5.初恋
その日の夜、ゆかりは再び水力発電機を接地した場所まで行った。
そこは、外灯の明かりが道を優しく照らしていた。
今までは真っ暗な道だった。それが、玩具のような発電機ひとつで、見違えるように変わってしまった。川の岸辺には、吉田秀実が草花の種を記念に植えたので、おそらく春になれば、この辺りには綺麗な花が咲くだろう。
外灯の明かりをしばらく見ていると、背後から靴音が聞こえてきた。その靴音は、だんだん近づいてくる。ためらいがちに振り返ると、なんと中川卓也だった。
「中川くん、こんな時間にどうしたの?」
「やっぱり瀬戸口か…。多分いると思ったよ。君と同じ気持ちだ。僕も、夜のこの道を見たくなってね」
「中川くんと同じ気持ちを共有できるなんて、なんだか凄く嬉しい…」
「僕も、瀬戸口と同じ気持ちを共有できて嬉しいよ」
中川の返事は、ゆかりにとって、またしても嬉しかった。大好きな人が自分と同じことを考えていた。それは二人の魂が共鳴しているような気がした。
その夜、ゆかりと中川は時間が経つのも忘れて、しばらく語り合った。
ありきたりな内容の会話だった。でも、会話の一言一言が、ゆかりの心に快感を与えた。胸がときめいた。とても幸せな時間に感じられた。
十二月になり、二日経った日の午後、山田先生が廊下を走ってやって来た。
「瀬戸口、たった今、村議会でお前たちの申請書が承認された。…但し条件付きだが」
申請書が承認された。それは、ゆかりたちの活動が村議会に認められたことを意味している。その知らせは、ゆかりたちを喜ばせた。
「やったな。瀬戸口」
すぐさま山中や牧野が祝福した。
「おめでとう。良かったね」
吉田秀実は、まるで自分自身に言い聞かせるように、ゆかりの手を握りしめた。
「これで、残りをつくるめどができた!」
剛田は、すでに残りの水力発電機をつくることを念頭に置いていた。
「……」
高島ゆり子は、無言で感慨にふけっていた。彼女も青林島の未来を真剣に考えていた。
「ありがとう。これも、みんなが頑張ってくれたおかげよ」
ゆかりは、みんなに感謝した。また一歩、夢に向かって前進した。ゆかりは、その一歩一歩のあゆみを着実に感じることができた。
「ところで、条件付きってどうゆうことですか?」
ゆかりが山田先生に尋ねると、
「それだが、誤解がないように直接話したいので村役場まで来てほしいと、村木さんからの伝言があった。俺にも内容がわからない」
誤解が無いようにと言うからには、誤解し易い説明をうけることを意味している。それはどんなことだろうか? ゆかりは、その条件が気になった。
「中川くん、どんな条件かわかる?」
だが、中川にもわからないようで、首をかしげて両方の掌を上に向けた。
やはり、直接聞いてみないとわからないようだ。
「中川君、放課後になったら一緒に村役場まで行ってくれる?」
「わかった。僕も、どんな条件か気になる。不安は早く解消するに限るね」
中川が一緒に行ってくれると心強い。ゆかりは、何も恐れるものは無かった。
放課後、ゆかりと中川とで村役場に赴き、道路課の窓口に着いた。
「ゆかりちゃんたち、待っていたよ」
二人の到着に気づいた村木が、すぐに二人を会議室に案内した。
「ちょっと待ってね。あと一人呼んでくるから」
そういうと、村木は一旦、部屋の外に出た。
そして、しばらくすると、村木が、先日、見学に来ていた老人を連れてきた。
「おじいちゃん、こんにちわ。この前は見に来てくれてありがとう」
ゆかりは元気よく挨拶した。
「…瀬戸口…、この方は村長の田中さんだぞ」
ゆかりの腕を肘でつついて、中川が小声で伝えた。
「え? おじいちゃん、村長だったの?」
「そうじゃよ。ゆかりさんとは長らく会っていないからのう」
人口五百人ほどの村なので、村長の顔は覚えていて当たり前なのだが、ゆかりは知らなかった。ゆかりは、政治に全く興味が無かった。
「えっ、おじいちゃん、いや村長さんは、私とは以前に会ったことがあるのですか?」
急に慣れない敬語を使ったため、ゆかりの話し方には不自然さがあった。
「ゆかりさんのお父さんとは、昔、親しくしていたよ。だから、君が赤ん坊の頃は、抱っこしたこともある」
「へー。そうだったのか…」
ゆかりは、またもや、敬語を使うのを忘れてしまった。
「それはさておき、外灯設置の申請の件だが、申請額については問題ない」
その後、田中村長は一息ついた。
「では、どこが問題なのでしょうか」
ゆかりは、まだ条件がわからない。すると、中川がおそるおそる、
「もしかして、設置場所でしょうか?」と、尋ねた。
「そう。中川君、正解だよ。まさに設置場所が問題なんだよ」
村木の発言はいつも元気いっぱいだ。
ゆかりたちは、十基の外灯を青林川の下流から上流まで等間隔に設置しようとしていた。だが、一基はせいぜい十メートルほどしか明るくならない。これだと暗闇にわずかな明かりが点在する形になる。
「だから接地する範囲は、まずは青林川下流の桜並木の範囲にさせていただきたい」
田中村長が静かに断言した。
「どうして下流の桜並木の範囲なのでしょうか?」
「理由は三つある。まず、第一に遠く離れた場所に点在していたら、道路の暗い部分が残るため、灯が有効でなくなる。道路は連続して明るくなければ意味が無い。第二に、遠く離れた場所に点在したら、保守作業が大変だ。故障しても気づかない場合もある。第三に、川の上流に比べて下流の方が、はるかに住民が多い。限られた金額を有効に使いたいのじゃ」
村長がそこまで説明したとき、ゆかりが、
「それじゃあ、川の上流に住む数少ない住民は見捨てることになりますが…」
「見捨てるのではない。だから最初に、『まずは青林川下流の桜並木の範囲にさせていただきたい』といった。ゆかりさんは、今後もこの運動を続けるのだろう? もちろん、村役場も協力する。そうすれば、やがて上流にも外灯が灯ることになるのではないかな」
村長の説明は筋が通っていた。だが、ゆかりは納得できない。ゆかりにとって、政治とは住民に対して平等に恩恵を与えるものだと思っていた。
「瀬戸口、村長の言うことはもっともだと僕は思う。今回の僕たちの行動の目的は、青林島を活性化させることだ。闇夜にほんの少しだけ点在する明かりでは、島民は恩恵を受けたとは感じないし、明るくなったとも感じられない。
それよりも、まずは下流の桜並木通りを明るくし、夜でも美しい桜の花を見ることができたら、みんなは元気がでると思うよ」
そこまで言った後、中川が続けて、
「瀬戸口、これは逆にチャンスだと考えよう。申請額が満額でもらえて、そして、多くの住民が夜道の明るさを感じられるように僕たちの案を改良してもらった。さらに、村役場が今後の活動にも協力してくれることになった。そう前向きに考えよう」
中川の説得は、ゆかりの心に響いた。
「チャンスだと思えか…。そうだね…」
ゆかりは腕を組んでしばらく考えた。すると、ある考えが閃いた。
「そうだわ、村長さん、村木さん。どうせならば、夜桜祭をしない?」
「えっ」
みんなが驚いた。すると、ゆかりは続けて、
「私たちが桜並木をLEDライトで照らすので、島のみんなに夜桜を見物してもらいましょうよ」
ゆかりの発想は大胆だった。さらにゆかりは説明を続けた。
「そうすれば、多くの人が、道路が明るくなったと実感できるわ。そして、この島で夜桜が見物できたら、きっとみんなの楽しい思い出になると思うの」
ゆかりは、夜桜祭の楽しいイメージを、懸命に伝えた。ゆかりの話を聞いていると、なんだか楽しいお祭りが近づいてきたような感覚になる。人を楽しませるための不思議な魅力を、ゆかりは持っていた。
「そういえば、桜並木通りの真ん中に、樹齢四百年以上の降龍桜があったね。あの桜の木がライトアップされたならば、さぞかし綺麗だろうね」
思わず村木が、ゆかりの話しにのった。
「でも、ライトアップするだけの電源は、今は無い」
田中村長が静かに否定した。
「そんなことありません。村役場にあるバッテリーを十個ほどお借りできれば、ライトアップは可能です」
すかさず中川が提案した。
「本当かね。今度の花見までに間に合わせることができるかね」
「はい。申請した予算とバッテリーさえお借りできれば可能です。なぜならば、昼間は明るいので電灯はいりません。だから、その間、バッテリーに蓄電しておきます」
「そうか。よし。ゆかりさん、君の案にのった」
今度は田中村長が張り切った。村長は続けて、
「夜桜祭を三月の四週目にとりおこなうことにしよう。申請の金額は明日学校に届けるので、瀬戸口君は印鑑を持ってきてくれ。そして、夜桜祭までに、残り九基の外灯を必ず灯すようにしてほしい」
村長はさらに続けて、
「みんなでこの島を元気にしよう!」と、元気よく語った。
田中村長も青林島を明るく元気にしたかった。ただ、そのきっかけが、なかなか見つけられなかった。大人になると常識に縛られて素直な行動ができにくい。その点ゆかりは子供なので素直な行動ができる。この夜桜祭は、ゆかりの素直な心がもたらした企画だった。
信じられない展開になった。ゆかりが何気に言った夜桜祭、これが実現されることになった。今、この村は確実に変わろうとしていた。
翌日、田中村長の約束どおり、村役場の職員が補助金を学校に持ってきた。
ゆかりは神山校長先生から連絡を受けると、持ってきた印鑑を受領書に押印し、名前を記載した。これで予算の確保ができた。
ゆかりは、ようやく一仕事を終えた気分である。だが、やることはたくさんある。LEDライトなど発電機部品の発注を早急に済ませる必要がある。青林島活性化応援部の部長として、残り九基の発電機の製作にも責任を持つ必要があった。
今までは自宅から持ち寄ってきた備品も、今後は村役場から調達資金を貰うことで購入が可能になった。備品の確保収集で苦労することはなくなったが、発注をするゆかりの作業が増えた。ライトなどは前回と同じ商品の発注なので問題ないが、新しく購入する分については、どの商品を発注すべきかを調査する必要がある。
ゆかりが悩んだ顔をしていると、高島ゆり子がやってきた。
「悩んでいるようですわね。おおかた、新しく発注する備品のことで苦労しているのではありませんか?」
「えっ高島さん、よくわかったわね。実はそうなのよ。どれを発注すればよいか、数量や金額を計算して予算内に収まるようにする必要があり、さらに納期を考慮して決定しなければならないの。納期が遅れると、みんなの作業予定が狂うので大変よ。」
「計算は、まさに瀬戸口さんの不得意な作業ですわね」
これは『あなたは数学が苦手ですね』と言われているに等しい。だが、そのとおりだった。ゆかりは数学が大の苦手である。
「そうなのよ。誰か代わってくれないかなぁ」
ゆかりが、ぼやいた。
「私がやってもよろしいですわよ」
「えっ?」
「私が商品発注の全てを、やっても良いと言いました」
「本当? 嬉しい。ありがとう」
「瀬戸口さん、あなたには他にもやるべきことがありますわ。たとえば、全体の作業計画に遅れが無いかチェックしたり、村役場の夜桜祭の実行計画と矛盾点がないかを確認したり、私たち一人一人の悩みの相談にのってあげたりとか。沢山ありますわよ」
「へーっ。高島さんはすごいね。わかったわ。私のすべきことをする。その代わり商品の発注を、お願いね」
「わかりましたわ」
高島ゆり子は、常に落ち着いた話し方だった。
「ところで、高島さんは、個人的に悩みがあるの?」
「ど…、どうして、そのようなことを尋ねられるのでしょうか?」
高島ゆり子は、ゆかりの突然の質問に、あせってしまった。頬が赤くなっている。
「さっき高島さんが、一人一人の悩みの相談にのってあげるよう言っていたので、きっと高島さんも、悩みがあるのかな?と思って…」
すると高島ゆり子は長い前髪を払いながら、
「残念ながら、私の悩みは瀬戸口さんには解決出来ませんわ」と、胸を張り、虚勢を張った。
「ふーん。それじゃあ、やっぱり高島さんにも、悩みがあるのね。遠慮せずに話してみてよ。必ず応援するから」
すると、高島ゆり子は、思いつめた表情で、しばらく考えた。そして、静かだが迫力ある声で、
「本当に、本当に瀬戸口さんは、必ず私を応援してくれますか?」
「もちろん。必ず応援するわよ!」
「絶対に?」
高島ゆり子はまだ疑っている。
「絶対に応援するわよー」
ゆかりはしつこいとばかりに大きな声を出した。
「それじゃあ」と、高島は小指をさし出した
「えっ?」
ゆかりは、さし出された小指の意味がわからない。
「指切り。約束してください」
「指切りかぁ。いいわよ」
ゆかりは戸惑いつつ、高島の小指に自分の小指を絡ませて指切りした。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」
日頃はおしとやかな高島ゆり子だが、このときばかりは大きな声を出して、子供のように指切りをした。このときの高島ゆり子には、良心の呵責があった。だが、それを押し殺してでも行動したい強い意志があった。このタイミングを逃すと二度とチャンスはやってこない。彼女には、それがわかっていた。
指切りが終わると、おもむろに、
「実は私…、中川くんが大好きなのです。だから…、応援してください」
「えっ…」
ゆかりは、あまりにも衝撃的な内容に、言葉がでない。
「さきほど約束してくださいましたよね。私を応援してくれると。指切りもしてくださいましたよね」
高島の声は脅迫じみていた。それだけ高島ゆり子は必死だった。
「た…、確かに約束したけど…」
かろうじて、ゆかりはそこまで言った。だが、その先が言えずにいた。
「お願いします。瀬戸口さん、私を応援してください。この恋が実ったら、私は一生あなたを応援します。お願い」
そういって高島ゆり子は、深々と頭をさげたまま固まった。
そして、小刻みに震えだし、床に水滴かボタボタと落ちた。高島ゆり子は泣いていた。頭を下げたままなので、涙が頬に伝わることなく、直接床に落ちていた。
こんな光景を見せられたら、ゆかりは、もう何も言えなくなる。
「わ…、わかったわ。お、応援する。全力で応援する。だから、顔をあげて」
ゆかりのその声を聞き、高島ゆり子は思わずゆかりに抱きついた。
「ありがとうございます。瀬戸口さん、本当にありがとう」
高島ゆり子は、心からゆかりに感謝した。そして、心の中でゆかりに詫びた。後ろめたい気持ちがあった。ゆかりに申し訳ないという気持ちがあった。同じ人に恋している。ゆかりの恋心を高島ゆり子は十分に知っていた。
高島ゆり子は、ゆかりが協力してくれるならば、この恋は必ず実ると思った。ゆかりが中川を諦めてくれるならば、必ずうまくいくと確信していた。だから、高島ゆり子は、ゆかりの決断に感謝した。それは、まぎれもなく本心だった。
日頃、自分の心の内を人に見せない少女が、この日初めて心の中をさらけ出し、大声で泣いた。それは、高島ゆり子の今までの人生で、最も重い出来事だった。
人は恋をすると、今までにない勇気を持つことができる。高島ゆり子がまさにそうだった。彼女は、ありったけの勇気を奮い起こして行動したのだった。
次の日の朝、ゆかりが教室に着くと、高島ゆり子が大急ぎでゆかりの席にやってきた。
「瀬戸口さん、頼まれた商品を全て調査し、発注しましたわ。これは発注品の一覧ですわ。予算枠と納期は全てクリアしていますが、瀬戸口さんも確認して下さい」
高島ゆり子が発注した商品の一覧を、ゆかりに渡した。
「えっ、もうできたの?」
ゆかりは、信じられない表情で発注一覧を見た。そして、村役場に提出した申請書や計画書を取り出して比較する。確かに、予算も納期も全てクリアしていた。ゆかりがさんざん悩んでいた作業を、高島ゆり子は一晩で仕上げてくれた。彼女は相当頑張ってくれたようだ。高島ゆり子の目には、くまができていた。昨晩遅くまで作業していたことが、その顔色からわかる。
「ありがとう。すごく助かったわ。言葉で言い表せないほど嬉しい」
「よかったですわ…」
高島は胸を撫で下ろし穏やかな目をした。そして、鞄から手紙を取りだした。可愛いらしい封筒だった。
「これを中川君に渡して下さい。お願いします」
声こそ小さかったが、その声には気迫がこもっていた。
ゆかりは高島を見た。彼女は明らかに真剣な表情だった。
「応援してくれますわよね」
高島のその言葉は、ゆかりの心を突き刺した。確かにゆかりは昨日、応援すると約束した。今さら約束を破ることはできない。
「わ…、わかったわ。私が渡してあげる。た…、高島さんは安心して返事を待っていてね。大丈夫…、そう、大丈夫。高島さんは青林島で一番の美人よ。きっと中川君も、あなたのことが好きなはずだわ…」
「瀬戸口さん、ありがとう」
高島は、ゆかりに感謝した。
「あっ、私…、トイレに行ってくるね…」
そう言って高島ゆり子から預かったラブレターをカバンに入れると、ゆかりは急いで教室を飛び出した。
トイレまでとぼとぼと歩き、さっき済ませたばかりの小用をもう一度した。ゆかりは気分が落ち込んだ。
洗面所で顔を洗い、鏡を見た。すると、表情の暗い少女がそこにいた。
ゆかりは両手の掌で左右の頬をバチーンとたたき、歯をむき出しにして口を開けた。
鏡の中には、無理して笑顔をつくった悲しい少女がいた。
放課後、ゆかりと中川は村役場に向かっていた。夜桜祭の日時と、そのための役割、スケジュールを決定するための会議に、二人は呼ばれていた。
会議室に案内されると、既に三十人ほどの人がいた。
そこでゆかりたちは、水力発電機の制作や外灯の設置をして夜桜祭のきっかけをつくってくれた中学生として、みんなに紹介された。
「まだ中学生なのに偉いな」
「外灯をともしてくれて、ありがとう」
みんなから感謝の声と共に、大きな拍手が沸き起こった。
外灯の設置をみんなが喜んでくれた。それは、ゆかりにとって、何よりも嬉しかった。
「私たち二人で作ったのではなく、学校のみんなで製作したのです。拍手は他のみんなもいる場所でお願いします」
ゆかりは、人気を独り占めしようとは思わなかった。どうせならば、剛田や山中、牧野、そして吉田や高島もいる場所で拍手されたかった。それはゆかりの本心だった。一人では絶対にできなかったことである。みんなの協力があり、ようやく成し遂げたことだった。
この日の会議で、夜桜祭の期日は来年の三月二三日と二四日に決定した。終業式の次の日である。夜桜祭の実行委員長には道路課の村木が任命され、そして、中川は照明係となり、ゆかりは渉外担当となった。
中川の照明係は、作業内容が明確である。だが、ゆかりの渉外担当は、何をやるのかが良くわからない。ゆかりが村木に尋ねたところ、「ちょっとしたことをやってもらうだけなので、心配しなくても良いよ」とのことだった。
村役場での会議が終わった後の帰り道で、ゆかりは中川と二人で歩いている。ここで、ゆかりは覚悟を決めた。実は高島ゆり子から預かった手紙を、いつ渡そうかと今日は一日中思い悩んでいた。
――渡すのは今しかない。
ゆかりはおもむろに、
「な、中川くん。この手紙を読んで…」
両手を伸ばして手紙を差し出した。
とてもかわいい絵が描かれている封筒だった。一目見ただけでラブレターとわかる。そんな感じの封筒だった。
突然に手紙を渡された中川は、動揺した。
「えっ…。瀬戸口にしては、似合わない告白の仕方だな。でも、ありがとう」
中川は誤解していた。ゆかりからのラブレターだと思っていた。
「違うのよ。これは高島さんからあずかった手紙。良い返事をしてあげてね」
ゆかりは息もつかずに一気に言った。ゆっくり話せば間違いなく迷いがでることがわかっていた。
「高島…さんから?」
その後、しばらく沈黙の時間があった。二人とも何も話さない。二人の動きすら止まっていた。聞こえるのは、ゆかりの荒々しい呼吸音だけだった。
沈黙を破るように中川が、
「なんで瀬戸口が、高島からのラブレターを、僕に渡すのか?」
その声は怒っているようにも聞こえた。
「…だって、応援すると高島さんに約束したから…」
弱弱しい声だった。だが、ゆかりの返事は、中川にはショックだった。彼の心を折った。
「そうか…。わかった…」
「高島さんは、中川くんのことを想うと夜も眠れないそうよ。大切にしてあげてね」
そういうと、急いで駆けだした。
「さようなら」
振り向くことなく、ゆかりは別れをいった。その言葉は、別れの挨拶なのか。それとも、恋の未練を断ち切るための宣言なのか。ゆかり自身も、わからなかった。
家まで速度を緩めることもなく、ひたすら走り続けた。今日も西側の水平線は美しい景色だったが、沈みゆく夕陽を見ることもなく走り続けた。立ち止まったり歩いたりすると、心が壊れてしまう。だから汗をにじませてでも走り続けた。
家に着くと、汗を拭い、カバンからコンパクトミラーを取り出して自分の顔を見た。それから歯をむき出しにして、無理やり笑顔をつくった。
「ただいまー」
扉を開けて家に入ると、母親の杏子が嬉しそうな顔をしていた。
「ゆかり、今日、私はすごく嬉しかったわ」
「どうして?」
「だって、会う人みんなが、ゆかりのことを誉めていたのよ。ゆかりが最近遅く帰ってくるのは、島に外灯をつけるためだったのね。私は知らなかったわ。でも、今日それがわかったの。ゆかり、すごいわよ。テストで百点とるよりも、何倍も立派なことよ」
「ありがとう。でも、私一人でやった訳じゃないわ。みんなでやったのよ」
素早く居間を通りすぎ、ゆかりは自分の部屋に入った。いつもは明るい会話を弾ませるゆかりだったが、今はラブレターの件があったので、それどころではない。とても母親と話す気にはなれなかった。
いつもはすぐに着替えて居間に来るのに、今日はゆかりが部屋から出て来ないため、杏子は心配になり、ゆかりの部屋の扉をノックした。だが返事がない。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れたみたい。しばらく横になるね」
扉を開けることもなく、ゆかりは返事した。そしてゆかりは、疲れた心を休めるべく、横になった。
やがて、太陽が完全に沈み、島が暗闇に包まれたとき、ゆかりは夕食の時間だと起こされた。
食欲がないが、断ると余計に母が心配する。父親は既に明日の朝に備えて就眠中である。漁師の朝は早い。三時には起きて漁に出る。だから、テレビの音量は低めに設定している。
ゆかりは母との会話を極力避けるため、面白くもないテレビ番組に集中し、味を感じない夕食を無理して食べた。
夕食が終わったとき、突然、電話が鳴り響いた。
「はい、瀬戸口です」
素早く母が電話をとった。就寝中の父を起こさないための行動である。
「ゆかり、高島さんからよ」
もし許されるならば、ゆかりは電話を受けたくなかった。だが、それはできない選択だった。
おそらく、手紙を渡したかどうかの確認だろう。そう感じ、ゆかりは気乗りしないまま、受話器をとった。
「はい。ゆかりです」
「瀬戸口さん、手紙を渡してくれて、ありがとうございます」
電話から聞こえた高島の声は、やけに陽気だった。
「一時間ほど前に、中川くんが私の家まで来てくださいました。そして、私との交際をオーケーされましたの。これも、全て瀬戸口さんのおかげです。瀬戸口さんには、いくら感謝しても足りないほど、お世話になりました」
高島ゆり子の知らせは、ゆかりの弱った心に槍を突き刺した。これで完全に中川は、ゆかりの手の届かないところに行ってしまった。
だが高島ゆり子は、本心からゆかりに感謝していた。一つ一つの感謝の言葉に心がこもっている。そのことも、ゆかりは理解した。
――高島さんは悪い人では無い。過ぎた過去を後悔しても、もはやどうにもならないわ。だったら高島さんを祝福してあげよう。
ゆかりは覚悟を決めた。
「高島さん、よかったわね。おめでとう」
その話し方はとても優しく、慈愛に満ちていた。
「瀬戸口さん、ありがとう。うううう…」
電話口から高島ゆり子のすすり泣く声が聞こえる。ゆかりの優しい言葉に触れて、とうとう泣き出してしまったようである。
――これでいい。これで…
ゆかりは、自分自身に何度も言い聞かせていた。本当は泣き出したいのはゆかりの方だったが、懸命に泣くのを我慢した。
顔を上げると、夜空に満月が出ていた。
ゆかりの傷ついた心をいたわるかのように、優しく光っていた。
高島ゆり子、彼女はゆかりに出会い、ゆかりと親しくなることで、人生が劇的に変化した。そしてこれからも、ゆかりの影響を受けて、彼女は大きく変化をする。だが、彼女はまだ、そのことを知らない。
夜空の満月は、高島ゆり子の部屋にも優しい光をともしていた。