小さな田舎の大学講師の呟き
後ろ姿は彼だった。そう思った。そう思いたかったのかもしれない。大学講師となった今、昔の記憶のままの大学への道には服装こそ異なるものの学生たちの話す気持ちがよく響いている。あんなに笑っていた、あんなに意見をぶつけていた、あんなに協力しあっていた、あんなにいたわり合っていた。
小さな大学の講師という仕事は、中途半端な時間を持て余す。普通の人生であれば、もう定年近くになったら、さまざまな思い出と共に語り合えると思っていた。皆同じように七十、八十を迎えられると思っていた。しかし、逝く時は一人。逝ってしまった彼も一人で先に旅立った。皆孤独なものさ。
長生きが良いと言うのなら、それは徐々に孤独になっていくことだろうか。それは遺されて遺されて行き着くところは、いつの間にか見知った人のいない世界ではないか。
生きている時には確かに未来は来る。そこには希望もあろう。また、良い変化もあろう。新しい出会いもあろう。良いものが必ず悪いものを凌駕していくもの。それが今までなかったのなら、日本は人類は皆滅びている。だからそれは信じていい。それは若く生きる者の心意気だ。その若さを若いうちに楽しむべきだろう。私もそうしてきたし、今もそうだ。ただ、それは限られた者の目にしか見いだしえない。
しかし、どうしようもないものがある。我々を引きちぎっていくそれぞれの死。それ故にその現実を胸に、情念のまま叫びたい、走りたい、打ちこわしたい。その情念について、ある神社の神主さんが言ってくれた。悲しんでばかりはいられない。現実に戻れ、と。現実とは、うつつ。つまり、うつつを抜かせと。また、あるお寺の坊さまは言った。死んだら彼岸がある、つまりはこだわるなと。皆「死んだら全ては終わりです。」と言っているくせに。
しかしこのような日々には、慰めはなく、また再び孤独に気づくことの繰り返しが待っている。その生きている時にこそ希望が欲しい。「死の向こうでも、この現実の中で、もっともっと生きていける」、と。