翕然主 弐
「逃げ慣れている敵とは、やっかいなものだな。さすが、これまで退治されずにいたものたちというわけか」
毒で穢された周囲の土地を見て、凜華はむっとして唇を曲げた。これでは、呪符で浄化しながらでないと進めない。
「我、求むるは清浄なる風。囀るは無垢。場裏を翻し、浸潤を払う!」
毒を浄化して道を造りながら、慌てず急いで後を追う。
だが、先行した妖魅たちは、木々の茂った山へ逃げ込もうとしていた。このまま、また姿消しの妖術を使われてはやっかいだ。
ところが、突然二匹の動きが止まった。何かを感じて山に入るのを躊躇しているようにも見える。理由は分からずとも、これは好機だった。
「今度こそ、仕留める」
ここ数日の敵のしぶとさにさすがに閉口していた凜華は、怒りも露わに言った。
凜華の気迫に押されてだろうか、大蝦蟇たちが、突然意を決したように前へと飛び出した。
『脅かしすぎだ。氣を抑えろ。獲物が怯えて逃げちまう』
「うるさい」
余計なお世話だと相棒を叱りながら、凜華は妖魅たちの後を追いかけた。
式神で足止めしようかと凜華が策を巡らしかけたとき、突然、妖魅たちの動きが乱れた。
緑の大蝦蟇の動きが完全に止まり、宙に浮かんでいく。まるで、何か見えない巨大な手に捕まって、持ちあげられていくかのようだ。
茶の大蝦蟇の方は難を逃れたようで、見えない敵から逃げ回るかのように周囲を飛び跳ねている。
「何が起きているんだ」
凜華は、慎重に妖魅たちに近づいていった。彼らの方は、今や凜華に構ってもいられない状況のようだ。
緑の大蝦蟇が、断末魔の声で吼えた。その身体が、見えない何本もの縄で絞めつけられるように、一気にねじあげられていく。変形した大蝦蟇の身体がぐしゃりと半分潰れ、いきなり大地に叩きつけられた。いや、大地に引きずり込まれた。固い地面が柔らかい沼に変わってしまったかのように、あっさりと地中へと呑み込まれていく。
それを見て恐怖にかられた茶の大蝦蟇が、周囲の木を薙ぎ倒しながら山の方へと逃げていった。
緑の大蝦蟇の姿が大地に呑み込まれたというのに、あたりは何事もなかったかのようなたたずまいだった。新たな妖魅が出現するでもなく、地面に大穴が開いたわけでもない。
襲撃者は、なぜだか茶の方には無頓着であった。とりあえず満足して、残りは見逃したというところなのであろうか。
茶の大蝦蟇の気配もすでに遠ざかり、謎の妖魅の気配も感じられない。もはや、周囲には脅威と呼ぶべき妖魅の存在は感じられなかった。
「少なくとも、大蝦蟇を襲った妖魅はもう近くにはいないようだ」
凜華は、ひとまず太刀を黒塗りの鞘に収めた。猛々(たけだけ)しい力に満ちていた幽明の太刀が、夜の帳のような鞘に収められて、眠りについたようにおとなしくなる。
凜華は、茶の大蝦蟇の後を追うために前へ進んだ。
緑の大蝦蟇が消えたあたりに近づく。
ちりん。
鞘につけられた鳴らずの鈴が、微かに鳴った。
妖魅を封じ込めた土鈴で、敵意のある妖氣を感じたときにだけ、必要なら鈴のような鳴き声をあげる。
「今、通り抜けたな」
『ああ、結界だ』
うなじを舐めるような独特の感覚に、凜華は相棒に確認した。
「我、求むるは聖なる式。空にあっては、導。流れをもって、道をば示す!」
振りむき様に飛ばした呪符が、折り紙の鳥となる。
道を戻ろうとした式神の鳥だったが、すぐに見えない壁にぶつかった。落ちるよりも早く、逆巻く氣に巻き込まれたように千々に千切れ飛ぶ。
誰が張り巡らした結界であろうか。
大蝦蟇や凜華が、労せずに通り抜けられたということは、外界からの侵入を阻む物ではないようだ。だが、一度その中に入ってしまった以上、簡単に外に出られるような類の物でもないらしい。
ならば、内なる妖魅を押さえ込むための物であろうか。
もちろん、緑の大蝦蟇をあっという間に滅ぼした者がいることは間違いはない。問題なのは、はたして、それが結界に付随した守護の使い魔なのか、この地に巣くっているより危険な妖魅なのかということだ。
「どのみち、一匹逃した。奴を倒し、結界の主に目通りするしかあるまい。たとえ、ここが禁忌の地だとしてもな」
『禁忌の地か』
凜華の腰で、幽明の太刀が微かにふるえた。笑っているのだ。
「ああ。そのとおりだ、我らに禁忌などは存在しない」
凜華は、きっぱりと言い放った。
微塵も臆することなく、凜華は山の奥へと進んでいった。
所詮、禁忌などというものは、それを定めた者にとっての誡めだ。それを超える力をもつ者にとっては、制限の意味をもたない。たとえそうでなくても、そのようなものは打ち破ればいいだけのことであった。凜華とその相棒には、それだけの力をもっているという自信があった。
とりあえず、凜華は逃げた大蝦蟇の後を追うことにした。
だが、恐慌に陥って周囲の木々を薙ぎ倒して逃げた大蝦蟇も、やがて落ち着いたのか、痕跡を残さぬようにして姿をくらませていた。
「気配を感じているか」
『ああ。そこら中から妖魅の気配が漂ってくる。いや、渦巻いていると言うべきか。まるで池の水を終始掻き回しているかのようだ。これでは、妖魅がどこに隠れているのか、まるで見当がつかないな』
「そうか。私の感覚が鈍ったということではないようだな」
凜華は、少し安心して言った。
周囲に妖魅たちがいる。それも無数と言っていいほどにだ。それらの氣が全体で一つのうねりとなって、個々の判別を難しくしているようだ。
おそらくは、自然に棲む、微細な妖魅たちの気配なのであろう。だが、肝心のその姿が見あたらない。
「これだけの妖氣が集まりながら、姿が見えないとは。まるで、どこにもいないか、どこにでもいるかのようだな」
些細な妖魅であれば、そこかしこの暗がりに身を潜めているものだ。それすら見つけられないというのは、大蝦蟇に驚いてこの場から逃げ去ってしまい、その妖氣の痕跡だけが大量に大地に残されているのかもしれない。それとも、この土地そのものに妖氣が染みついてしまっているのかだ。
どちらにしても、個々の妖魅すら判別できないこの状態は自然ではない。
周囲に妖氣が満ちているため、大蝦蟇の妖氣だけを追うことは難しかった。とはいえ、この結界の中から逃げることは、あの大蝦蟇にはできないだろう。焦ることはない。
「これでは妖氣は辿れないが、なあに、道はあるようだぞ」
とりあえず、生い茂る木々の間に、道はちゃんとあった。獣道かもしれないが、人が使っていた気配が色濃くする。これを辿っていけば、何かあるだろう。
山全体はうっそうとした森に覆われているものの、緑葉は少ない。かろうじて木は生きているといったところだ。
鳥や動物にいたっては、まったく姿が見受けられなかった。先ほどの立ち回りのせいで逃げだしたとも考えられるが、どうも最初から数が極端に少ないのかもしれない。それもこれも、あの見えない妖魅のせいなのだろうか。
「ひとまず、間違いなく人はいるようだな」
木に突き刺さっている矢を見つけて、凜華は人影を探すかのように周囲を見回した。確かめるために矢をつかみ取ろうとすると、それは手の中で脆くも崩れてしまった。朽ちるほどに、見た目より古い物であったのだろうか。
「人がいた――でなければいいがな」
他にも、刃物でつけられたような傷のある木も散見できる。
戦いの跡であろうか。
強力な妖魅がいるのであれば、それも自然なことなのかもしれない。
過去、それを倒そうとした者がいたとしても、不思議ではないからだ。
武士は、妖魅を退治して名を馳せようとするし、狩籠師たちは人知れずそれらの妖魅を退魔するものだ。