39 聖女オリーヴィアの誤算
オリーヴィアはライルが出ていく背を見つめながら立ち尽くした。
(ここまでやったのに……どこから間違えたというの?いえ、新しい賢者の石を手に入れ多くの騎士を救えば、まだライル様の期待を取り戻せるはずよ。お父様にもっと賢者の石を作るようお願いしなければならないわね)
オリーヴィアは護衛ひとりを連れて第一キャンプ地へと下がることにした。前線からは惜しむ声も聞こえず、予定よりも早い時間に第一キャンプ地に戻れば、歓迎どころか困惑の視線を向けられた。
(無礼な態度をとっていることを後悔するが良いわ。わたくしは救世主となって、国で一番尊い存在になるのよ。奇跡の力があれば、いくらだってひっくり返せるわ)
周囲の視線を気にすることなく、堂々とキャンプ地を闊歩する。
「明日の早朝に第二キャンプ地に向けて出るわよ。馬を確保しておきなさい」
「善処します」
護衛に指示を出してすぐに聖女専用のテントに入り、簡易ベッドに身を投げた。
第二キャンプ地までは徒歩で半日以上、馬でも数時間はかかる。護衛と馬の相乗りだとしても体力を回復させる必要があった。
苛立ちと焦燥感で頭は冴えていたと思っていたが、肉体的疲労感からオリーヴィアの瞼はすぐに閉じられた。
カンカンカンカン―――――
オリーヴィアの眠りはキャンプ地に鳴り響く警鐘で破られた。
「何なんですの!?」
聞いたこともないほど鐘が激しく打ち鳴らされていた。
オリーヴィアは簡単に身なりを整えながら、知らせがくるのをテントで待つ。しかし外からは大地が震えるほど人の行き来を感じるのに、護衛すら知らせに来ない。まだ警鐘はなり続けている。
「どいつもこいつも使えないわね」
しびれを切らしたオリーヴィアがテントの外へ出たとき、目に入ったのは怪我を負い気を失った護衛の姿だった。
「しっかりなさい!回復」
護衛の傷が消え、まだ生きていることにオリーヴィアは安堵した。すぐに護衛の頬を打ち、目を覚まさせる。
「何があったの?早く!」
「ダ、ダンジョンの急な活性化により魔物が大量に発生。前線の守りの要である防護壁が破られ、前線の陣形は崩れ……キャンプ地にも数体の魔物が。私もそれで」
「なんですって」
護衛の怪我は魔物に負わされたものだった。地面を震わせていたのは人の足音だけではなかった。
周囲を見渡せば、離れたところで騎士と一体の魔物が交戦中だ。
離れていると言っても、前線にいたときよりも近い魔物との距離にオリーヴィアは戦慄した。
交戦中の騎士の腕が狼を模した魔物に食いちぎられ、地面に落ちるように倒れた。すぐに他の騎士が首を切り落とし、魔物を倒すが負傷した騎士は動かない。
仲間の騎士たちがオリーヴィアの姿を見つけ、走って負傷者を連れてきた。
「聖女様!早く回復魔法を!」
「――――っ、条件があるわ。治す代わりにわたくしを第二キャンプ地へすぐに連れて行くのよ」
「これからですか!?最前線組と合流してから撤退との指示が出ております。我らが司令部テントにてお守りします故、お考え直しください。それより負傷者を」
「黙りなさい!聖女であるわたくしの命令よ。連れていけないのなら、治す意味がありませんわ」
騎士たちは絶句したのち、仲間の命を優先し同意した。
(危険な場所になんかいられないわ。あんなケダモノの吐いた息が混ざった空気を吸うなんて気持ち悪い。早く、早く離れなければ)
近くで見た魔物は、インクを被ったような濡れた黒色で、牙や爪は鋭く、口からはヨダレと瘴気が漏れており、オリーヴィアに強い嫌悪感を与えていた。
「回復」
オリーヴィアが負傷者を治すと、休むことなく第二キャンプ地を徒歩で目指すことにした。馬は既に伝令や魔物の陽動で出払っていて、使うことはできそうもない。
目まぐるしく走り回る騎士たちの間を縫って駆け足で後方へと進む。
まだ日没前の時間だというのに空は分厚い雲で覆われ、夜のように暗い。まとわりつく雰囲気も視界も闇に支配されたようだった。
「誰か光源の魔法で照らしなさい」
「魔物が寄ってくる可能性があります。それに魔力が足りなくなる可能性が」
「ポーションを飲めば良いでしょ?」
「今日はもう飲めません。飲んでしまったら副作用で動くことができなくなります。そうなったら俺たちは」
「わたくしを守って死ぬのよ。名誉なことだと何故思えないの!」
オリーヴィアの叫びは喧騒に消えることなく、周囲に響いた。
周りをせわしなく動いていた騎士たちも足を止め、目を見開きオリーヴィアを見た。
「な、なんですの、その目は?立場をわかっていますの?」
軽蔑の視線に晒され、オリーヴィアは憤る。そこへ分隊長が血相を変えて真っ直ぐ走ってきた。
オリーヴィアは話が通じそうな騎士が来たと思ったが、かけられた言葉は期待とは真逆だった。
「なんと自分勝手な!オリーヴィア様、許可もなしに騎士を持ち場から離されては困ります」
「なんて失礼なの!?」
「――――っ、総司令官ライル殿下の指揮にお従いください。お前、行くぞ」
分隊長がオリーヴィアが連れて行こうとした騎士の腕を引き、その場から離れていってしまった。
すると時が再び動き出すように、他の騎士たちも自分の持ち場へとかけていった。
その場に残ったのはオリーヴィアと護衛のふたりのみ。
「全員、戻ったら後悔させてやるわ」
オリーヴィアの声は今度こそ喧騒に消えた。
彼女と護衛はふたりで第二キャンプ地を目指すことにしたが、すれ違う騎士が増えていき、やがて減っていった。「引き返せ」と口にするものもいる。
護衛が理由を騎士に聞こうと提案するが、もう屈辱的な思いをしたくないオリーヴィアは無視をした。
「きゃっ」
「なっ――――なんで後方に聖女様が!?」
すれ違う騎士にぶつかった。その瞬間オリーヴィアの首にかかっている賢者の石のネックレスが千切れ、地面に散らばった。
「そんな」
「聖女様!ネックレスは捨てて中央に!」
オリーヴィアは白い服が汚れるのを厭わず、膝をついて赤い石をかき集める。賢者の石は彼女の切り札で生命線。必死になって集めようとするが、護衛は手伝おうとしない。
「見ていないで手伝いなさ――――」
顔を上に向け、オリーヴィアは言葉を途切れさせた。
行き先を阻むように、人の胴よりも太いコブラの姿をした魔物がいた。あまりにも禍々しい姿に護衛は動けなくなっていた。
気付けばぶつかった騎士は既に立ち去っていた。精鋭の騎士も逃げるほどの魔物。
気付かれたらお終いだ。オリーヴィアの息は短く、潜めるように繰り返す。
しかし全ての騎士が引き上げたその場にはオリーヴィアと護衛しかいない。黒コブラとすぐに目が合うこととなった。
蛇とは思えぬ速さで黒コブラが距離を詰めた。
「いやぁぁぁぁぁぁあ!」
オリーヴィアが叫んだときには、既に黒コブラの毒が彼女に降りかかっていた。
異臭が立ちこめ、服は紫色に染まり、肌を焼く。
「いぎぃ!痛い痛い痛い痛い痛い」
顔を手で押さえながら、その場でうずくまった。
護衛はオリーヴィアの盾となり多くの毒を浴びて虫の息。慌てて回復魔法を使おうとするが、賢者の石も毒を被り触ることは叶わない。
オリーヴィアは顔を覆う指の隙間から数メートル先の黒コブラを見た。赤いつぶらな瞳は彼女をまっすぐに捉えていた。
「…………あ」
大きく開かれた黒コブラの口は中まで闇色で、死の入り口そのものだった。オリーヴィアをただの動かぬ餌と認識しているのか、ゆっくりとした動きで近づいてくる。
「は……あは、はははは」
オリーヴィアの口から乾いた笑いが出た。
もう終わりだと思った瞬間、空から落ちてきた氷の槍が黒コブラの首を突き抜けた。黒コブラの目から光が失われ、ピクリとも動かなくなった。
そして状況を飲み込めないうちに、次はオリーヴィアの頭に水が直撃した。完全に痛みがなくなったわけではないが、耐えられる程度まで軽くなっていることに驚く。
「遠距離の回復魔法?どこから」
水浸しのオリーヴィアは空を見上げ、唖然とした。
灰色の曇天の空に、晴れ渡る空のような青いドラゴンが翼を広げて飛んでいた。





