〈8〉
――そうして進むこと数分。
早くも獣道と見られる通りを見つけた俺たちは、ルルンの先導に従って道ならざる道を辿っていく。
途中、木の幹に泥がこすりつけられていたりと、猪の気配を感じつつ進んだ俺たちは、ある場所を発見した。
一カ所だけ執拗に草木が踏み固められた空間。しかも笹のような植物が盛られている。先ほどルルンが言っていた、猪のねぐらだろう。
ということは、だ。
「あっ、いましたよ。あれ猪でしょう?」
エリアルが指さす方向には、確かに猪がいた。
体長は一メートルと少しくらい。
草木に隠れてはいるものの、目を凝らせばその姿を補足することはできた。
何かを食べているのか、首が小さく上下している。
「よし、にーちゃん。あとエリアルとサリアルも。三人で手分けして、おびき寄せてくれ。あたしの弓で仕留める」
キリッと、さっきまで転びまくってたのが嘘のように、小声で指示を出すルルン。
なかなか立派な拵えの弓を掲げる姿は自信満々だ。
さすが狩猟の女神というだけあって、こういうのはお手の物らしい。……ずり落ちてきた兜を直す仕草は相変わらずだけど。
「おびき寄せるってどうすんだ?」
「茂みからいきなり飛び出せばいい。びっくりして逃げ出すから」
「俺は今、かつてないほどの頼もしさをお前に感じてる」
「いらねーこと言うなよにーちゃんっ。早くしろ」
ごもっともで。
エリアルもサリアルも、そうそう見ることのないルルンの頼り甲斐に気圧されたのか、何も言わずに指示に従う。
俺も、できる限り物音はたてないようにしながら大きく回り込み、猪の側面に移動してきた。
エリアルは俺の隣。そのさらに隣にサリアルがくる。
猪を中心に、時計回りに俺、エリアル、サリアル。そして開いた部分の先にはルルンが待ち構えているという形。
あとは猪を驚かせてルルンの方へ向かわせるだけ。つまり、俺たちに与えられたのは猟犬としての役割だ。
犬の代わりとはなんとも釈然としないが、狩りなんぞしたこともない素人が口出しをするモノでもない。経験者に従うのが吉だ。
――と、笛が短く鳴った
ビクッと体を震わせた猪は、顔を上げて周囲を見渡し――。
「私の! ここ数日でたまりにたまったストレスを今、発散する時ぃ――ッ!
「……大人しく仕留められなさい。食肉が――!」
「……」
セリフとか、喜々として猪に襲い掛かる様子とか、どこを取っても一番美しい女神ではなかった。
別に俺たちが仕留める必要はないんだけど、絶対分かってない。
あいつらの腕力なら、素手で普通にひねり殺せるだろうし。
そんな、自分の命を脅かす存在が俺を含めて三人。何の躊躇もなく突っ込んでくるとなれば、野生の勘が働かずともやばいと察するのだろう。
回れ右した猪は、ちょっと他に類を見ないくらいの勢いで一目散に逃げだした。そう、ルルンが待ち構えている方角へと。
これで役目は果たした。
エリアルとサリアルはなおも追いかけているが、これ以上追う必要はない。あとは狩猟の女神たるあいつの仕事――。
耳元を矢が通り過ぎた。
「おおぉうっ!?」
意識の範囲外からの攻撃に反射的に飛び退いた。
え、なに!? どういうこと!?
「あ、外した」
「それはどっちの意味だ!?」
俺に当てようとしたわけじゃないよな!?
そんな俺の心の叫びなど聞こえるはずもない。ルルンは、完全に俺のことなど無視して、二の矢を構え――放った。
「危ねぇ!」
今度は足元に突き刺さった!
咄嗟に飛び退く俺にさらに追撃。三本目の矢が顔面に向かってきたのをギリギリで避けて、躱した先に四つ目の矢がある! これも紙一重で回避。
「きゃあ――っ!? なに! なんですかこれ!? 矢!? 髪が何本か持ってかれたんですけど!」
「……あの、ルルン? 私たちまで攻撃する必要はないと思うのだけれど。その、勘弁してほしいっ」
前の方で、女神二人も同じように被害を受けているようだった。
外れまくるルルンの矢は、猪に一撃も当たることなく、代わりに絶え間なくフレンドリーファイア。しかもその誤射はすべて全力で俺たちを殺しに来ている。
鉄パイプが何ともない俺も、さすがに刃物の攻撃は無傷とはいかない。マジやばい。
場は完全に大混乱。それを引き起こした張本人と言えば、
「ぐすん……。なんで……なんで当たんないんだよ――!」
「出来ねぇならそもそもやるなよ!?」
ていうか狩猟の女神だろお前!?
もはや俺たちを狙ってるとしか思えない矢。奇跡的に被弾していないのが救いとはいえ、このままでは猪は……。
「わぁ――っ!? なんだ!? いきなり目の前が真っ暗に! 何も見えない怖い! 誰か助けて! 誰か……。あ、これ兜か」
バカなんじゃないのかあいつ!
しばらく弓を引くこともできずにあっちへこっちへフラフラとしていたルルン。
それは自分を暗闇へ誘うものが何だったのかを認識した直後だった。
必死に逃げ惑う猪が、好機と見るやルルンに突進した。
「ぎゃーッ!?」
弾き飛ばされるルルン。小柄で軽いからか、かなり派手に吹っ飛ばされた。
そして、俺としても高評価を送ってやりたいタックルを繰り出した元凶は、
「あ、ちょ、待てこら猪てめぇ!」
今日の食事を引き留めようと全力で叫ぶのも虚しく。
一目散に逃げだしてしまった。
* * *
――で。
「私、ルルンさんがこんなにポンコツだとは思ってませんでした」
「……存在意義が皆無ね。もはや生きている意味がないわ」
もう二回ほどチャレンジした猪狩りだが、全部同じ結果に終わった。
ルルンの弓の腕は、冴えわたってほしくない方向にだけ冴えわたり、味方にちょっとずつ裂傷を作り出した。
さすがに体がもたないし、夜の森は危険だということで猪は諦め、予定は山菜採りに変更。
一応、夕食として食べるには妥協できる量が集まったので街道付近まで下りて来た。
焚き火を囲んで車座になった中、二人の女神にボロクソに言われたルルンは、ぐすんと鼻を鳴らし、
「でも、食べられる山菜を教えたのはあたしだろ。この鍋だってあたしのだし、調味料もあたしが持ってたやつ。そもそも作ったのもあたしだ」
「猪を狩ってくれれば一番よかったんですけどねー」
「ぐ……」
涙目で息を詰まらせるルルンだが、こればかりはエリアルのが正しい。
山菜のスープとか、ひもじすぎて笑えるレベル。
「ていうか、狩猟の女神なのに狩りをしたことがないってわけじゃないんだろ? だったら自分の矢が当たらないことくらい分かってたはずなんじゃ……」
「い、いつもはもっと当たるはずなんだよ! ただ今日は調子が悪かったっていうか」
「どんな大病を患えばあんなに外すんだよ。……ちなみに、調子がいい時はどのくらい命中するんだ?」
「二十回やって一発くらい?」
「それ当たってねぇよ!」
そんなんでよく狩りなんてやってこれたな!
もはや狩猟の女神ってこと自体が疑わしい。実はこいつ山菜の女神とかなんじゃないのか。
そうでもないと、このスープの妙な美味さは説明できない。ひもじいながらも、それを我慢できる程度の力がこのスープにはある。
と、俺の言葉に地味に傷ついているルルンを放置して食事を再開していると、なにやら見過ごせないものを発見した。
「あん?」
ブルーベリーっぽい木の実だ。指の先ほどの大きさのそれは紫色で、黄色で縁取られたピンク色の斑点がある。
これは明らかやばいやつだろ……。
「なあルルン。これは本当に食べて大丈夫なやつなのか?」
「なになに?」
念のためにとルルンに確認。彼女は俺の指差した木の実を見ると自信満々に頷いた。
「心配すんなってにーちゃん。山菜の知識で、このあたしが後れを取ることなんて絶対にありえない。食べても大丈夫だよ」
「おお、そうか。んじゃいただきます」
「おう、食べとけ。これは確か、食べるとその日は腹痛で眠れなくなるって有名な……。あれ? 毒じゃね?」
「食っちまったぞ!?」
愕然と叫ぶ俺に続き、向かいでスープを食していたエリアルとサリアルも硬直した。
「あの、女神には効果なしとかですよね? そうですよね?」
「……貴女を信じた私がバカだったわ。さっきまでのポンコツ具合で、安易に信用してはならないと知っていたのに……」
「ご、ごめ、ん……。ぐすっ。あたし死んでくる」
「メンタル弱いな! 女神は不死身だろうが! それよりほら、これは本当に毒なのか?」
打ちひしがれて早まるルルンを制止して、残っていた毒疑惑のある実を再度見せる。
ローテンションなルルンは、ぼんやりと俺の持つ器をのぞき込み、しっかりと吟味して……。
「ん? いや、やっぱりこれ大丈夫だと思う。栄養豊富なやつだったはず……」
「「「はぁ?」」」
「ごめん、驚かせて。毒じゃなかった」
再び硬直する俺たちだったが、意味を理解するにつけ、ほっと息を吐いた。
なんだよ、人騒がせな……。びっくりした。
けどまあ、毒じゃないなら問題なし。山の恵みに感謝して、残らずいただくとする。
――その夜、みんなのお腹が痛くなった。
* * *
幸い、木の実の毒は一晩寝ただけで抜けきってくれたらしい。次の日の朝にはもう何ともなかった。
「あれ? でもあの実って人が食べると死ぬやつだった気がする……」
と、ルルンは首をひねっていたが、そこらへんの知識についてはもう信用してない。たぶん大丈夫なやつだったんだろう。
そうして、ようやく次の村にたどり着いたのは昼頃。
村というよりは町に近い。
商店街のような通りは活気に満ち溢れているし、ちょっと向こうには冒険者ギルドみたいなのも見えた。
最初の村で仕入れた情報によると、ここには宿屋もあるということだ。
ここまでの道中、主に猪狩りのせいで大幅に体力を消耗している。布団で寝たいし、もうちょっとマシな食事がとりたい。
満場一致で、俺たち一行は宿屋へ直行だ。
俺のジャージをいぶかしげに眺める人々をスルーして、意気揚々と道を行く。
レンガ造りの宿屋に入ると、受付らしき場所に立つ宿屋の主人に話しかけた。
「あー、一泊分……大きめの部屋と普通の部屋を一つずつで」
「あいよ。三百リルね」
「はいはいっと」
三百リルね。三百リル。三百……リル。リル……?
……リルってなんだ。
とりあえず頼んだぞ諭吉。
「なんですかこのおっさん」
おいこら、諭吉さんなめんな。日本で一番モテる男だぞ。
と説明しても、いぶかしげな顔をされるだけだ。
「くそ。じゃあ野口でどうだ!」
「いや、だから誰ですかこのおっさんは。ノグチ? いや意味分かんないんですけど」
「……樋口で勘弁してくんね?」
「だから誰ですかそれ」
「……」
そうだよな。地球でも日本を出れば円は使えないんだし、まさか異世界で日本紙幣が意味を成すはずもなかった。
仕方ない。ここは断腸の思いだ。
「なあ、ちょっとごめん。なんとか返すから金貸してくんない?」
「持ってきてるわけないじゃないですか」
「あれ? あたしの財布どこ行った……。もしかして落とした……!?」
「……お金よりも私の方が価値があるわ。自分よりも劣るものを、わざわざ懐に忍ばせているとでも?」
「……」
この役立たずどもめ。
こうなったら仕方がない。確か十円玉って銅だし、いくらかにはなるはず。
「ドウ? すみません、お客さん。ふざけてんなら帰ってもらっていいですか」
「ちょ、ちょっとタンマ。待ってくれ。ジャストアミニット……!」
冷や汗をかきつつ、財布の中身を全部出した。野宿は嫌だし、また狩りをするのはもっと嫌だ。
一円玉。五円玉。五十円玉。百円玉。そして五百円玉……。
それらも使えないと分かると、近場のビデオ屋のポイントカードを取り出して見せる。が、
「さーせん迷惑かけました」
「はいよ。今度は金持って来いよ」
「……」
一応持ってはいるんだ。この世界で使えないだけで、持ってはいるんだ……。
そんなことを宿屋の主人に言ったところでどうにかなるはずもない。
潔く踵を返した俺は、後ろで待っていた女神たちの元へと戻り、
「野宿するぞ」
「私、最初の村で路銀はもらっておいた方がいいって言いませんでしたっけ!?」
「……」
ごめんなさい。ここまで考えてなかったです。
苦虫をかみつぶしたような表情になる中、ルルンだけが、再来しそうな狩りの予感に明るい顔だった。