第肆章 御魂鏡(みたまかがみ) 壱
「我、求むるは静穏なる眠り。閑地にあっては、浄。祈祷をもちて、修祓となす」
青陵は、長かった加持祈祷を締めくくった。
周囲に満ちていた瘴氣が、やっとほとんど感じられないほどになる。
「ありがとうございます。これで、この村も救われます」
数人の男女が、深々と青陵に頭を下げて礼を言った。
「いいえ。悪しき氣は祓いましたけれども、これからこの村を再興するのはあなた方のお力です。大変でしょうが、どうか頑張ってください」
青陵は、両手を合わせて礼を返した。
この場所は、かつて小さな村があった場所だ。けれども、その日村を離れていた数人をのぞいて、すべて恐ろしい妖魅に滅ぼされてしまった。
それらは二匹の化け蛙の妖魅で、恐ろしい毒を撒き散らし、倒れた村人たちをすべてむさぼり食ったということだ。
その毒のせいで、妖魅が去った後でも、この村は人が住めない場所と変わり果ててしまっていた。生き残った人々は隣村に身を寄せていたが、たまさか通りかかった青陵を見つけて、土地を清めてくれるように頼んだのだった。
「これで、また隣村が生まれます。村長としては、本当に助かりました。なにしろ、このあたりの領主様がまた替わったので、新しい領主様が自国から新しい農民をたくさん連れてくるという話でしたので。どうにかして土地を提供しなければならなかったものですから」
夕餉の席で、村長がほっとしたように青陵に言った。村長の人あたりの良い人柄に加えて、狩籠師としての青陵の力を見ているため、まだ子供である青陵に対してもとても丁寧な対応をしてくれている。
「それは、急な話だったのですか」
興味をもって、青陵は訊ねた。
「いえ、この前までこのあたりを治めていた領主様が病気で亡くなられまして。その機を逃さず、隣国が攻めてきたというわけです」
「戦ですか。それは大変だったでしょう」
ちょっと驚いて青陵は言った。
今の御時世、豪族同士の陣取り合戦は珍しくはないが、それにしては、このあたりの土地には古い合戦の跡はあっても、真新しいものはない。いたって平和だ。
言ってしまえば、ここ数日青陵が通っている廃村こそが異常であるのだが、これは妖魅の仕業だとみんなが明言している。事実、普通の合戦でその場所に怨念や亡霊が残ることはあっても、はっきり妖魅のものと分かる瘴氣が残ることは稀であった。
「いえいえ、それが跡取りもいなかったものですから、あっけなく屋敷を明け渡したそうですよ。戦にすらならなかったそうです。それに、新しい領主様は知恵の回るお方で、以前のような力ずくで物事を進めるお方ではありませんでしたから。農民の移住も、今ある村を占領するのではなく、新たな農地を増やして作物を作るのが目的だとか」
「それは、よかった……ということなのでしょうか」
言い切ってしまっていいものかちょっと迷いながら、青陵は村長に言った。領主がより良い人に変わるのであればいいことではあるのだろうが、結局は国盗りの戦いの一環であることに違いはないのだから。
「ええ。戦いが起きないなら、私たち農民としてはそれにこしたことはありませんから。けれども、まあ、変な噂もあるにはございまして」
「どのような噂なのですか」
青陵は、村長に訊ねた。
「前の領主様ですが、妖魅に取り殺されたという噂があるのですよ」
少し声を潜めて村長が言った。
「それは、あの村を滅ぼしたという二匹の蝦蟇の妖魅なのでしょうか」
「いえ、それでしたら、お屋敷の方も毒にやられて大変なことになっていたはずです。けれども、そういう話は聞きませんし、今はお屋敷の方には新しい領主様の配下の方が住んでおりますから。きっと、また別の妖魅だったのでしょう。人によっては、殺された領主様と敵対していたこの地の豪族の亡霊が取り殺したなどと、まこと密やかに言う者もいるようです。それで、お屋敷にいた生き残りの武士たちがすっかり怯えてしまって、今の領主様が進軍を始めたとたんに降伏、いやいや、助けを求めたというもっぱらの噂です」
「噂では、確かめない限り真相は分からないでしょうね。それにしても、このあたりには、人に害をなす妖魅がそんなにたくさんいるのですか」
そうであれば、狩籠師として放ってはおけないと青陵は言った。
「そうですね。いるとも言えますし、いないとも言えます」
なぜか、曖昧に村長は答えた。
「昔からこの土地に住んでいたという妖魅の話はほとんどないのです。けれども、ここ数年に限って言えば、多くの妖魅が目撃されています。ただ、その妖魅は余所からやってきてどこかへいく途中らしく、同じ妖魅を二度見たという話は恐ろしく少ないのです」
「それは、確かに奇妙な話ですね」
「ええ、まるで、このあたりの土地が、妖魅の通り道の上にあるのではないかと思えます。たいていは、夜にばったりと妖魅と出くわしてしまって、驚いて逃げ帰ってくるというものなのですが、稀に、あの大蝦蟇のような恐ろしい妖魅もおりますので、私どもの心配事も尽きないといった具合です」
「それは、あまり放置してはおけない話のような気もいたしますが。けれども、妖魅たちがどちらからきてどちらへむかっているのかちゃんと調べないことには……。お話によると、ずいぶん昔からそのようなことが起きているようですが、私以外の狩籠師が調べたことはないのでしょうか」
「もちろんございますとも」
村長は即答した。
「何人かの狩籠師や高僧の方が、現れた妖魅を追っていかれました。その方々の消息は、その後は分かってはおりません」
「それは……」
妖魅に返り討ちに遭ってしまったのだとしたら、ゆゆしき問題だと言いかけて、青陵は言葉を切った。村長もそれは想像しているだろうし、ここであまり不安を煽ってもしようがない。
「ああ、でも、お一方だけ、再びお会いした狩籠師の方がおられます。蘇芳様と名乗られた巫女様で、しばらく前に、この村に立ち寄っていかれました。きっと、他にも、単にこの村に戻ってこなかっただけの方もいらしたのかもしれません」
「その狩籠師殿は、なぜこの村にまた寄ったのでしょう。妖魅たちのことを、あなた方に教えに戻ったのでしょうか」
「さあ。詳しいことは、何も語ってはくれませんでしたから。ただ、これから、お山に戻るからと。それから、そのお山から人がやってこない限り、その場所には立ち入ってはならぬとだけ申しておりました。はっきりとは言ってくださりませんでしたが、おそらくは、ここの近くにあるお山に妖魅たちの巣があるのかもしれません」
「山ですか。それは、霊山か何かなのですか。それとも、昔から妖魅たちの巣くう禁忌の地なのでしょうか」
多くを語らずに注意だけを促したと言うことは、村人たちにはとうてい理解できないか、あまりに手に余ることが起きているのだろう。
「はて。今ではどちらとも言いかねる、あるいは後者でございましょうか。昔は、願いを叶えてくれる神社が隠されていると言われていまして、稀に願かけに訪れる者もおりました。けれども、いつからか戻ってくる者がいなくなり、今では訪れる者もおりません」
「それも妖魅のせいなのでしょうか。姿を消したという蝦蟇の妖魅も、そこに逃げ込んでいるとしたら、やはり放ってはおけません」
「その妖魅は、狩籠師様が追っていかれたと聞いておりますが……」
「先ほどの、蘇芳殿ですか?」
村長の言葉に名前の出てきた狩籠師を思い出して、青陵は訊ねた。
大蝦蟇の妖魅の生死は、分かっていないらしい。その狩籠師が倒してくれていればいいが、そうでなければ、また里に下りてきて村々を襲うかもしれない。
「いいえ、別の狩籠師様だそうです。なんでも、女子なのに、たいそう立派な太刀をお持ちの方だったとか」
「太刀ですか。その狩籠師殿について、詳しく知る方はおられませんか」
青陵は、身を乗り出して村長に聞いた。青陵の探している太刀は、妖魅を求めるらしい。妖魅の出る地に現れても不思議ではない。いや、むしろ妖魅を求めて、そのような地にこそ現れるだろう。そして、それに操られる人間も、市井の者よりは妖魅に通じている者の方が都合がいいと思える。
「いえ、直接会った者は、妖魔の襲撃で命を落とすか逃げだすかしたものですから。今この村にはおりません。私の話も、伝聞なのですから。それを話してくれた者は、妖魅が村に現れた後に村に戻ってきたということで、かろうじてその狩籠師様に助けられて逃げてきたそうです。ですが、わずかですが瘴氣を吸い込んでしまったらしく、町の医者にかかるべくこの村を出ていきました」
「それで、その狩籠師は、女であること以外に何か分からないのでしょうか。名前とか、容姿とか」
手がかりを求めて、青陵は村長に訊ねた。
「それはなんとも……。私に話してくれた男を町で捜し出せば分かるかもしれませんが」
村長の話に、青陵は決断を迫られた。件の狩籠師がむかったという山へとむかうか、狩籠師のことを詳しく聞くために町へいくか。
「分かりました。逃げた妖魅のこともありますから、その山へいって確かめてこようと思います」
青陵は、決断した。
時間をかけすぎれば、その狩籠師を取り逃がしてしまうかもしれない。容姿や名前が分からないのは困るが、とにかくいってみることだ。
「それは、あまりお勧めいたしませんが……」
老婆心ながらの忠告をしながらも、村長はお山の場所を青陵に教えてくれた。
「では、そこへいってみることにいたします」
青陵は、そう言った。