第肆章 御魂鏡 陸
「あなたも早く」
岩の上に立って、青陵は蘇芳に呼びかけた。
無数の風を妖狼たちにむけて放つと、蘇芳が岩の方に戻ってくる。
『古杣よ!』
肆眸子が叫んだ。
『おうよ』
何処からともなく野太い男の声だけが響き、突然大木がその場に現れた。
『倒れるぞぉ』
古杣の声と共に、大木が蘇芳たちの方にむかって倒れてきた。
「轟然!」
間一髪、青陵は衝撃波を放った。
大木が、粉々になって吹き飛んだ。
古杣は、死んだ木樵の霊が妖魅と化したものだ。普段は木を切り倒す幻を見せて人を脅かす者だが、今倒れてきた木は実体を伴っている。
『倒れるぞぉ。倒れるぞぉ』
再び古杣が叫んだ。
また忽然と現れた数本の大木が、青陵たちめがけて倒れてくる。
「轟然!」
「風舞!」
青陵と蘇芳が、同時に術を放った。
倒れかかってきた大木が、衝撃と疾風に砕かれ切り裂かれた。青陵が砕いた木片は後ろへとすべて飛ばされたものの、蘇芳の切り裂いた木片は一部が彼女めがけて降り注いだ。
「輝盾!」
蘇芳が、呪符を持った左手を前に突き出した。
彼女の前面に光の盾が現れる。
省略された言霊では効果は限られるものの、細かな木片を阻むぐらいの力は充分にある。
だが、彼女にむかってきたのは木片だけではなかった。
唸り声をあげて、肆眸子が蘇芳に躍りかかった。おそらく、倒木の陰に隠れていたのだろう。
「風……」
慌てて扇を返そうとするが間に合わない。
光の盾を切り裂いた肆眸子の爪が、蘇芳の左の二の腕をざっくりと切り裂いた。千早と白衣が裂け、みるみる血に染まっていく。
着地と同時に素早い足捌きで後ろに回った肆眸子が、蘇芳の首にむかって飛びかかろうとした。振りむく暇もないと思われたとき、身を捻った肆眸子が蘇芳の身体をかすめるようにして通り過ぎた。千早の一部が、肆眸子の身体の炎に触れてわずかに焦げる。
一瞬の判断で逃れた肆眸子がいた蘇芳の後ろの大地を、紙垂がピシリと叩いた。獲物を逃した悔しさを表すように、宙に跳ね上がって波打つ。
『小癪な。小さき狩籠師め』
千載一遇の機会を阻まれた肆眸子が、大幣を振るう青陵を四つの眼で睨みつけながら唸った。
「早くこちらへ」
青陵は、蘇芳にむかって叫んだ。左腕をだらりと下げたまま、蘇芳が岩を上る。
「我、求むるは悪しきの調伏。妖魅にあっては、封。縛鎖をもって、玉となす!」
青陵は、大幣を振って紙垂を宙に舞わせた。
『古杣!』
肆眸子が、命じた。また古杣の大木が現れる。
「そうはさせない」
青陵の操る紙垂が、倒れる前の大木に絡みついた。大木に縛りつけられるようにして、人らしき姿の者が紙垂に捕らわれて悲鳴をあげた。その肌は、樹皮に似て茶色く罅割れている。髪は蔓草そのもので、目の位置にはぽっかりと眼窩のような空が空いているだけであった。
姿を消していた古杣の真の姿だ。
「封玉!」
青陵の声と共に、大木が消える。紙垂の先端がクイと跳ね上がったかと思うと、黄色い玉となった古杣を青陵の手へと飛ばした。
「こい、肆眸子よ!」
青陵は、大音声で肆眸子を挑発した。
互いの間を埋めるほどに長くのびて宙を舞う紙垂を見て、肆眸子が後退った。
『退け』
生き残った妖狼たちに命じると、肆眸子が逃げていく。
青陵たちは、ほっと胸をなで下ろした。
「蘇芳様、お怪我を」
蘇芳の腕を見て、鈍が慌てた。
傷は、思ったよりも酷いらしい。
「大事ありません。とにかく、社に戻りましょう。ここでは、動きがとれません」
そう言って歩きだす蘇芳に、鈍と青陵は従うしかなかった。ここで言い合っても、傷の手当てが遅くなるだけだ。
ちょっと進んだ処に、蘇芳の言った社があった。
ごく最近に補修したような跡が随所に見られるが、全体的には痛みが激しい。明らかに何かによってつけられたような傷が多いのは、先ほどのような妖魅との戦いがここで行われたせいであろうか。
「治療をいたしましょう。傷を見せてはいただけませんか」
社の中に入るなり、座り込んだ蘇芳に青陵は言った。
青陵は、持っていた大幣を立てて床においた。突き刺しもしないのに、大幣はささえもなく垂直に立ち、短くなった紙垂をだらりと床に垂らしていた。
「鈍は、むこうをむいていて」
蘇芳の着物を脱がそうとして、青陵はそばにいた鈍にむかって叫んだ。
「あ、ああ」
顔を赤らめて、鈍が慌てて後ろをむく。
「申し訳ありません」
千早を脱がす青陵に、蘇芳が素直に感謝した。左手が動かず、一人で服を脱ぐことが困難だったからだ。
「これは……」
白衣を脱がした青陵は、蘇芳の身体を見て驚いた。
女盛りを少し過ぎようとしていた蘇芳であるが、肌はまだ張りもよく乳房も豊かではあったが、その肌には大小無数の傷が残っていた。
「気にしないで。古傷だから」
そうは言うが、見るからに新しい傷も多かった。
「我、求むるは生なる息吹。弱きところにあっては、活。慈愛をもって、活力となす」
青陵は、蘇芳の左腕の傷に左手をかざすと、右手で持った呪符を重ねた。
仄かな光が生まれ、蘇芳の裂傷にその粒子が吸い込まれて傷を塞いでいく。
それがしばらく続いた後、青陵は深く息を吐いて蘇芳の傷の上から手をどけた。
「これは……。あなたは、強き力をおもちのようですね」
青陵の治療してくれた腕を見て、蘇芳が感嘆の声をあげた。蘇芳自身が以前治療したものとくらべて、青陵が治してくれたものは傷跡が残ってはいなかったのだ。
「よろしければ、他の傷も診てさしあげたいのですが」
「いいえ、それには及びません」
蘇芳が青陵の申し出をやんわりと断った。そそくさと白衣を着て肌を隠す。
「鈍、もういいわよ」
「は、はい。蘇芳様」
ちらちらと後ろを気にしていた鈍が、ぴんと背筋をのばして答えた。