第二話 グリズリー
俺が親父さんの家に住まわせてもらうようになってから、一ヶ月。その一ヶ月で、熊と戦うのは、これが二度目。
一度目は村に来てすぐのことだった。当時村を騒がせていた巨大グリズリーの駆除隊に立候補し、単独でグリズリーの捜索にあたっていた俺は、運悪く気が立っているグリズリーと遭遇。そのまま戦闘にもつれこみ……そこで、自身の持つ『スキル』の効果を知って、そのまま単独での駆除に成功した。
それまで俺は、自身の持つスキルが一体どういう力を持つのか、その一切を知らなかった。いや、予想くらいはついていたのかもしれない。ステータスキーには名前と能力値以外にも『職業』という欄がある。俺の職業欄には、
『異世界人』
という正体不明の職業と共に、
『不死の王』
という名があったからだ。名前からして、想像のつきやすい職業だろう。
だが、自分ではそれを試す勇気が出なかった。何せ、試す方法が『死ぬ』ことしかないのだから。偶然にも巨大グリズリーとの戦いでその効果が確かめられたのは、ある意味幸運とも言える。
(……でっか)
そして今。俺の目の前には、あの時のグリズリーよりもさらに大きな個体がいる。よだれを垂らし、荒い息が白く目に映った。一体、人間に換算すると何人分の重さがあるのだろう。こんなものと一人で戦おうとするなんて、正気の沙汰ではない。
その『正気の沙汰ではない行為』を、今から行うのだ。狂っているのかと聞かれれば、否定はできない。
背中に固定した片手斧を右手に持ち、左手でひらひらとグリズリーを挑発する。ふんすと盛大な鼻息を漏らし、グリズリーは心臓を揺らすような重低音で吼えた。
それと同時に、こちらに向かって突進してきたグリズリー。その巨体を避けるため、大きく側方へ飛び込んだ。
グリズリーはそのまま背後にあった木の幹に激突。木を数本薙ぎ倒し、止まった。
「やっばぁ……あんなの食らったらひとたまりもないな……」
あの突進、まともな人間が受ければ当たった部位は吹き飛ぶのではないだろうか。まず無傷ではいられないはずだ。
だが、そんな突進でも、グリズリーの頭部は無事なようだった。木を幹から数本薙ぎ倒したというのに、血の一滴も流れていない。どれだけ石頭なのかは想像もしたくない。
そう考えると、グリズリー種っていうのは全身が凶器のようなものだ。ああやって突進すれば人間を吹き飛ばせるほどの威力を持ち、爪は易々と肉を引き裂き、牙は骨さえ容易に噛み砕いてしまう。
目の前にいるグリズリーの毛皮は茶色。確か、グリズリー種の中ではまだ安全なブラウングリズリーだ。凶暴な種がどれほどのものなのかだとか、そういうことは考えたくもない。
そんな風に考えているのも時間の限界。グリズリーは再び俺に狙いを定め、突進は避けられると判断したのか、今度は立ち上がって大きく腕を振り上げた。その鋭い爪で切り裂こうという考えだろう。そんなものを食らえば一撃でダウンだ。
振り下ろされた右腕を身を捻って避ける。避けざまに、持っていた斧を振りかぶり、振り下ろされたグリズリーの右腕に攻撃を加えた。丁寧に研がれた斧は、グリズリーの分厚い毛皮を切り裂き、僅かな切り傷を与えた。
それを痛がるような悲鳴をあげて、グリズリーがよろけ後退する。その隙を逃さず、俺は距離を詰めた。
(しっ……!)
俺のステータスとこの手斧では、一撃でこのグリズリーを仕留めることはできない。ならば、動きを鈍らせるのが吉。俺はグリズリーの目を狙って、斧を地面と水平に振るった。
目論見通り、斧はグリズリーの目をかする。しかし、上手く傷をつけられたのは右目だけだった。グリズリーが右目を犠牲にして、左目を生かしたのだ。
その瞬間、俺は猟師……の弟子としての勘だろうか。『まずい』と感じ、すぐさま身を引く。
……が、遅かった。
『グォォオオッッ!!』
「くぁっ……!?」
右目を切られたにもかかわらず、グリズリーは突っ込んできた。大口を開け、ただ俺のことを喰らおうという本能のみで、突っ込んできたのだ。
俺は身を引いたものの、その勢いに負け、そして……喰われた。鮮血が噴き出し、左肘から先の感覚が失われた。
途端に、身をよじるような激痛が走った。
「くそっ……たれがぁぁっっ!」
追撃を許さぬよう、がむしゃらに手斧を振り回す。グリズリーは腕を咀嚼しながら、距離を取った。美味そうに咀嚼してはいるが、あれは俺の腕だ。見てて気持ち悪くなってくる。
奴は俺の腕を喰い、人の肉の味を覚えた。あるいはもっと前から知っていたのかもしれないが、これで後には引けぬ状況になってしまった。奴は、また人の肉を求め、いずれは人里に降りるだろう。
やはり、何があってもここで駆除しなくてはならない。ここで、俺が。
額から大粒の汗と、左肘からは大量の血が流れ出ていく。その哀れな姿を見て、グリズリーがニタリと笑った気がした。『この獲物は、もう動けないのだ』、と。
それを好機と捉えたのだろう。グリズリーが再び距離を詰めてくる。左腕を失った痛みと焦りで、俺はその動きに対応しきれず、接近を許してしまった。
また、グリズリーの大口が開かれる。俺の血で赤く染まった牙が、目の前に現れた。
……その顎下に、左手に持っていたナイフを突き刺す。
『グォアアアアッッ!?!?』
「……どうだ、食後のデザートに冷たいナイフっていうのは」
意表を突かれたその一撃に、グリズリーが大きくよろめいた。俺はそのままナイフを引き抜き、あんぐりと開いたままのグリズリーの口内にそれを突き刺した。
喉を引き裂かれる痛み。腕を喰いちぎられる痛みとどちらが上かは分からないが、どちらも相当な痛みだということは分かる。このグリズリーの反応を見るに、『死ぬほど痛い』といったところか。
喉奥をナイフで突き刺されたグリズリーは、困惑と恐怖のこもった丸い瞳で、俺を見ていた。先程自分で喰らい、呑み込んだ腕が、無傷の状態で生えている。あり得ない状況だ。目の前の獲物は確かに痛みで悶え苦しんでいたはず……それが、こうして致命の一撃を与えるための演技だとも知らず。
俺が奴の立場であったとしても、同じように思うだろう。何故、失くなったはずの左腕が、生えているのだと。お前は人間ではなかったのか、と。
もちろん、俺は人間だ。多分、混じりのない、そして紛れもない人間だ。だが、他の人間とは少し違うところがある。それが、この『誰にも読むことができないスキル』。
効果に気が付いたのは、村に来てすぐの頃のグリズリー戦。俺は今よりも弱くて、戦う術を知らなかった。そんな状態で単独でグリズリーと遭遇してしまい、戦わずして逃げていた時だ。
『がぁぁああっっ!?』
グリズリーの爪が、俺の体を大きく引き裂いた。そして、痛みに悶え苦しむ俺の上にまたがり、俺の胸を貪り始めたのだ。
耐えがたいほどの激痛と恐怖。死んでもおかしくはない、いや、死ななければおかしい、そんな状況だった。
だが……俺の肉体は、それを許さなかった。
引き裂かれた部分が、喰われた部分が、俺が意識すると同時に次々と再生していくのだ。真っ黒な何かが欠損した部分を覆い、気付いた時には、何事もなかったかのように元通りになっている。
当然、その時のグリズリーも困惑していた。一度は怪しんで距離を取り、そしてまた立ち向かってきた。
だが、何をされても結果は同じだった。腕を喰われようが、足が失くなろうが……それに、頭を吹き飛ばされたとしても。気付けば、俺の体は再生を始めていて、『ダメージを負う前の状態に復元される』。
それが、俺の持つ解読不能のスキル、『邨カ蟇セ蝗槫クー』。そして、『不死の王』という職業の持つ力だった。
俺のステータス値は低い。レベルは1だし、村の猟師連中に比べて圧倒的に数値が低い。とてもじゃないが、そんな猟師連中が束になって戦う巨大グリズリーを一人で仕留める、なんてことはできやしない。
だが、どうだろう。もし俺が、何をされても死なない人間であったなら。確かに一度で殺すことはできずとも、二回、三回……十回死ねば、その間に与えたダメージの蓄積で、たとえ相手が強大なグリズリーであったとしても仕留めることはできるのではないだろうか。
俺は弱い。ステータスは低いし、レベルが上がっても数値の上がり幅が極端に悪い。
だけど……それだけだ。ステータスが低い? 構わない。だって俺は、何をされても……
……死なないのだから。
「どうした。さっきまでの威勢はどこにいった?」
攻撃を避けることを諦め、俺はグリズリーの攻撃を『全て』受けることにした。腕を喰われようと、足を吹き飛ばされようと、胴体に噛みつかれようと。その攻撃を全て受け、受けながら手斧で攻撃を与え続けた。
まさに、『骨を断たせて肉を切る』……いや、逆だったか? まあいい。そんな言葉が……確か、あった気がする。
俺がさっきまで攻撃を必死に避けていたのは、これはこれでやりたくはない戦い方だからだ。再生するといっても、痛いものは痛い。頭を喰われたら、意識は飛ばないが、その代わりに尋常ではないほどの激痛が走る。この痛みに耐えられるのは、何故か一つだけずば抜けて高い、精神力のステータスがあるからだろう。俺だって、痛いものは嫌なのだ。
が、こうしなければ勝てないのなら仕方ない。ステータスの低さは、何度も死ぬことで補わなければ。
そして、八回ほどの致命傷を受けた頃だろうか。不意打ちで喉元を切り裂いたこともあってか、グリズリーは遂に力尽き、倒れて動かなくなった。口元に手を当てても息をしていない。完全に絶命したようだ。
「ふはぁ……やっと終わったかぁ……」
思わず気が抜けてしまい、座り込んだ。仕方ないとはいえ、これだけの痛みに耐えられるのは、本当に精神力様々だ。
俺はポケットから『ステータスキー』を取り出すと、分断された溝を合わせるように捻った。カチリと音がして、目の前に半透明のステータスディスプレイが表示される。
三上奏真
レベル4
職業:異世界人、不死の王、猟師
筋力:52
魔力:41
素早さ:55
精神力:460
幸運:30
「……精神力、異常な上がり方してるな」
こんな戦い方をしているからなのか、それとも他の理由があるからなのか。他のステータスに比べ、精神力だけは異常な上昇の仕方をしていた。
親父さん曰く、この村の猟師連中の平均的なステータスはおよそ90。他で暮らしてる猟師たちよりも強いという自負があるらしく、そう言うだけあって実力もある。それに比べれば、俺のステータスはゴミのようなものだ。
だが、精神力だけはその限りではない。レベル1の段階で400、そこから3つレベルを上げて上昇値が60。これは普通ではあり得ないことだそうだ。
何故、俺にこんな力があるのか……それは分からない。けれど、きっと、この『異世界人』という職業と、それから村の連中とは毛色の違うこの名前に、その秘密が隠されているのだと思う。
……これは一体、何なんだろうと、この一ヶ月間考え続けてきた。だが、答えは一向に出ない。この『異世界人』という職業が何なのか、俺にはさっぱりだった。
実を言うと、俺にはこの村に来るよりも前の記憶がない。記憶喪失、というやつだ。俺の記憶の中で最も古いものは、一ヶ月前、村の川で流れてきた俺を助けてくれた、びしょ濡れの親父さんの姿。それよりも前の記憶が、どうしても思い出せないのだ。
思い出そうとすると、ズキリと頭が痛む。体を喰われるのとはまた系統の違う痛みだ。それから……腕を喰われた時にも、同じような痛みがある。腕を喰われた痛みとは別に、頭の中に電撃が走ったような痛みがあるのだ。きっと、記憶を失ったことと何か関係があるのだろうが……それが何なのかは分からない。
「……本当、これがなかったら大惨事だったな」
俺が元々持っていたという、このステータスキー。これがなければ、俺は自分の名前も分からなかっただろう。記憶をなくす前の自分に感謝しなくてはならない。
……と、そんな風に考えごとをしていると、元来た道のほうから声が聞こえた。
「ソーマー!!」
「……この声……もしかしなくてもミレイか?」
ミレイの声だ。親父さんが村に連れ帰ったはずなんだが……ミレイのことだ。多分、無理言って突破したのだろう。困ったおてんば娘だ。
俺は重い腰を持ち上げ、声のしたほうへと歩き始めた。