翕然主 漆
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曙光の暖かさを目蓋に感じる。凜華はゆっくりと目を開けかけ、慌てて手で庇を作った。
掛け布団代わりにした白衣の下で、凜華は軽く身じろいだ。両腕と両脚でかかえ込んでいた幽明の太刀を、愛おしげにもう一度だきしめる。
意識が目覚めていき、凜華は悲しげに目を細めた。
ゆっくりと上半身を起こす。白衣が滑り落ち、寝乱れた長襦袢から肩が露わになった。一緒にだき起こす形になった幽明の太刀を、そっと傍らにおく。
「現は、まだ夢か……」
凜華は片脚を立てて釣り合いをとると、軽く額に手をあてた。裳裾からはみ出た健康的な太腿を、朝の冷たい空気がひやりとなでる。
ややあって立ちあがると、凜華は乱れた胸元と裾をなおした。
手際よく身支度を整え、寝屋を後にする。
まずは水の確保だ。村人たちに見咎められないうちに、凜華は村長の処で見た井戸から水を汲んだ。念のために、呪で水を浄化しておく。
一口、水を口に含む。うまいとは言えないが、人に水は必要だ。
これで、肝心な妖魅との戦いのときに身体が弱っているということは最低限防げるだろう。
凜華は、村人に見つかる前に村を出発するつもりだった。だが、幽明の太刀で村境の結界を切り開いたとき、自分を見つめる微かな視線を感じた。
誰かが監視しているらしい。
「御苦労なことだな」
こんな調子では、やりきれない。
だが、村人たちは、妖魅のいる山に凜華が出ていくことを止める気はないらしい。本当に凜華を心配しているのであれば、身を挺してでも止めに入るはずだ。
凜華は、さっさと翕然主を探すべく山を歩き始めた。
思いの外、山は広い。山境の結界の中だけとはいえ、さすがに一日ですべてを調べて回ることはできそうになかった。
相変わらず妖氣は山全体に立ち籠め、翕然主の居場所を特定させてはくれない。それどころか、相手が動き回っている可能性もある。せめて、何か痕跡を見つけだすことができれば、棲み処を特定できるかもしれないのだが。
日が落ちる前に、凜華は拠点とした村に戻ってくるようにした。最初に村に入った日と同じように、物陰から村人たちの視線が凜華に集中する。けれども、彼らは凜華と接しようとはしなかった。
まるで臆病な看守のようだ。
事実、村人たちは自らの猜疑心と村長の命令で、凜華を監視しているのだろう。
村境の結界を切り開いては修繕し、妖魅の居場所を求めて山を探索しては、夕刻までにまた結界を開いて閉じて村に戻ってくる。そんな日が三日ほど続いた。
毎回無事に戻ってくる凜華を見て、村の者たちは驚いているようだった。おそらくは、結界の外へ出ていく者については、体のいい生け贄程度にしか考えていなかったのだろう。
翕然主の飢えを満たさなければ、この村とて絶対に安全な場所ではない。ここを護る結界は強力なものだが、完全ということはありえないのだから。
そのことは、村人たちもうすうすは感じとっているだろう。だからこそ、自分たちのしきたりに従わない余所者は、唯一の利用法に使ってきたのかもしれない。放置しておけば、自滅して村の役にたってくれるというわけだ。
ともあれ、村を囲む結界は思いの外に広く、中でいくらかの獣や木の実がとれるようではあった。畑もあり、一応自給自足ができているようには見える。この牢獄で暮らすことを受け入れるのであれば、すぐに飢えて死ぬということはなさそうだ。
だが、こんな閉鎖した世界で人々が長く生きていけるはずがない。山全体であれば多くの人々をも養えたであろうが、今の状態では無理だ。いつかは食べ物が尽きてしまうだろう。あるいは、先にそれを食べる人間がいなくなってしまうかだ。
のんびりとしてはいられないが、どうにも手がかりがなかった。
妖氣を辿ろうにも、翕然主の妖氣を特定することができない。わずかに捉えられた妖氣は、巧みに逃げ回っているらしい大蝦蟇の痕跡ぐらいであった。どうも、村の結界の周囲で翕然主から逃げ回っているらしい。何かを企んでいるようにも思えるが、翕然主への寄せ餌になればいいと、凜華はそれを放置した。
大蝦蟇を圧倒するほどの妖魅であるのだから、翕然主の放つ妖氣は大蝦蟇を凌駕するもののはずだ。だが、この山に漂う妖氣自体が非常に不安定で、それと分かるほどの妖氣の偏りは見つけだせないでいた。
『こうなったら、村人を脅してでも、妖魅のいそうな処を教えてもらうしかないな』
「それは、最後の手段だ。脅さずとも、彼らから話してくれればそれにこしたことはない」
そう答えつつも、凜華も今のままでは進展がないことを熟知はしていた。
夕刻が迫り、村に戻ってきた凜華は、幽明の太刀で結界に切れ目を入れた。
そのまま中に入ろうとしたとき、彼女の前にあの男の子が立ちはだかった。
「なんの用かな」
幽明の太刀を鞘に収めると、凜華は大人の余裕を見せて子供に訊ねた。
「お前、自由にお山を歩けるのか?」
「無論」
自信をもって凜華は答えた。もちろん、それは事実だ。
「じゃ、本当に狩籠師なんだ。だったら、蘇芳様のこと知らないか」
その言葉にぱっと面を明るくした男の子が、凜華に駆け寄ってきて訊ねた。
いきなり結界から飛び出してきてだきつかれたので、凜華はちょっと面食らった。
「それは、翕然主を召喚した狩籠師の名だったかな。ああ、ようやく思い出したぞ。だが、すべての狩籠師が――、むっ、離れろ、小僧!」
困り顔で言いかけた凜華であったが、突然妖氣を感じて叫んだ。即座に子供を結界の中へと突き飛ばす。
「我、求むるは、顕現の相。暗冥にあっては、燦。光輝をもって、形影となす!」
慄然と、凜華は言霊とともに呪符を掲げた。呪符がゆらめいたかと思う間もなく、白い炎が呪符をつつみ込んだ。その強い輝きに照らされて、凜華の前に妖魅の姿が浮かびあがる。
行方知れずとなっていた茶の大蝦蟇だ。
だが、様子が少し変だ。大蝦蟇の足下の大地が不自然に脈打っている。
「現れたか」
足下から現れた翕然主の触手に、大蝦蟇が大きく跳躍して逃れた。そのむかう先は、凜華、いや、彼女の背後に開いた結界の切れ目だ。おそらくは、結界を出入りする凜華を見つけて、翕然主から逃れるために結界の中へ逃げ込もうと思っていたのだろう。
「うわ!」
ちょうど結界の綻びのそばにいた子供が、頭上から迫る大蝦蟇に悲鳴をあげた。
「静を斬り、風をば結ぶ!」
凜華は素早く重心を下げて大地を踏まえると、溜めていた氣と共に腰撓めにした幽明の太刀を抜き放った。
圧縮された氣と共に、突風が生まれる。
それは見えない斬撃となって、空中で大蝦蟇の後ろ足を一本切り裂いた。衝撃を受けた大蝦蟇の身体がゆらぎ、綻びのない結界の壁にぶつかって弾き返された。
そして、大地から翕然主が姿を現す。それは、無数の蔓草が触手のようにうねり絡まり、大蛇のような姿を仮作っていた。
大地に転がってもがく大蝦蟇に、翕然主の触手たちが殺到した。切り落とされた足をも一瞬にして呑み込み、毒液を放つ大蝦蟇をものともせずに絡め取る。あっという間に、大蝦蟇は無数の触手に絡みつかれた繭玉のようになってしまった。
翕然主が、巨大な薇の芽がのびあがるように、大蝦蟇を潰してつつんだ触手の束を高く持ちあげた。
「今だ。大地より引きずり出す!」
凜華は走った。
大蝦蟇を持ちあげた触手の束にむかって太刀を一閃させる。だが、直前に多数の触手が大地から飛び出して盾となった。それをものともせず、凜華は触手の束をすべて断ち切った。
大木が倒れるようにして、大蝦蟇をつつみ込んだ触手の束が地面に転がる。大地そのものが波打つ。新たに地面から飛び出した触手たちが、落ちた繭を被った。
あたかも水中に没するかのように、触手が大蝦蟇を大地に引き込んで消える。まるで山そのものが、大蝦蟇を一呑みに喰らったかのようだ。
だが、翕然主は、今回はそれでは満足しなかったらしい。
地中より現れて地面を広く覆った触手の群れが、捻れて縒り合わさり、再び蛇のような姿に擬態して凜華に襲いかかってきた。