幼年時代 戸田少年
戸田少年
あれは、私が六歳の夏の頃であった。
来年の春には、私も小学校へ通い始めるということを何となく意識していたためなのか、近所の同い年の友達や自分が通う幼稚園の友達に飽きていたためなのか、はっきりとは記憶していないが、その頃の私は、四歳年上の兄が、ときどき家へ連れて来る友達に興味津々であった。
小学校というのが、どういうところなのか、そこにはどんな友達が集まって来るのか。その情報を得ようと、あるいは来年の春に対する不安を消そうというためであったか、とにかく私は、兄の友達が家に来たとき、兄からは多少、煙たがられながらも、くっ付いて一緒に遊んでもらおうと懸命であったようだ。
家に来る兄の友達は、兄が通っている野七里小学校の同級生たちで、その中に戸田という少年がいた。
野七里小学校は、私の住む上郷町から、子供の足で一時間は掛かる遠いところにあった。その頃の私にとっては、上郷町の青葉ヶ丘と呼ばれる住宅街一帯と、その周辺が世界の、すべてであった。青葉ヶ丘の北に広がる瀬神の森、自分が通う上郷幼稚園までの道、母親と車に乗って買物へ行く近隣の食料品店くらいが私の知る世界。それが自分の領地みたいに思っていた。その言わば領内の完全に外、遥か彼方にある野七里小学校に通っているという兄の友達を、私は自分の世界を広げるための手掛かりにしよう、と考えていたのかも知れない。
戸田という少年は、兄が家に連れて来る友達の中で一風、変わっていた。どうして、すぐに子供の私が、そう敏感に感じ取ったのかは分からないが、とにかく戸田少年は他の友達とは違って見えた。
兄の友達たちが遠くへは行かずに、私の家の近所で遊んでいる間は、私は何とか兄に、くっ付いて年上の少年たちに混じって遊んだ。そうして遊んでいるうちに、小学校というところに集まって来る友達は、自分が通う幼稚園の友達が少し大きくなっただけで、何も変わったところなんてない、と私は思うようになった。
「小さい弟は向こうへ行ってろ」
といった感じで、私は兄の友達から邪魔にされながらも一緒に遊んだ。彼らの中には、もともと隣り近所に住んでいて顔見知りの少年がいたし、私の世界の外である野七里小学校の辺りや、そのもっと向こうから来る少年もいたようだったが、慣れてきた私は、年上の少年たちを、幼稚園の友達と、ほとんど同じように感じ、小学校という所へ通う不安を解消できたのかも知れない。
しかし、戸田少年からは、幼稚園の友達と同じようには思えない何かを、幼い私は、不思議と感じ取っていたのだった。
戸田少年と初めて会ったときのことは、よく覚えていない。
なにしろ、私は六歳であった。しかし、私は、母や兄の話を、じっと聞いている子供だったようである。戸田少年の境涯を、何となく知っていた。
戸田少年には、母親がいなかった。母親は彼を残して家を出たのか、死別したのかは分からない。ちゃんとした職にも就いていないような父親と、彼は二人暮らしであったらしい。彼は十歳かそこいらで、いつも買い食いをしたり、夜おそくまで町を出歩いたりしていた。そんな彼は、近所で厄介者にされ、学校では問題児とされたり、苛められたりもした。近所の母親たちは、子供に、戸田少年と付き合わないようにしなさい、と言ったかも知れないし、戸田少年の父親には子供を夜、外に出さないようにするべきだ、と注意していたかも知れない。
戸田少年の父親は、国の生活福祉補助を受けていたかも知れないし、酒に溺れてもいたのか、生活は荒んでいたようだった。彼は、そんな父親のいる家から逃げ出したかったのかも知れない。ほとんどの時間を家の外で過ごし、彼は、いつも一人で暮らしているようなものだった。
それでも、戸田少年には輝きもあった。その生活の暗さ、切なさも霞むほどに、人生のほんの短い季節、少年だけが発する眩い光のようなものが、彼にもあった。そういった光は、色々な少年が、それぞれに持っていて、様々な特徴を持っていることが、少年たちの日々を輝かせる。
大人はただ、ときどき少年の頃には、どうしてあのように楽しいことばかりだったのだろうか、と思うしかない。子供の心を失ってしまった今では、思い出の向こうに、幻のようになってしまった少年たちが見えるだけだ。
戸田少年は、特別に運動神経が良く、遊びは何でも上手かった。やはり、友達の数は少なかったようだが、野球、ドッチボール、缶けり、メンコ、ザリガニ獲り、駄菓子屋での買い食いなど、彼は友達と連れ立って、夕方おそくまで遊んでいた。次の日には、遊び歩いた友達の母親から、彼は呼び止められて、怒られるというようなことが、よくあったのだろう。
今にして思えば、夜おそくまで町を出歩くことなんかよりも、友達の母親に叱られることを、彼は楽しみにしていたに違いないのだ。
あの日、戸田少年が私の家に一人で来た。
私は彼と、私の兄と三人で楽しく遊んだ。彼との遊びは本当に面白かった。彼は遊ぶことの天才であったようだ。私の家で飼っていた犬、ジョンは大きな雑種犬だったが、彼はジョンを恐がらずに、すぐに仲良くなった。そして、なんと彼は、野良犬ともすぐに仲良くなり、餌を与えて連れて歩いたりしていた。
戸田少年と兄と私の三人で楽しく遊んだ日の次の朝。
私が、家の二階にある自分の部屋の窓を開けると、道路の向こうの空地にある建築中の木造住宅の中で戸田少年が一人で寝ていた。建築中といっても、まだ木の骨組みだけで、屋根も完成していないような状態だったと思うのだが、彼は、建築木材などの間に寝転がっていた。朝もやの中に野ざらしの彼は、ほとんど野生児だった。
私は家を出て空き地へ行って、起き上がってきた彼に、目を丸くしながら尋ねた。
「昨日の夕方からずっと、ここにいたの?」
「野宿したんだ。夏には、よくやるんだ」
「一人で恐くないの? 夜もずっと、朝まで……」
私は、昨日の夕方ここで彼と別れてから、食卓で家族と温かい夕食を食べ、お風呂に入ってから、母が昼間のうちに天日に干してくれている、ふかふかの布団で安心して、ぬくぬくと朝まで眠ったことを思っていた。
「恐くはない。おまえたちが家に入ってから、おれは、この辺りを、ぐるぐる回って、鼬川の方まで行ってみたけど、やっぱり戻って来て、ここで寝ることにしたんだ」
「夕ごはんは何を食べたの? 夜は寒くないの?」
「夜は菓子パンを食べた。寒くはない、夏だからな。朝は少し寒いけど、夜は星がきれいだったぞ」
と彼は、半袖半ズボンから出ている日焼けした手足を摩りながら言った。さすがに、寝起きで肌寒く身震いがするのか、鳥肌も立っている。彼は、丸刈りが伸びた感じの頭を掻きながら、私の顔を覗き込んだ。彼の大きな目は、日焼けした黒い顔の中で、余計に白目が、くっきり見える。
「いいものを見せてやろうか?」
と彼は得意気に言った。
私は彼に惹かれていった。
彼の遊びや野良犬や、夜も外にいて星空を眺めながら寝転がっているようなところが、私には新鮮で憧れる思いがしたのかも知れない。幼い私は、彼から次に何が出てくるのか、期待に胸を膨らませていたに違いなかった。
彼は枕元から、といっても積んである木材とか資材袋の間からであったが、大きくて緑色がかった灰色の土鍋のようなものを抱えて出して、私に見せた。
「泥亀だ。こんなに大きいのを見たことがあるか?」
彼は重そうに、その大きな亀を、私が座っている板敷きの前に置いた。
はたして、それは甲羅が三十センチ、小さな子供の私の目には五十センチもあろうか、と思われるほどに巨大なクサガメであった。
子供というのは、どうしてあのように生き物が好きなのであろうか。命の不思議を感じ取ろうとするかのように無我夢中で、自分より小さな命と、より多く触れ合いたがるのはなぜなのだろう。私も、カブトムシ、クワガタ、トンボやカマキリなどの昆虫を捕まえ、ザリガニ、カエル、メダカなどの水の生物を探し、小鳥やハムスターなどの小動物を飼育することが好きだった。大人となった今では、まったく触れたいとも思わないその大きなクサガメを見たときに、幼い私の目は、どれほど輝いていたのか。今は、どうしても、その輝きを取り戻すことはできない。
そのときの私は、地面に置かれ、のそのそと動き出した巨大な亀を観察し持ち上げて、その重みを確かめ、どこで捕まえたのか、何を食べるのか、と彼に質問して、とにかく夢中になったことだろう。
「どうだ、大きいだろう。こいつは昨日の夕方、おまえたちと別れてから、下の鼬川で捕まえた」
「いたち川のどこ?」
「橋の上から見ていたら、こいつが川原を歩いていたんだ」
と彼は自慢げに言った。
私の家がある青葉ヶ丘から下って行くと、平野を流れる小さな川がある。私が子供の頃は、その鼬川でザリガニやドジョウやカニが獲れて、フナやコイが泳いでいたし、ヘビが水面を滑るように渡っていくのに遭遇したこともあった。上流にはホタルもいたらしい。一度だけウナギを捕まえたのと、カワセミのような鮮やかに青い野鳥を見た記憶があるのだが、それは現実だったのかどうか分からない。
――あの川に、こんな大きな亀がいるのか。
と幼い私は胸を躍らせたことだろう。その大きな亀が欲しくて堪らなくなった。
同じく子供の彼が、私のその心を見透かしていた訳でもないだろうが、彼は大きな亀を担ぐようにして持ちながら立ち上がって、
「もっと大きい亀が見つけられるかもしれないぞ」
と言った。
「そんなに大きいのが見つかるかな?」
と私は目を輝かせ、彼を見上げて尋ねた。
「鼬川の上流の、山の方に行けば、きっといる」
「山のほう……」
私は、鼬川は家のすぐ近くを流れているので知ってるが、山の方には父や兄と何度か行っただけだったので、少し不安を感じたようだった。
「今日は、鼬川から山へ入って、もっと大きな亀を捕まえる。それから港南台まで行って来ようと思ってるんだ」
彼が言った港南台という言葉を聞いて、私は、さらに不安になった。港南台は、子供の私にとっては遠く、電車の駅がある大きな街で、必ず母と一緒に行くものだったからである。
「今から出発するけど、おまえも来るか? 次に捕まえた亀は、おまえにやるぞ」
と彼に誘われて、私は躊躇った(ためらった)だろうか。
――あの大きな亀はだめでも、次に捕まえる亀は、ぼくのものだ。
私はもう、自分も大きな亀が欲しくて堪らなかったはずである。山の中や遠い港南台まで行くことの不安を忘れた。
「うん。ぼくも行く。もっと大きな亀が見つかるかな?」
「鼬川には、なかなかいないだろうから、山の方まで行ってみよう」
「今すぐ?」
「ああ」
「わかった。ちょっと待ってて」
と家に戻ろうとする私に、
「お母さんに言うのか?」
と彼が尋ねた。
「うん。お母さんに、出かけることを言ってくる。そんなに遠くまで、子供だけで行ったことないから」
「そうか……」
彼は少し面倒臭そうな顔をして、
「仕方ないな。じゃあ、港南台まで行くことを、ちゃんとお母さんに言ってこいよ」
と言った。
まだ朝の七時か八時だったと思う。
私は母に、兄の友達の戸田くんと鼬川から山の方まで亀を捕まえに行って来る、と言った。
母は、なぜ戸田くんと二人でなのか、なんで兄は一緒に行かないのか、などと尋ねたかも知れない。私は、とにかく大きな亀を捕まえに行きたいことを言い張ったと思う。あまり遠くまで行かないこと、昼過ぎくらいまでには帰って来ること、そのようなことを、母は私に注意しただろう。でも私はまだ、そんなに時間の感覚を正確に持ってはいなかっただろうし、遠いところだと分かっていたのに、港南台まで行くことは言わなかった。
今にして思えば、それが、母には内緒の、私が幼児から少年に成るための通過儀礼的な、初めての冒険だったのだ。
その日は、夏休み真っ最中の、ある一日だった。
むろん、私は、まだ幼稚園生だったから、夏休みという感覚などなく、毎日が日曜日のような気分の中にいただろう。一日は長く、夏は永遠に続くかのように思って、ただ太陽の下で、無限の楽しさと戯れていただけである。
夏の朝の、さわやかな気配がまだ残る頃、戸田少年と私は、まず鼬川へ向かうことになった。
戸田少年の自転車は、主婦が買い物へ行く時に乗るような型で、前に籠が付いていた。なんと彼は、その籠の中に大きな亀を、そのまま突っ込んだ。そうして、首を前へ伸ばした亀が道先案内人であるかのようなかたちで、亀を先頭に、私は自転車の後ろの荷台に乗せられて、彼の漕ぐ自転車は走り始めた。
鼬川に沿った歩道を、彼の自転車は、しばらく走った。自転車を止めて、橋の上から川面や川岸を見たが、泥亀の大きなのはいなかった。彼と私は、川幅が広くなっているところで自転車を降り、川原を歩き回って大きな亀を探したが見つからないので、膝下くらいの深さの川の中へ入って行った。日向は、もう夏の噎せ返る(むせかえる)ような熱気に満ちていた。川岸は、草むらの匂いと湿気で余計に蒸し暑さを感じるが、川の中は水が、ひんやりと冷たくて気持ちがいい。浅いところで、石の狭間を流れる澄明な川水が、夏の陽光を、きらきらと白く弾いて、光の乱反射が目に眩しい。川の中から見上げる風景は、橋や道路が上に見えて空も広く、いつもと、まったく違って見えた。
彼と私は、岩の間や泥の中を探したが、大きな亀は見つからなかった。
「山の方へ行こう」
と彼は言った。
――やはり山へ行くのか。
幼い私の心には、期待と不安が入り混じっていた。
予想していたとおり、山に入ると私が見覚えのある景色は、まったくなかった。山といっても、そこは『瀬神の市民の森』と呼ばれ、遊歩道が整備されていて、家族連れが散歩していたり、少年たちが渓流や森の奥の『瀬神の沼』で、よく遊んでいる自然公園のようなところだ。危険は、まあ、ほとんどないと言える。
その山の中でも、大きな亀は見つからなかった。戸田少年は、すぐに諦めたような顔を見せた気がする。カニやザリガニを獲るのは、私たちの、その日の目的ではなかったから見向きもしなかった。そうかといって他にすることもなく、仕方ないので、彼の亀を自転車の籠から降ろしてきて、しばらく川で泳がせて遊んでいた。他の子供たちから、「でっかい亀だなあ」、と羨ましがられたのは嬉しかった。「こんなに大きいのは初めて見た」と、ある子供が言っていたのは、私も頷いた。
「亀を探すのは、また今度にして、港南台の駅へ行こう」
不意に彼が言った。
私は落胆しただろうか、ただ啞然としただろうか。そのどちらでもあったような気がするが、もうこの辺りで幼い私は、かなり疲れていたのだろう、このあと記憶が少しずつ断片的になっていくようである。
森の間の小川に沿った山道を抜けてから、山手学院という私立中学校がある辺りを通って、戸田少年の漕ぐ自転車は港南台の駅へ向かっていた。
私は、彼が懸命に漕ぐ自転車の荷台に乗っていて、荷台は座席ではなく、ただの金属の細い格子なので尻が痛かった。
真夏の正午頃の太陽に照り付けられて、運動している彼は汗だくで暑かっただろうが、籠の中の亀も、荷台の私も天日干しで暑かった。亀の甲羅が、からからに干乾びていたのを、よく覚えている。
前方よりも後ろを振り返ってばかりの私を乗せた自転車は、ぐいぐいと先へ先へ進んで行った。
――何のために港南台へ行くんだろう。
私は、自分の大きな亀を手に入れるという当初の目的を失って、子供ながらに疑問を持ち、彼への不満も募らせたかも知れない。そんなに我慢はしなかったはずである。
「やっぱり港南台へ行くの、やめようよ」
と私は、彼の背中に向かって切りだして、
「お母さんから遠くへ行くな、と言われているし」
と、その訳を説明した。
「おまえは、お母さんがいて、いいな。おれは、お母さんの顔を、はっきり覚えてない」
自転車を漕ぐ彼の背中が言った。
私は、なぜ彼が突然そんなことを言うのか、ほとんど理解できていなかったと思う。なに不自由のない家庭に、ぬくぬくと育った私が、その頃に、母親の顔さえ知らないという彼の心の実感に、どれほど共鳴できていただろうか。
幼い私の、子供ながらの憂鬱にも関わらず、自転車は、真夏の直射日光により溶けるほどに熱せられ、地面に濃い影を落して走り続け、港南台の駅へと近づいて行った。
やがて、駅近くの見覚えのある風景を、私は認めた。自転車で行く港南台までの道には、見覚えのあるところなんてなかった。母の運転する自動車に乗り、幹線道路を通って、よく行く港南台ではあったが、自転車で行ってみて初めて、こんなに家から遠かったのか、と私は驚いていた。しかし、私も十歳くらいに成ってからは、今度は私が友達を引き連れて、自転車で港南台まで、よく行くようになった。
今になって思えば、両親や兄ではなく、戸田少年こそ、私が行動範囲を大きく広げる切っ掛けをくれた人なのかも知れない。
港南台の駅に到着してみて、実は今日、戸田少年は初めから、もっと大きな亀を捕まえるなんてことは、どうでもよく、ただ遠くまで遊びに行きたかっただけなのではないか、と私は思うようになった。
――一緒に港南台まで行く仲間が欲しかっただけなんだ。
その証拠に、彼は、川や山で亀を探しているときよりも、港南台の街で遊んでいるときの方が楽しそうだった。二人で一緒にペットショップへ入ったとき、彼のと同じように大きなクサガメが、千円だか二千円だかで売られていた。本当は彼は、大きな泥亀を鼬川で捕まえたのではなく、どこかで買い求めたのではないのか、という疑いさえ私は抱き始めた。
私は少し騙されたような気がした。そして、その時までには私も、もう亀なんて、どうでもよくなっていた。彼にいたっては、そもそも亀なんて、どうでもいい、といった感じで、亀を自転車の籠に入れっぱなしで、駐輪場に放置したまま商店に入ったりしていた。
亀は、ときどき首や手足を伸ばして籠から出ようと懸命に、もがいていたが、無駄であった。亀は、だいたいが、ただ甲羅の中で、じっとしていた。私は、なんだか、亀の気持ちが分かるような思いがしていた。
戸田少年は、港南台の大型商店で、私にジュースや菓子パンを買ってくれた。そして、亀にパン屑などを与えていたが、亀は食べてはいなかったように思う。まだ私は、お金の感覚なんて無かったが、彼も子供だから、そんなにお金を持っていたはずがない。たしか彼自身も、「もうお金がないや」、と言っていた。しかし、ふいに彼は目を光らせて、商店の中へ入って行った。
そうして、彼は、何回か万引きをして見せて、私を驚かせた。チョコレートやチューイングガムのような菓子を盗んでいた。もちろん、幼い私は店の外で、ただ待っていて、彼からその菓子をもらって食べたことだけを覚えている。彼は常習犯のようだった。
しかし、私も十歳を過ぎた頃、遊び半分で友達と一緒に港南台で万引きをして、店の警備員に捕まったりした。
今にして思えば、彼は本当に、私の新たな心の目を開き、良い面も悪い面も含めて、少年の世界に臨む窓を私のために、いくつも開け放って行ったのだ。
それから後の帰り道の記憶が、ほとんどない。
橋の上を走る自転車の荷台から、家の近くを流れる鼬川の濃緑の川面に、少し傾きかけた夏の陽射しが、まだ白く乱反射しているのが見えた。その眩い照り返しが目に映って、私は何か安心し、どっと疲れも感じたように思う。
あの大きな亀を、戸田少年が、鼬川に放してやったような気がする。亀が、水面に、ぷかりぷかりと甲羅を浮かべながら、懸命に泳いで逃げて行くのを見送ったような気もする。なぜなら、家が近づく頃には、自転車の籠に、あの亀がいなかったし、そのあと亀のことを、まったく考えなかったからだ。
既に亀に飽きていた私は、川に放すくらいなら、ぼくに譲ってくれればいいのに、と思うようなこともなかったはずだ。
私は、やっと家に帰り着いた。
丸一日が経って、次の日であるかのように感じたが、まだ午後だった。
その日の、遠い遠い港南台までの自転車の旅は、幼い私にとって、永遠のように長く思われた。しかし、朝の八時くらいに出発して、家に帰って来たのは午後五時にもならないくらいであっただろうか。夏の陽が西に傾き、いくらか弱まったとはいえ、目には、まだ白く眩い光が残っていたように記憶している。
私の家の前に自転車を置いて、戸田少年と私が二人で、家の庭に入ると、私の母は、二人の姿を認めて家の中から出て来た。
母は私に向かって、少し怒った。
「どこへ行ってたの? お昼ごはんも食べないで」
「…………」
「どこまで行って来たの?」
「……港南台」
と私は答えた。
「港南台?」
と驚いている私の母の顔を見てから、戸田少年は、私を見た。
彼の日焼けして黒い顔の中で白く光っている目が、なぜ行先である港南台を、ちゃんと母親に言って置かなかったんだ、と私を非難していた。私は彼に申し訳ないと思った。
そして、私の母は、彼に対しても、少し怒った。
「港南台まで、この子を連れて行ったの? 心配するでしょう。まだ六歳なのよ」
そのとき、彼の顔に、明らかに懐かしさがあった。
母は怒っていて、彼は叱られているのに、俯いている彼の顔に微笑の浮かんでいるのが、下から見上げている私の目には映った。母親のいない彼の顔に、母というものへの憧れであったか、懐かしいというような表情が微かに表れたのを、私は、たしかに見たのである。
母親の顔さえ、はっきり覚えていないような十歳の少年。
戸田少年の心は、母の面影を探して彷徨って(さまよって)いたのではないか。明るく活発な彼のどこかに、ふと、子供の私が無意識に感じた寂しさ。影のようなものが、いつも彼の表情に見え隠れしていたと思うのは、これは後の私の空想なのであろうか。
そのあと、彼が私の家へ来ることは、二度と無かったように思う。いつの間にか彼は、兄の友達の中から消えていた。なぜだかは分からない。子供の交友関係とは、そういうものだ。
あのとき、夏の遅い午後の陽射しの中で、私は、彼と二人並んで、ほんの少しの間、私の母に叱られていた。
そして、彼は、「またな」とか、さよならも言わずに黙って、自転車を押しながら、誰も彼の帰りを待ってはいない自分の家へ、一人で帰って行った。私は彼の後姿を、どれくらいの時間、見送っただろうか。十秒か、それとも、ほんの一瞬だったのだろうか。
なぜ、あの二人乗り自転車での冒険のあと、戸田少年は、私の家に現われなくなったのか。
私の母に怒られたからなのか。ただ単に、もう兄の友達の中から、彼がいなくなったからだったのか。クラス変えがあった訳でもないのに、喧嘩別れか何かで彼と兄と、どちらからともなく離れて行った、と言うことだったのか。あるいは、父親の仕事の関係か何かで、彼は転校して行ったのだろうか。
これらは、表向きに考えられる理由であって、真実は決定的な家庭の事情。たとえば、父親の失踪とか服役か何かで、戸田少年は孤児院のような所へ行ったからだったのかも知れない。
そのようなことを、母と兄の会話から、私は聞いたようにも記憶しているが、これも大人となった私の空想なのであろうか。今となっては、はっきりしたことは分からない。
あれから後の戸田少年が、幸福な人生を歩んだことを、私は希望する。
とにかく、あの後姿だけを残して、戸田少年は、糸が切れたように、ぷっつりと私の幼い世界から消え去って、二度と再び現われることはなかったのである。
ただ、私の母に叱られているとき、戸田少年の顔に浮かんだあの表情。
懐かしさと憧れ。
忘れえぬ母親の面影。
瞼に浮かぶ微かな母への恋しさが、どんなに募ったのかと、今でも私は思う。