37 聖女の因果
「ハル、考え直して。もう一度冷静になって」
ステラはアレクサンダー王からリーンハルトが暴走しないよう頼まれている。
ここで自分が説得できなければ、約束を破ってしまう。ステラは若草色の瞳に強い意志を乗せ、リーンハルトを見つめ返した。
「そうだな。冷静じゃないかもしれない。でも、冷静になったとしても俺は前線へ行く。ステラを守りたい」
「もうハルの病気を治した恩返しは十分に受け取っているわ。だから義務感で危険な場所へ付き合う必要はないの。お願い……留まって」
ステラは懇願するようにリーンハルトの手を握り返した。
リーンハルトは強い。しかし相手は歴代最凶のダンジョン。ドラゴンの力を再び使うことがあれば、また病に苦しむかもしれない。治るからといっても、痛みは伴う。
ではアマリアのダンジョンの時のように人の姿で――――だとしても黒獅子のような魔物が現れたとき、大きな怪我を負うかもしれない。
そんな姿を想像しただけで、溺れたように息が出来なくなる。自分のせいで大好きな人が傷付く可能性を、ステラは受け入れることが出来ないのだ。
「お願い。私を助けたいのなら、前線にきては駄目」
ライルの時には感じなかった気持ちに戸惑い、ステラはリーンハルトを遠ざけることしか良い方法が思いつかない。
「ステラは俺を守ろうとしてくれてるんだな?」
そうであって、そうではない。リーンハルトを守りたい理由は、自分が傷つきたくないからだ。ステラは真一文字に口を結んだ。
「勘違いしているようだけど、恩返しをしたくて付いていきたいんじゃない」
ステラが握っていないもう片方のリーンハルトの手が頬に伸ばされた。そしていつの間にか俯いていた顔を上げられるが、目を合わすことはできない。
「ステラが大切だからだ。俺はステラが傷付く事も、悲しむ事も嫌だ。君が辛そうな顔をしたら俺も辛い。どんなことをしても助けたい」
「――――っ、それは友達の範囲を超えているよ」
「そうだ。ステラにとって俺は友達だとしても、俺はもうステラをそれ以上に思っているよ」
ステラは確かめるようにリーンハルトの瞳を覗いた。金色のシトリンの瞳はまっすぐにステラに向けられている。
「好きだからだ。惚れた人をひとりにさせたくない」
「ハルが私を好き?そんな」
言葉を失うステラに、リーンハルトは困ったように微笑む。
「信じたくないよな?友達だと思って安心して一緒に旅をしたり、同じ部屋で寝ていた男が、君に惚れている男だなんて思ってもいなかっただろう。裏切りだと思われても仕方ない。でも俺はステラが愛しくてたまらないんだ」
恩返しのひとつとして、ステラを納得させるために無理やり嘘を――――とステラの頭をよぎるが、すぐに否定する。リーンハルトはステラにこんな嘘をつく人ではないことは、彼女がよく知っている。
(ハルは本当に私を好きなんだ。そんな私のためにハルは危険な場所にも一緒に行こうとしてくれているんだ)
嬉しくないはずがない。裏切りなんて思うはずがない。自分と同じ気持ちを、リーンハルトも抱いている。
だからこそ、彼が前線に来ることを認められない。
「私も好き。ハルのことが大好きなの」
「ステラ――――」
「だから来ちゃ駄目。ハルに何かあったら私、耐えられない」
「ステラ!」
ステラの視界は暗転し、リーンハルトの香りに包まれた。
ステラは抵抗しようとリーンハルトの胸を押すが、彼の力強い腕の中からは逃れられない。
「俺も同じだ。大丈夫と言いながら怯え揺れる瞳で見つめ返され、震える指先で手を握られて、前線に行くことの不安を必死に隠そうとする愛しい人を、俺が放っておけるはずがないだろう!」
「――――っ」
ステラは抵抗をやめた。
前線は慣れていたつもりだった。アマリア公国のダンジョンでだって、以前よりも動けていた。恐怖なんて今更感じるものではないと自分では思っていた。
しかし無自覚に抱いていた不安を、リーンハルトは見抜いていた。
「ひとりで背負うな。ステラの憂いも不安もダンジョンも吹き飛ばしてやる。俺に、君のすべてを守らせろ!甘えてくれ。ステラ、俺を求めろ!」
もうリーンハルトの前で気持ちを隠すことも偽ることもできない。
ステラは彼の胸を押し返し、見上げ、ぽろりと涙を流した。
「ハル、怖いの。助けて」
「任せろ。絶対に死なせない」
わずかに離れた距離を縮めるようにステラの体は引き寄せられ、リーンハルトの唇が重ねられた。
深い口付けにステラの体の力が抜けそうになってようやく、顔と体が離された。
「ごめん、余裕がなくて」
リーンハルトは赤くなっている顔の下半分を腕で隠した。先程まで勇ましかった姿は鳴りを潜め、照れる彼の姿は随分と初々しい。
気付けばステラの心の中の不安は小さくなり、幸福感が広がっていた。強張っていた頬も自然と緩む。
「ふふ、キスって初めてしたけど、こんな幸せな気持ちになるんだね」
「え……元聖女ということは王家か貴族と婚約してたんじゃないのか?そいつとはしてなかったのか?」
「んー、それっぽい相手はいたけど、キスも抱擁も手を繋いだことすら無かったかな。彼は肩書しか興味がなくて、私のこと別に何とも思ってなかったんだと思う。だから全部ハルが初めてで嬉しいの」
「――――そうか」
ついにリーンハルトは顔をそらしてしまった。しかし彼の真っ赤に染まった少し尖った耳は隠せていない。
(可愛い)
思わずじっと見つめてしまう。王兄であり、ドラゴンという彼の持つ肩書は偉大だ。力だけなら大陸で一番強い人だろう。
それでもリーンハルトのこんな姿を見ると、ステラにとって彼は守りたくなる存在だ。
「ハル、どんな怪我を負っても、病が再発しても絶対に治してみせる。何度だって、救ってみせる」
「頼りにしてる。必ず君のそばに俺は降り立とう」
「私のすべてをリーンハルトに」
「俺のすべてをステラに」
ステラとリーンハルトは誓いを立てて、もう一度抱きしめ合った。
そして皆を呼び戻して出発の準備を――――とふたりが動き出そうとしたとき、応接間の扉が激しく叩かれた。
「今しがた前線から火急の知らせが届いた!」
応接間の外からの国王の叫ぶような声に、ふたりは急いで扉を開けた。