翕然主(きゅうぜんぬし) 壱
かくありき
退魔を生業とする者たちあり。
ある者は妖魅を狩りたて、滅してその地の穢れを祓いたる。
ある者は妖魅を封じ籠め、祀りてその地を穢れより護りたる。
人、彼の者たちを狩籠師と呼び、敬い恐れるなり。
「どうやら、逃げ疲れたようだな」
凜華は足を止めると、眼前に立ち籠めた霧を見据えた。
妖魅によって練られた濃い霧は、ねっとりとした触手を伸ばすかのように近づいてくる。姿は見えなくとも、妖魅の放つ生臭い瘴氣は隠しようがない。
「我、求むるは清浄なる風。囀るは無垢。場裏を翻し、浸潤を払う!」
わずかに眉を顰めた凜華は、浄衣の袖を軽く振って霧を払い除けた。
「さて……」
軽く腰の太刀に手をかけ、凜華が身構えた。ぴんと背筋をのばして立つ姿は、他を寄せつけない力強さに満ちている。この場に誰かいれば、まるで草子に出てくる紗那王のようだと思ったかもしれない。ただ違うのは、女と見まごうほどの美丈夫ではなく、凜華は正真正銘の女であるということだった。浄衣の下も、白衣に藤色の行灯袴という巫女の出で立ちである。
『炙り出すか』
「当然だ」
何処からともなく響く声に、凜華は即答した。
毒と巨体とで一つの村を喰い潰した妖魅を、やっとここまで追い詰めたのだ。このまま逃がすつもりなどはなかった。
凜華は、懐から呪符を取り出すと、二つの指にはさみ持った。
「我、求むるは真なる姿。八方に心眼。正鵠を射て、夢幻を断つ!」
言霊を紡ぎ、凜華は呪符を霧にむかって飛ばした。
霧を切り裂いて飛んだ呪符が、ピタリと大地に貼りつく。
周囲の霧が吹き飛ばされ、大地が脈打った。
霧の奥で、身悶えするような流れが生じる。
太刀の黒塗りの鞘につけられた鈴が、ちりりと警告の音をたてて鳴った。
『来るぞ』
「分かっている」
危険を告げる声に、凜華はいらぬ世話だと言い返す。
地面が、うねるとともに大きく盛りあがっていく。その形が、みるみるうちに土色の大蝦蟇の姿となった。女としては大柄である凜華をも、一呑みにせんとする巨大さだ。
「茶か」
やっと出会えた敵に、思わず凜華はほくそ笑んだ。
「我、求むるは清浄の泉――」
凜華は玲瓏と澄んだ声を響かせて、風切る音も鋭く中空に霊紋を描き出していった。
大蝦蟇が、巨大な法螺貝を吹き鳴らすかのような咆哮をあげた。周囲の大気が、びりびりと震撼する。
妖魅が身を伏せるようにして頭を下げた。背中のいびつな瘤の群れが、一斉に凜華にむけられた。
「――左手に解。光輝をもって、邪氣をば祓う!」
大蝦蟇の背の瘤から、瘴氣を帯びた毒液がほとばしった。
だが、呪によって顕現した光の盾がそれを阻む。浄化された毒液が、ただの水の飛沫となって周囲に弾け飛んだ。
『まだだ』
水飛沫で少し払われた霧の右手に、うっすらと緑色の影が見える。凜華の追っていたもう一匹の大蝦蟇だ。
「翔破!!」
凜華が、鞘に収めた太刀の先で地面を叩いた。その動作からは想像もできない激しい反動で、凜華の身体が宙高く跳ね上がる。
その衝撃の余波が輪を描いて広がり、周囲の霧を吹き飛ばしていった。
彼女めがけてのびてきた赤黒い触手が狙いを逸らされて地面を抉りつつ跳ね上がった。
隠れ蓑の霧をなくした二匹の大蝦蟇が、その醜悪な姿を現す。
『抜け!』
一瞬の迷いも見せず、凜華は腰に差していた幽明の太刀を抜き放った。刀身の周囲が怪しげな氣を纏って朧げに霞む。
高空から落ちる勢いで、裳裾が乱れて激しく音を鳴らし、一つに束ねた長い黒髪が一文字に靡く。
両脚が露わになるのも構わず、凜華は正眼に太刀を構えて降下していった。
迫りくる凜華の姿に気づいた緑の大蝦蟇が、舌を引っ込めるのも忘れて、慌てて身を捩ろうとする。
「遅い!」
気合いとともに振り下ろされた幽明の太刀が、大蝦蟇の左目を切り裂いた。浅手ながらも、剣圧を受けて大蝦蟇の巨体が弾かれ、同時に凜華の落下の勢いが相殺される。
タンと地面を一蹴りして、大蝦蟇の体液が降りかかるよりも早く、凜華は後ろへと飛び退った。まるで舞の舞台から飛び降りただけであるかのように、ふわりと軽やかに着地する。露わとなった両脚を、花のように広がった袴がゆっくりとつつみ隠していった。
太刀を目の高さで横一文字に構え、凜華は大蝦蟇を睨み据えた。一つとなった目では彼女の眼力を受け止めきれないのか、緑の大蝦蟇がじりじりと後退る。
一気に攻め倒そうと思ったとき、背後から殺気が襲ってきた。
「虚空を断ちて、摩するを拒む!」
凜華は、立ちあがり様にくるりと太刀を一閃させた。茶の大蝦蟇が噴き出した毒液が、太刀が切り裂いた空間に阻まれて堰き止められる。
「そう急くな、貴様はこ奴の後だ」
凜華は、呪符を取り出した。
「我、求むるは聖なる式。天にあっては、明。炎をもって、悪しきを止める!」
放たれた数枚の呪符が、小さな火の鳥の式神となって茶の大蝦蟇を牽制する。その間に、凜華は緑の大蝦蟇にむかって走った。
大蝦蟇が、なんとか口に戻した舌を、慌てて前へと突き出してくる。嫌悪感をもよおす、ねっとりとした舌の槍だ。
そのような、あてずっぽうの攻撃があたるはずもない。
凜華は簡単に舌を避けると、潰した左目の死角に回り込んで間合いを詰めていった。
舌を戻していては間に合わないと悟った大蝦蟇が、身体ごとあるかないかの首を横に振った。舌がを鞭のように撓り、凜華に襲いかかった。
得たりと、凜華は身体を宙に舞わせた。くるりと大蝦蟇の舌を飛び越え様に、太刀でそれを断ち切ってみせる。
横に振られた勢いのまま、切り落とされた舌が回転する。地面を激しく削りつつ、土砂を巻き上げて転がっていく。その激しさに負けず劣らず、大蝦蟇が苦痛に悶絶してのたうちまわる。
暴れる巨体に、凜華は間合いをとりなおした。そこへ、茶の大蝦蟇が割り込んでくる。式神に焼かれた背中を大きく突き出すようにして、大蝦蟇は周囲に無差別に毒液を撒き散らした。
凜華は呪符を飛ばすと、毒液を避けた。
むかってきた毒液は呪符が跳ね返したが、さすがに言霊が伴わないために力が弱い。跳ね返された毒液は浄化されることもなく、周囲に飛び散っていった。
凜華が怯んだ一瞬の隙に、二匹がそろって大きく飛び跳ねた。
着地するたびに、ずんと大地が響く。太鼓を打ち鳴らすように地響きを轟かせながら、二匹は山の方へと逃げていった。
『急くなよ』
急いで後を追おうとする凜華を、幽明の太刀が押し止めた。信頼する相棒の言葉に、凜華は素直に従った。