プロローグ・上
ちゃぷちゃぷと、水の中を歩く音が聞こえる。その音はだんだんと遠ざかっていって、やがて聞こえなくなった。
聞こえなくなったのが、それが遠ざかったからなのか、はたまたこの耳がおかしくなったからなのか。今はどちらか分からない。
「ど……して……」
どうして。
「こ、な……とに……」
こんなことに。
平和だった日々が、穏やかだった日常が、遠い昔のことのように思える。どうして、こんなことになったのか。どこで道を間違えたのか。
——時を遡ること、三日。
文化祭を翌日に控えた今日。我らが二年四組の教室には、放課後にもかかわらず、明日の準備のため生徒が大勢居残っていた。
俺、三上奏真もその一人だった。
小道具担当だった俺は、他の担当者数名と、小道具の最終仕上げのために教室に残っていた。柄でもないし面倒だったが、やらないと他のクラスメイトから何を言われるか分かったもんじゃない。嫌々だ、嫌々。
早く帰りたいもんだとも思いながら、これを終わらせないと帰れないことも分かっていた俺は、黙々と手を進めていた。そんな俺の左耳を、どこからともなく飛んできた何かが、チリッと、ほんの少し掠めた。
「あっ、わりぃ! 大丈夫か、三上?」
それをやったのは、今回の劇で主役を担当する相沢。下の名前は……巧だったか。別に親しくもないから、覚えてない。顔も良くて勉強も運動もできる、そんなやつとは極力、関わりたくもない。
飛んできたのは、劇で使う小道具の剣……の代わりの、ラップの芯。剣戟のシーンで手からすっぽ抜けたのだろう。
「大丈夫。掠っただけだ」
「そうか、良かった。すまん」
俺は立ち上がってそれを拾い上げると、相沢に手渡す。ラップの芯で剣戟の練習というのもおかしな話だが、仕方ない。どこかの誰かさんが、小道具の剣を二つ壊してしまったのだから、急遽それっぽいもので代用するしかなかったのだ。
誰かさん、というのは、その剣戟のお相手、矢代健。喧嘩っ早い性格で、いつも『どこかの誰かと喧嘩した』、なんて噂が絶えない。
今回のこれも、力加減を誤ったからだろう。小道具の剣といっても、所詮は高校生クオリティ。材料はアルミ板とダンボールだ。力任せに振れば壊れるのも当然。
まあ、いい。新しく作ったものも、明日の公演でしか使わない。そこで壊される分には演出として言い張ることもできるだろうし、代えのものを今日中に用意できれば、問題ない。
それは分かっているが、壊したあとに謝罪の一言もなかったのが、微妙に心残りで、腹立つな……。
「三上くん、大丈夫ですか……?」
作業の続きを始めようと手を動かし始めた時、小声でそう話しかけてきたのは、同じ小道具担当の五條志織。クラスの中では俺と同じく、目立ちにくい部類の人間。俺は可愛いほうだと思ってるが、他の男子の評価はそうでもないらしい。髪型と眼鏡が原因だろうか。
「うん。別に、掠っただけだし」
「そうですか。なら良かったです」
そう言って、にこりと笑う五條さん。油断しているとこの笑顔にやられそうになる。やっぱり、可愛いほうだと思うんだが。
それを誤魔化すように、手を動かし始めた。赤面しているかもしれないが、気のせいだという方向性でいかせてもらう。
そうして、それから一時間ほどが経った頃だった。
壊れた剣の代わりは用意できて、他の小道具の仕上げも終わり、時間も時間だからと、今日はこれで切り上げようと立ち上がった——
——その時だ。
(……っ!?)
急に目の前が真っ白になり、ふらつく。思わず片膝をついて転ばないようにしたが、目眩のような感覚は消えて無くならない。
急に立ち上がったからか、それとも、集中していたから気付かなかっただけで、体調を崩していたのか。
だが、どうやらそのどちらでもない。なんとか視界を安定させようと周囲の様子を窺うと、他のクラスメイトたちも同じように苦しんでいた。俺だけじゃない。俺以外の皆も、同じ症状に苛まれている。
まさか、毒ガスか何か……? いやまさか、窓は開けているし、そんなはずは……。
徐々に、意識が遠のいていく。インフルエンザで高熱が出た時も、確か、こんな感覚だった。頭が真っ白になって、意識が遠のいて、そして、眠りに落ちるんだ。
(な、にが……)
何が何だか分からないまま……俺は、いや、恐らくこの場にいた全員は、気を失った。
次に目覚めた時、真っ先に目に飛び込んできたのは、誰かの背中だった。頬には冷たい感触。多分、教室の床だろう。
少し気怠い体を起こすと、その背中は五條さんのものだった。一足先に目が覚めて、座り込んでいたようだ。
……いや、待てよ。そんなことより、ここはどこだ?
俺たちはさっきまで四組の教室にいたはず。だから、目覚めても同じ四組の教室……もしくは、搬送されて病院のベッドの上にでもいなければおかしい。
なのに、ここは……どこだ。まるで、教会のような。
「五條、さん……?」
「っ、三上くんっ!?」
五條さんの背中に呼びかけると、ハッとなった彼女が振り返る。困惑した表情と潤んだ瞳。ここがどこだか分からない。そんな、俺と同じような感想を抱いているように見えた。
「ここは……?」
そう問いかけると、五條さんは首を横に振った。やはり、ここがどこであるかは分からないらしい。
だが、一つ確かなのは……祭壇のようなあの場所にいる大仰な格好をした連中が、何か知っているってことだ。
あの連中……何者だ? 神父のような男に、それから、大きな杖を持った女。ローブを纏った集団に、それに、真ん中の王冠を被った爺さんは……。
……一つ、心当たりがあった。だが、そんなことが現実に起こり得るはずがないと、勝手に否定していた。
(この状況……テレビの撮影であってくれよ……)
頼むから、テレビのドッキリ番組だと言ってくれ。でなければ、このあとに待つ言葉など、一つしかないではないか。
「皆様方……お目覚めかな」
真ん中にいた、王冠を被った爺さんが言った。重く、圧のある声だ。
「突然、このようなところに呼び出して申し訳ない。だがしかし、これも我らが人族のためだと理解していただきたい」
まだ、ドッキリだという可能性はある。そう言ってほしい。
爺さんの言葉に意を唱えたのは、クラスの中心人物、相沢だった。相沢は立ち上がると、一歩踏み出して言った。
「どういうことですか。ここは一体、どこなんですかっ!」
爺さんは至って冷静に、落ち着いてその言葉を聞いていた。そして再び、その重々しい口を開くのだ。
「ここは、あなた方のいた世界とは異なる世界。我らが、あなた方をこの世界にお呼びしたのだ」
最も聞きたくなかった言葉。爺さんはそれを口にした。
その言葉で、クラスメイトたちが一斉にざわつき始める。
『異世界ってことか……?』『テレビの企画だろ?』『見てみろよ。あの女の人、すっげぇ美人……』
などなど、ざわつき方は一定ではないが、大体が『驚き』を含むものだった。
ここは地球じゃない……異世界? そんなこと、現実にあり得るのだろうか。
いや……あり得ない、というわけではない。俺は宇宙人の存在を信じているが、宇宙人がいるとするなら、異世界の一つや二つもあっておかしくはない。おかしくはない、が。
「まずは皆様方、こちらへ。話は、食事でもしながらいたそう」
騒ぎ始めた俺たちを見て、爺さんは動いた。遅くまで作業をしていたクラスメイトたちは、『食事』の一言に気を許し、爺さんたち一行の後に付いていった。
俺も少し遅れて、その後を追う。
この世界には、大きく分けて四つの大陸がある。
他三つの大陸の中心の海に浮かぶ、最も小さな大陸。伝説上の存在、精霊たちが住まうとされ、その影響か、近付くことさえ敵わない、通称『神地』と呼ばれる大陸。
神地の西に位置し、人によく似た、けれども人ではない種族、『亜人族』たちが暮らす、四大陸で二番目に大きな『エレウッド大陸』。
神地の北に位置し、彼ら人族が暮らす最も巨大な『シールガン大陸』。
そして、神地の南東に位置し、『魔族』と呼ばれる者たちが住まう『ヴァーダー大陸』。
神地を除いた三つの大陸をまとめて『三大大陸』と呼び、神地を含めた四つの大陸を『メレニス』と呼ぶ。メレニス、というのがこの異世界の名前だ。
そこまでは理解した。そして、テレビの企画の一環などではない、ここが正真正銘の異世界であることも理解した。
「す、すごい……水が……」
隣に座る五條さんが、そう漏らした。
俺たちの目の前で、水が、宙に浮かんでいる。それだけではない。ローブを着た者たちの手の動きに合わせて、水が龍のように変化したり、はたまた球状になったり、そして最後にはコップの中に落ちる。
今度はどこからともなく炎が現れ、運ばれてくる肉たちを焼いていく。そういうパフォーマンスが、食事が始まるその瞬間まで続いた。
「どうですかな。中々、見応えのあるものでしょう」
そう言ったのは、あの爺さんではなく、あの場にいた神父のような男だった。
「皆様は、魔法の存在しない世界からやってきたと伺っております。ですので、これで信じていただけたかと」
あれはまさしく、パフォーマンスだったのだ。魔法の存在しない地球からやってきた俺たちに対するパフォーマンス。その甲斐あって、俺たちはここがテレビや悪戯の類ではない、正真正銘の異世界だということを理解したわけだ。
これで、さっきのパフォーマンスが地球の技術によるものだと言われたら、それはもう仕方ない。むしろ、それほど高度なドッキリにかけられたことを光栄に思うべきだろう。
クラスメイトたちは文化祭の準備をしていて、まだ夕食にありつけていない。途中でおやつを食べている生徒もいたが、大半の生徒は空腹状態にある。豪勢な食事を前にしては、もうそろそろ、我慢も限界だろう。
「ああ、申し訳ありません。皆様、ご自由にお召し上がりください」
神父のその一言で、一斉に食事にかぶりつくクラスメイトたち。この豪勢な食事を前に、遠慮は無用だと判断したのだろう。
俺は……なんだか、手が進まなかった。空腹であるのはもちろんなのだが、どうにも、この状況に身を委ねすぎるのは危険ではないかと考えてしまうのだ。
食事を始めて数分。空腹感が少し紛れてきたであろう頃、今度は、あの爺さんが声をあげた。多分、見た目からしてこの国の王様だろう。
「では皆様方。そろそろ、話を始めてもよろしいかな?」
大半の生徒はそんなこと聞いちゃいないが、耳を傾け、頷く生徒もちらほら。相沢や矢代、五條さんもそうだった。
「まずは、我ら人族が、皆様をメレニスにお呼びした理由……そこから説明いたそう」
そう言って爺さんは立ち上がると、そばにいたあの杖を持った女に目配せをした。
すると、女は手に持っていた大きな杖を掲げる。その杖の先端から青白い光のようなものが発せられ、俺たちの目の前の空間に、半透明なディスプレイのようなものが現れた。
「先程も話した通り、神地の南東にある『ヴァーダー大陸』には、魔族と呼ばれる者たちが暮らしている。彼らは遥か昔、この世界に現れた異形の存在、『悪魔』と『人族』との子孫であると言われている」
ディスプレイにヴァーダー大陸が映し出され、続いて翼や角を有した魔族たちの姿、そして、人からは乖離した異形の化物の姿が映し出される。最後の化け物が、悪魔、とやらだろう。
(……つまり、元は悪魔と人間のハーフ?)
悪魔、というのがどのような存在かは分からない。だが話を聞く限り、元からこの世界に存在したものではないようだ。俺たち同じように、メレニスの外の世界から来た者たちなのかもしれない。
その悪魔と人間のハーフ、それが魔族。もちろん、今生きているのが完全なハーフであるかと聞かれれば微妙なラインだが、元はそういったものなのだろう。
「彼ら魔族は、好戦的且つ強い支配欲を宿している。長きに渡り、エレウッド大陸に住まう亜人族と、シールガン大陸に住まう我ら人族は、メレニスを支配しようとしてきた魔族と戦ってきたのだ」
続き映し出されたのは、戦の光景。彼ら人族と亜人族が、魔族と戦う光景が見えた。
「魔族は悪魔の血を引いている。個々が強力な力を有しているが、その代わり、繁殖能力が低い。個体数が人族や亜人族に遠く及ばぬ故、我ら二種人族は手を取り合い、魔族との争いは均衡を保っていた」
しかし……と、王がその言葉を口にしたその瞬間、ディスプレイにヒビが生じた。
「……現れたのだ、魔族を導く者が」
ヒビは拡がり、ディスプレイが砕け散る。もちろん、演出だ。
砕けたディスプレイの向こう側には、もう一枚のディスプレイ。そこには、禍々しい気配を放つ、一つの人影があった。他の存在とは明らかに異なるその様相から、俺は、ある一つの言葉を連想した。
「それってもしかして……魔王、ってやつですか?」
その言葉を口にしたのはあら意外、相沢だった。そういった文化には疎いと思っていたが、少しは知識があるらしい。
相沢の言葉に、王は首を縦に振る。
「その通り。そのような者が現れ、均衡は崩れつつある。このままでは、我ら二種人族は滅びの道を辿ることになるだろう」
魔王が人族を、亜人族を蹂躙する姿が見える。今まで数と個々の能力で均衡を保っていた二つの陣営が、その均衡を凌駕するほどの力を持った魔王によって破壊される。二種人族は数の有利を失い、やがて滅ぶ。
「それ故、皆様方をお呼びしたのだ」
ディスプレイが消える。演説はここまでらしい。
その素晴らしい演説を聞いて、大半のクラスメイトが俯いていた。無理もない。突拍子もなく、現実味もない話だ。簡単に飲み込めと言われるほうが無茶な要求。
かく言う俺も、理解はできたが整理ができていなかった。要するに、俺たちは魔王を倒すための『勇者』ってやつだ。よくある話だが、いざそれが自分の身に降りかかるとなると、困惑して何も言えなくなるのが現実か。
それに……こういう話には『相場』というものがある。クラスの人気者が勇者に選ばれ、陰気な……俺みたいな人間は大した力にも恵まれず、見捨てられ、最後は……死ぬ。
決まっているんだ、そういう風に。だから、ここが異世界でないことを必死に願っていた。それも無駄だったわけだが。
そして、こういう時に初めに声をあげるやつも相場が決まっている。このクラスで一番の人気者、運動神経抜群で勉強もできて、それから顔も良い。そんなやつが声をあげるのだ。
「……俺たちに、何ができるんですか?」
ほうら。相沢巧が声をあげただろう。
* * *
食事を終えた俺たちは、再びあの教会に戻ってきた。ここは教会というよりも『祭儀場』に近いらしく、これから行うこともこの場所でしか行えないそうだ。道理で、協会にしては椅子も何もないと思った。
「ねえ、三上くん」
「ん?」
ここに来てから、五條さんは何故か、俺の後ろをついて回るようになった。クラスで誰かと仲良くしているところを見たこともないし、一人だと心細いのかもしれない。俺としては、可愛い五條さんが頼ってくれるのはありがたいところだが。
「私たち……どうなるんでしょう?」
「さあ……さっきの話が本当だとして、この中に何人、戦えそうなやつがいるんだって話だけど」
俺たちは今から、この祭儀場で力とやらを授かるんだそうだ。よくある話、ステータスとか、ジョブとか、スキルとか、そういったものだろう。だが、仮にそんなものがもらえたところで、その中で何人、戦いに使える能力を得られるのか。得たところで、そいつは本当に戦えるのか。
「でも、私たち、すごい力を授かる……んですよね?」
「力があっても、戦えるかどうかはその個人によると思うよ。五條さん、いきなりナイフ渡されて凶悪犯を退治しろって言われて、できる?」
五條さんは『ウッ』と仰け反り、言葉を失うと、俯きながら答えた。
「……無理、ですね……」
「でしょ? 多分、殆ど皆、そうだと思うよ」
喜んで戦いそうなのは……喧嘩っ早い矢代や、一部の気が荒いクラスメイトくらいだろう。あとは、吹っ切れたやつから戦えるようになるかもしれない。
俺は、どうだろう。
戦う相手が気持ち悪い化け物、たとえばゴブリンみたいなやつだったら、力があればやれるかもしれない。ただ、見た目が可愛い獣とか、人を相手にした時に同じように戦える自信はない。今後、慣れる可能性も否定はできないが。
「では皆様。心の準備はよろしいですかな?」
先程の神父、ベルティアールと名乗った男が、正面の祭壇のような場所でそう問いかけてくる。心の準備というと、何か痛いことでもされそうな気になるが、そうではない。単に、力を授かる準備はできたか、という問いである。
「先程も申し上げた通り、皆様は既にその内に力を授かっている。しかし、それはまだ種の段階。わたくし共の手で水をやらねば、芽は出ないのです」
そう言って、神父の合図を皮切りに、並んでいたローブを纏った男、女たちと、それからあの杖を持った女が空に光を放つ。
その光はやがて粒子となって、きらきらと、俺たちの頭上から降り注いできた。すると、どうだろうか。奇妙な現象で、俺たちの体が、その光の粒子を吸収し始めたのだ。
これが……『魔力』っていうやつ、なのだろうか。
ベルティアールという男曰く、力を授けると言っても、力そのものを彼らが授けるのではないそうだ。力自体は、俺たちがこの世界に来た段階で授かっている。
だがしかし、それは植物で言えば種、生き物で言えば卵の状態であり、それを成長させるために外部から刺激を与えてやらねばならない。
それが、この儀式。儀式……なのかどうかも怪しいし、この場所で行う必要性も分からないが、そうらしい。
あそこに並んでいるのは、国お抱えの魔法使いたち。杖を持っているのは、シールガン大陸最大の国であるここ、キベリスク王国の第一王女、アーティア・キベリスク。まさかの王女様だったわけだ。アーティア王女は王女でありながら優れた魔法使いであり、次期国王となるための修行の一環として、俺たちの世話を担うことになったそうだ。
話は逸れたが、それだけの魔法使いたちが放ったあの光が、地球にはない力、魔力。魔法の根源たる力で、人間の内にある生命・精神エネルギーと言い換えてもいい。枯渇するほどに使えば、命を失うか廃人と化す。人間にとっては諸刃の剣ともなる力だ。
その魔力……それも、国お抱えの凄腕魔法使いたちが放った高濃度の魔力を浴びることで、俺たちの授かった力とやらは、漸く開花する。いや、先程の話で言えば、『芽吹く』程度だろうか。
確かに、光を吸収した瞬間、体の奥深くから漲ってくる何かを感じる。エナジードリンクを大量に飲んだあとのような感覚だ。それとは比較にならないほどの力を感じるが。
「……?」
しかし、奇妙な感覚がある。力を感じるのは確かだが、どこか、それに鍵がかかったような……どこかで突っ掛かったような、そんな感覚があるのだ。
まだ力を解放する肉体ができていない、ということなのか。なんだか胸の中がもやもやとして気持ち悪い。
儀式が終わると、ベルティアールは俺たちに拍手を送った。それがなんの拍手であるかが分からず、首を傾げる。
「素晴らしい! あれほどの量の魔力を放ったにもかかわらず、空間の残存魔力がほぼゼロに等しいとは……いやはや、勇者様というのは本当に素晴らしい」
何を言っているのかはよく分からないが……多分、常人では到底吸収しきれない量の魔力を、ほぼ全て吸収した勇者は凄い、ということだろう。
ともあれ、これで授かった力とやらは芽吹いたのだろう。だが、それを確認する術が分からない。肉体も強化されている感覚はあるが、感覚だけだ。
「皆様方、これではまだ実感が湧かないでしょう。そこで、わたくし共で用意したものがございます」
ベルティアールが指を鳴らすと、同じような服を着た男が二人、現れた。その手にはそれぞれ一つずつ、アタッシュケースのような木箱があり、男たちは俺たちの目の前でそれを開けた。
中に入っていたのは……人差し指一本分くらいの大きさの筒だった。それが、ここにいる全員分。小さなボールペンのようにも見えるが、まさかボールペンではないだろう。
「これは『ステータスキー』と呼ばれる魔道具の一つでございます。キーに溝が入っているのが分かりますでしょうか。その溝を合わせるようにして、回してみてください」
言われた通りに回すと、カチリ、と音が鳴って、溝が一つに繋がる。すると、その溝から、食事の時に見たような半透明なディスプレイが現れた。
なるほど、ステータスキー。ステータスを表示する鍵、ね。
そのディスプレイには何やら色々と情報が書いてあった。恐らく、俺の現段階での能力値というやつだ。
三上奏真
レベル1
職業:異世界人
筋力:50
魔力:40
素早さ:50
精神力:400
幸運:30
スキル:???
(……これは、どうなんだ?)
能力値の平均が分からないから、これが高いのか低いのかも分からない。だが、一つだけ言えるのは……あまり芳しくない結果だということだ。
職業が、単なる異世界人。それに、スキルが不明。他のクラスメイトの欄がどうなっているのかは分からないが、まあ、展開的に言えばこれが『最底辺』なのだろう。
「皆様、ご自身のステータスは確認されましたかな。今から一人ずつ確認していきます故、ステータスキーはそのままでお願いいたします」
そう言って、ベルティアールは一人ずつ、クラスメイトのステータスを確認して回った。
どうやら、この世界における戦闘職……狩りをする成人男性のステータス平均値は、およそ80。国の下級騎士でおよそ100。この国の騎士団長クラスとなると、ステータスはおよそ500前後。
クラスメイトたちのステータスは、大体が150超。まだレベルが1だから、これから成長することを加味すれば、かなり高い値らしい。
つまるところ……俺のステータスは、ぶっちぎりの最底辺。この世界の猟師よりも弱く、とても異世界人とは思えないようなものだった。
ただ、精神力、というステータスだけが異常な高さを誇っているのが気になる。これが何かしら、戦闘に影響があれば良いのだが、期待はできないだろう。
それに加え、職業。やはり、俺以外のクラスメイトには異世界人という肩書以外にも何かしらの職業が記されていた。戦士や剣士、属性魔法使いや回復魔法使い。肩書きが異世界人だけ、という生徒も一人二人はいたが、スキルが有用で、俺とは大違いだった。
そして、何より……。
「おおっ、これは……やはり、貴方様が勇者でしたか」
「俺が……」
相沢、巧。直接奴のステータスを見たわけではないが、どうやら全能力値が200超、素早さに関しては250を超えているらしい。
それに、職業が……『半・勇者』。半人前の勇者、ってところか。
やっぱり、か。ああいう男が見せ場をかっさらっていくのはよくある話だが、やはりかという気持ちが強すぎて面白くもない。
そして、俺の番。俺のステータスを見たベルティアールは少々苦い顔をした。
「……大丈夫ですぞ。決して低い値ではない。これからの伸び代に期待ですな」
「はあ……」
とりあえず、返事だけはしておいた。素直に役に立たないとでも言えばいいだろうに。言えないなら言えないで、そんな顔をするなと言いたい。
次は、五條さん。俺もまだ見せてもらっていないが、そういえば、先程からやけに静かだ、そんなに悲観的な数値だったのだろうか。
ベルティアールが五條さんのステータスキーを見る。そして、何やら奇声を発した。
「これ、はっ! 貴方様も勇者ですとっ!?」
……なに?
聞き間違いだろうか。今この男は、五条さんの能力を見て、勇者、だと言ったのだ。
「そ、そんな……何かの間違い、です……」
「ステータスキーに間違いはありません。いやはや、しかしこの能力値……素晴らしいですな。まさか、勇者様が二人もおられるとは……」
ちらりと横から覗くと、そのステータス値は相沢には少し劣るものの、他のクラスメイトと比べると圧倒的なものだった。特に精神力と幸運が……300超え?
五條さんの職業にも、相沢と同じく、『半・勇者』と書かれていた。やはり半人前ということなのだろう。何かきっかけがあれば、これが『勇者』という肩書に変化するのかもしれない。
全員のステータスを確認し終えたベルティアールは祭壇に戻り、何やら嬉しそうに語る。
「勇者様がお二人……これで、我ら人族の未来は明るい……皆様、そして勇者様。どうか、この世界を、お願いいたします」
対して、五條さんの表情は暗いものだった。自分が勇者だという事実が、まだ受け入れられないのだろう。荷が重いのかもしれない。
相沢は……ウカれたものだ。矢代やその他取り巻きと一緒に、あーだこーだと盛り上がっている。向こうは向こうで、勝手になんとかしてくれるだろう。
「では皆様方。此度の儀式はこれにて終了。お部屋に案内いたします」
祭儀場から立ち去ろうとするベルティアール。しかし、どうにもその横顔が気になって仕方がない。
(……笑ってる? けど、あの笑い方は……)
最初は、本来一人のはずの勇者が二人もいて、喜んでいるのだと思った。だが、それにしては……ほくそ笑んでいるような、『黒い笑い』だった。
(……気のせいか?)
笑うのが下手なだけなのかもしれない。そう思うことにして、いまだ沈む五條さんを連れ、クラスメイトの列に続いた。
* * *
客室は豪華なものだった。文化祭の準備をサボった数名がいるとはいえ、それでも三十五人はいる。その一人一人に個室が与えられているのだ。どれだけ大きな城なんだと、逆に文句も言ってしまいそうになる。
今日はもう遅い。そこは地球と同じなのか、空には月が昇っていて、世界を薄暗く照らしている。明日から朝が早い。寝ようか寝まいか、少し微妙な時間だ。
眠気は……無いこともない。ただ、それよりも気になることが多すぎて、思うように寝付けなかった。
「あの笑い方……やっぱり、気になるな」
ベルティアールという男の、あの最後の笑み。気のせいだと思いたかったが、どうにも引っかかる。
あの笑い方……勇者が二人いて喜んでいる、というよりは、何というか、『自分の思う通りに事が進んでいることを』喜んでいるような……そんな笑みに感じた。
たとえば、魔族側のスパイ……でも、それだと勇者が二人いて喜ぶのはおかしい。焦って早々に始末しようとするはずだ。
……考えても分からない。直接確認したかったが、自分の身に何が起きるか分かったものじゃない。大人しくしているのが吉、か。
(……少し確かめるくらいなら)
何もないならそれでいい。ただそれを確かめるだけだ。他意はない。
部屋の扉に手をかけ、音を立てぬよう、慎重に外に出る。色々あって疲れているだろうし、クラスメイトはもう寝ているだろう。仮に出くわしたところで、適当な理由をつけてかわせばよい。問題は、クラスメイト以外、メレニスの人間だ。
特に信用できないのは、あのベルティアールという男。あの男にだけは接触しないように気を付けないと。
(バレたら何されるか分からんなあ……)
単に怒られるだけか、秘密裏に殺されるか。考えるだけでゾッとするし、できれば考えたくはない。だが、見て見ぬ振りをしてのうのうと過ごすのも、それはそれで恐ろしいものだ。
俺たちの部屋が用意されていたのは、城の中でも客人向けの居住スペースにあたる、離れの部分。王や城の中で権力を持つ人間たちは、城の本体、あの祭儀場があったのと同じ建物にいる。離れから本城へ向かうには一度外を介する必要があるから、まず注意しないといけないのはそこだ。
(……おっと)
話し声が聞こえて、咄嗟に物陰に隠れる。その奥の通路を、騎士の格好をした男二人が歩き去っていった。
この時間の離れとはいえ、騎士の巡回はある。俺たちを守るためなのか、それとも監視のためなのかは分からないが、あの巡回の騎士に見つかっては面倒だ。一度くらいはなんとか誤魔化せても、二度目以降は怪しまれる。
騎士たちの巡回ルートに気を付けながら、離れを一階まで下り、柱の陰から正面の入り口を見る。
警備の騎士が二人……正面からは出られない。
「困ったな……出入りはあそこからしかできないってのに……」
いわゆる『裏口』のようなものは存在しないと、ベルティアールは言っていた。これだけ大きな城なのだから、隠し通路の一つや二つあってもおかしくはないのだが……。
(……くそ、また巡回の騎士かっ……)
向かいの通路から、違う騎士が巡回でやってきた。このままでは見つかってしまう。
……仕方ない。今日は諦めて、明日以降、なんとか本城に忍び込む方法を探そう。
俺は来た道を戻るように、部屋に帰った。