや信長は既に鉄砲を数揃えてる。クロスボウも量産する時間がない上、鉄砲の前では無力だろう。そもそも何を作るにしてもこの時代の工業力では圧倒的に時間が足りない。既に積んでる!!
これじゃ、ベッドの上で考えるだけだった前世の最後と変わらないじゃないか!!
久し振りに動く体を手に入れたというのに、俺は絶望に身を捩らせ悔しさに体を震わせた。
*七日後*
漸く冷静さを取り戻した俺は、これから起きる出来事を記憶の限り書き出してみた。
現状
同盟:越後・上杉、北常陸・佐竹、安房・里見、将軍家、毛利
敵対:織田、徳川、北条。織田には佐竹を通じて講和申し入れ中。織田からの人質・御坊丸は返還済。
十二月:俺、建築途中の新府城に移る。
二月:木曽が織田に寝返る。俺は府中にいる木曽の人質を殺し、武田信豊に木曽討伐を命じるが返り討ちにされる。
織田が木曽に先導され侵攻。
三月:駿河の穴山も徳川に寝返り、徳川軍は穴山の先導で甲斐に侵攻。
東西に敵を抱え度重なる出兵負担で財政を圧迫していた武田家臣団は殆ど抵抗せず敵前逃亡する。
家臣に逃げられ兵も乏しい俺は、新築したばかりの新府城を維持できないと判断し火を掛ける、僅かな兵と女子供を連れ小山田の岩殿城を頼る。ここで小山田の裏切り、天目山に落ち延び自害。
軍記物の内容がどこまで事実を反映しているか不明だが、凡そこんな感じだった筈だ。
・・・はぁ、溜息が出てくる。たったの三か月で何が出来るんだ?先代・信玄の時代は敵国に攻め行って略奪して利益を上げていた筈だが、東西に敵を抱えてからは守るための出兵が大半で合戦による利益はなかったのだ。これでは家臣が離れていくのも無理はない。
こんな滅亡ルート、どうしろって言うんだ。
勝頼つまり俺は、徳川に攻められ救援を要請してきた遠江・高天神城に援軍を出さず見殺しにした。これが、家臣達に大いに動揺を与えたという。
実際、木曽も穴山も敵との最前線にいるのだ。援軍が来ないとなれば離反を考えるのも無理からぬ事だ。しかし、高天神城は今年三月に既に落城している。今更どうしようもない。
午後、俺は青沼助兵衛尉に命じ、黒川金山の山師達を二手に分け採掘に向かわせた。
一か所目は信濃・佐久の鉱山、もう一か所は甲斐・塩山の鉱山。
両方とも鉱山と言っても明治以降の話でこの時代は只の山野だ。実は佐久の鉱山ではクロムが、塩山の鉱山では砒素が採れるのだ。銀行員の俺が何故知っているかといえば、公害対策事業で自治体に融資をした経験があったからだ。郵政民営化以降は自治体からの融資依頼が増えていた。
この時代であればクロムも砒素も露天で採れる事だろう。言うまでもなく両方とも毒物である。
*師走*
正史では新府城に入城した筈だが、俺は躑躅が崎館に留まった。そもそも、今月までに新府城は完成していないのが分かっていたので、先月の評定で家臣の負担増を理由に普請の中止を決めたのだ。側近の跡部、長坂らは反対したが”これ以上家臣に負担は強いられない”と納得させた。彼らも勘定奉行だったので家臣達の窮状は理解していたようだ。
跡部、長坂は事前に根回ししないと厄介だとわかったので、今月は評定前に呼び出した。
「大炊介(跡部)、釣閑斎(長坂)、よう参った。面を上げよ」
『『はっ』』
「二人には予め伝えておくが、此度の評定であくる年からの年貢を四公六民にするよう伝えるつもりだ」
『!御屋形様。其れでは家内が持ちませぬ。今でも倉は苦しいのにそんな事をしたら、兵を挑発する事も叶わなくなります』
跡部は勘定方が長いから、財務状況は良く把握している。
「うむ、四公六民は公儀直轄地と家臣からの上納税率とする。家臣領内での税率は各将の裁量に委ねる事にする」
『『なんと。先代の時代に戻すのでございますか?あんなに苦労して税率の統一を図ったのに!然らば家臣が石高を過少報告してきても分からなくなります』』
そう、領内税率の統一は勝頼時代の政策で、信玄の時代は家臣の領地は家臣に任せていたのだ。それを勝頼が検地を実施し税率の一本化を図った。
だが、元銀行マン、いや現代人から見たら笑ってしまうような幼稚な施策だ。何しろ、一回検地をしただけで上納額を決めてしまったのだから。
確かに武田家内は山地が多く耕作地は少ない。その意味では、豊作・凶作の差は過少と言えるだろう。それにしても、上納額固定とは凄まじい。これは税率固定ではなく税額固定だ。不作の年は山野に入って山菜・茸、木材、信濃では食べられている昆虫で補っていたらしい。昆虫まで税に回されたら領民は何を食べるていたのだろう?
その上、新府城普請の為、木材供出の特税を課していたらしい。木曽地域の木材は現代でも有名だ。それを特税として伐採しまくり供出されたら木曽としては堪ったものではないだろう。謀反に走るのも無理ないわ。
そんな、木曽の境遇には同情を禁じ得ないが、こちらも命が掛かっているのだ。心を鬼にしてかかるしかない。
俺は二人に告げた。
「昨今の家臣達の動揺ぶりは其方達も気付いていよう。このまま、重税を課したままではそれこそ家内が瓦解してしまう。儂はそれを恐れているのだ。税を戻すのは明年のみだ。いずれ、国力が回復したら、再度、より良い徴税法を検討しよう」
二人も家臣の不穏な雰囲気を感じていたのだろう。大いに唸った後、
『『御意に御座ります』』
と同意した。
同日夜半、今度は土屋右衛門尉昌恒を呼び出し、密命を与えた。彼は軍記物で天目山まで従い最後は千人斬りといわれる勇猛さを見せた忠臣中の忠臣となっている。今は軍記物を信用する他ない。
ところで、武田家と言えば忍びだが、勝頼の記憶の中には全く登場していない。三つ者とか三者と言われる忍び集団が信玄の時代にはいたと軍記物には書いてあったが勝頼の記憶には全く残っていない。ということは、三つ者が後世の創作か、或いは親を追放し子を自害に追い込んだ信玄は勝頼をも完全には信じ切っておらず存在を秘匿していたかのどちらかだろう。後者とすれば、勝頼期に信玄時代の忍びは何処に行ってしまったのだろう?
*師走五日*
俺は側近の秋山内記を呼び出した。
『御屋形様、お召により参上いたしました』
「うむ。内記。早速だが間見、見分、目付という者達に心当たりはないか?」
『御屋形様、そのお言葉、どちらで?』
「ん?知っているのか?」
『は、先代様が使用していた乱波・透破者達です。大半が設楽原の戦で戦死しております』
「なんと、何故、儂の元には知らせが無かったのだ。皆、武将に成りたがっていたのか?」
『は、それもありますが、彼らは御屋形様は自分達を重用しないだろうと考えていたのも大きな理由です。彼らは野盗・盗賊と変わらぬ存在です。それなのに禄が掛かります。御屋形様は、民に軍役として”かまり”を命じる事がありますが、もし彼らにお会いになっていたら、”かまり”に動員するような民と同じ程度の存在と思われた事でしょう。ただ、目付については御屋形様もご存じの筈です。今は奉行と呼び各領地に派遣している者達です』
軍記物で甲州忍者の中に秋山姓の者がいた筈なので確認したのだが、やはり知っていたか。
”かまり”とは街道封鎖の事で合戦の前後に在地の民に扶持を渡しやらせる事がある。応じるのは確かに野盗・野武士のような浮浪者共である。あ奴らを常時召し抱えるとなると、家督相続以降、家臣に舐められぬよう合戦を繰り返していた勝頼は無駄な出費だと切り捨てた事だろう。そして、目付は奉行として表の舞台で仕事をしていると。家臣の領地に儂が口を出さなくなったら、彼らは仕事を失うのか。
「そうか、目付以外は大半は戦死したと言ったな?一部はまだ残っているのか?」
内記は暫し考えるように沈黙したが、やがて、
『現在おるのは、およそ三十人程でしょうか?何れも歳を重ね先代様の時のような仕事が出来るかは分かりません』
「時に先代の頃は其方が、そういう輩を差配していたのか?」
『父の仕事で御座いました。某は手伝っていた程度です。何分にも秘匿性の高い仕事故、ご家老方でも知っている方は僅かだったと思います』
「駿河に顔が知れている者はいるか?」
『いや、駿河は九一色衆という地侍がそのような仕事をしておりました。流石に今川様の時代より同盟致しておりました故、完全なる透波者を使う事は無かったようで御座います』
となれば、穴山も透波の顔までは分からぬかも知れん。どうせ後が無いのだ使って見るか。
「見分の経験がある者を何人か連れて来い。やらせたい仕事がある」
『は?まさか。御屋形様直々にお会いになられるので?』
「うむ。其方も言った通り、秘匿性の高い仕事であるからな。三人程連れてまいれ。女子でも構わぬ」
『は、御意に御座ります』
秋山は大層驚いていたが、三人程度なら荒事になっても遅れを取る勝頼ではない。切り捨てるまでだ。
後日、秋山は見分を三人連れて来た。女二人、男一人だ。当主との面通しにかなり緊張し怯え気味だったが、穴山に顔を知られていない事を確認すると仕事を話した。
「やれるか?」と問うた儂に
『『『お任せ下され』』』と自信あり気に答えたので任せる事にした。
*師走十五日*
評定にて来年からの四公六民を告げた俺は、木曽、穴山、そして、飯田城主・保科正直の府中在中の家族に国元に戻り家族で正月を迎えるよう伝え、漬物と米を下賜した。
この時代既に漬物はある。野菜の保存食として珍重されていたが、味や香りの良い品は高級品であり、”敵地との最前線を守った重臣への褒美”として、十分な価値がある品だったのだ。
だが、既に織田や徳川から調略を受けている筈の木曽、穴山は漬物と米に恩義を感じ裏切りを思い止まるだろうか?とても、そうは思わない。何しろ、今までの勝頼の対応が悪すぎた。むしろ、
『当家の領内に重税を課した上、特産品の木曽材を大量に持ち去っておいて、自分はこんな贅沢品を貯め込んでいたのか!』
と、怒りに拍車を掛けるのではないか?その上史実と異なり家族、つまり人質を帰したとなれば、益々裏切りやすくなるだろう。
*師走下旬*
同盟を結んでいる佐竹、里見に文を出した。下野の宇都宮にも文を出した。内容は要約すれば、
「如月に北条を攻めるので、同時期に北条領に出兵して欲しい」
という物だった。上野から下野、常陸には七日も掛からない。安房にも香取海を通れば容易に到達できる。
*天正十年 正月*
松の内が開けようかという七日、土屋右衛門尉昌恒が戻って来た。彼には毛利との交易を任せていた。毛利から購入したのは大量の炮烙玉だ。代金は残り少ない甲州金を全てつぎ込んだ。更に毛利家発祥の地とされている相模・毛利庄にあった三島神社、龍蔵神社の宝物倉にあった財宝を提供した。この財宝は且つて信玄時代に北条領を荒らした際に神社に火を放った時に手に入れたものだ。何故、知っているかというとその戦には俺・勝頼も参陣していたからだ。いや、より正確に言えば”一番槍”とばかりに宝物倉に最初に飛び込んだのは俺だ。ついでに言うと略奪後に火を放ったのは従弟の信豊だ。土屋の話では、
『甲州金以上に、神社の宝物に毛利方は大層感激した模様で、想像以上に大量の炮烙玉を譲って下さいました』
因みに彼が相対した相手は安国寺恵瓊だそうだ。恵瓊は
『いずれ甲斐に赴き、恵林寺の快川和尚に合うてみたいものです』
と言っていたそうだ。
また、彼は帰りに紀伊にも寄って来た。雑賀衆を召し抱える為だ。紀伊は三年前に織田の大軍に荒らされ、甚大な被害を被ったとされている。だが、紀伊の雑賀衆と言えば史実では鉄砲の名手達だ。残党の中に織田に恨みを抱く者がいたら、武田に誘うよう土屋に申し付けたのだ。そして、やって来たのは土橋守重・重治父子以下十名程の雑賀衆だ。
『大膳大夫様、お召により参上いたしました』
「うむ、よう参った、土橋。昨今の紀伊の状況は如何か?」
『は、織田の侵攻が続き、民も寺社も荒れ果てております。あ奴らは敵対したら寺だろうが僧だろうが焼き払い、殺してしまいます。正に第六天魔王の所業にございます』
「なんと。左様な有様であったか。我らも奴らの脅威に晒されておる。由緒ある諏訪大社や善光寺を守る為にも、其方らの働き、期待しておるぞ」
『悪族共を誅する機会を与えて頂き、恐悦至極にござります。我ら鉄砲の扱いには一日の長があると自負しておりますれば、必ずや、諏訪大明神様や善光寺をお守り致します』
軍記物では武田勝頼は鉄砲の威力を侮ったと言われる事が多いが、実際には武田家内にも鉄砲・弾薬はある。しかし、その運用となると織田に後れを取っているのは事実だった。雑賀の者達は鉄砲の次弾装填を出来る限り早めるよう工夫しているという。時間は余りないが、彼らには家内の鉄砲足軽の指南役になって貰おう。
*翌日*
三名の見分が仕事を終えて戻ってきた。彼らにやらせたのは、駿河に向かう穴山の家族に護衛として同行し、駿河館の倉から出来る限りの財を盗んで来い。という事だった。
徳川から調略を受けている穴山の館は財宝で潤っていたという。今回は金銀玉など嵩張らない物だけ持って帰ってきたそうだ。全部盗んだわけではないので穴山が盗みに感づくまで暫く係るだろうとのこと。
実に鮮やかな仕業だ。この三人は武田領内でも盗賊家業をやっているのかも知れない。最初に俺に会った時、妙に怯えていたのは盗賊の足が付いたかと勘違いしたか?何れにしても明らかにプロの仕事だ。次は浜松か岐阜にでも行って貰おうか。
*睦月中旬*
佐竹、里見、宇都宮に向かった使者が戻って来た。全家、出兵に同意したという。
評定の場で、来月の北条攻めを告げる。狙いは勿論略奪だ。上野から真田が武蔵に、甲斐からは小山田が相模に出兵する。甲斐に置いてもどうせ最後は裏切る小山田だ、略奪次第と命じれば喜んで兵を出すだろうと思ったが案の定だった。
ところで、武田が滅亡した甲州征伐について一般には織田、徳川、北条が三方から武田領に攻め行った三家合同作戦のように言われるが、北条側から描いた軍記物では少し違う。北条は信長に従属していたが、織田の甲州征伐は出来る限り北条に知られないように実行されたというのだ。事実、旧武田の領地は織田領となり、北条は切り取った駿河を手放し、何も得られなかったのだ。
信長は武田を舐め切っていた。その武田と互角に戦っていた北条もまた信長に舐められていたという事だろう。
兎に角、北条は織田の甲州攻めを知らない。後で気付いてお零れに与ろうと慌てて出兵してくるのだろう。だとすれば、裏切る筈の小山田に北条という餌を与え、佐竹・里見らと先に北条を攻めれば、不利になると直ぐに城に籠る北条は籠城策を取る筈と予想したのだ。
*如月一日*
真田、小山田は予定通り北条領に出兵した。佐竹、里見、宇都宮も予定通り出陣した筈である。現代と違い通信機器など無いので、こればかりは信じる他ない。三家の領内には間見を忍ばせたが彼らが迅速に使いを走らせたとしても甲斐に着くまで数日は掛かるのだ。
さて、甲州征伐の口火を切る筈の木曽の裏切りの報らせが入って来ない。代わりに木曽に嫁いだ義妹・真理姫から、夫・義昌が病に倒れたと連絡が来たので、見舞いとして馬場昌房(馬場信房の嫡男)に三千の兵に炮烙玉、鉄砲を持たせ木曽の本拠・福島城に向かわせた。
また、南信濃の飯田城、大島城、高遠城、上原城にも炮烙玉、鉄砲、弾薬、兵糧を運び込んだ。
(後編に続く)
後編はこちらです。
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