六章
七月もあと少しというところまできた。
毎日図書館に来ては勉強をしていた。
おかげで宿題はもう半分以上も終わっており、気分も上がりつつあった。
いつも使っている場所が、子供たちの読み聞かせ会の会場になっていたため、
今日は大きな窓がある部屋で勉強をしていた。
窓からは図書館の入り口がよく見える。
そのせいで視界の端で動く人影に集中力を奪われていて、
今日はもう帰ろうかなんてぼんやり考えていた。
窓の外を見ていると、サチが入り口の前でうろうろしていた。
その顔には大きなガーゼと、左目に眼帯がしてあった。
俺は驚いてサチのもとまで走った。
「サチっ」
「いっちゃん、久しぶり。あ、シャーペン届けてくれてありがとうね」
その笑顔は痛々しく、サチの右目を見ることができなかった。
「あの、顔」
上手く言葉がでてこなくてなんだか泣きそうになった。
「これ、はね、階段で転んでね。瞼の上を切っちゃって。ほっぺはすりむいただけ。おお、げさ、」
サチの口はパクパクと動くだけで声が出なくなっていた。
その代わりに右目からは大粒の涙があふれていた。
「サチ」
俺は思わず抱き寄せた。
泣いているサチを見て俺は、とても惨めで、可哀そうに感じ、それと同時に愛しく感じた。
恋愛感情ではない、けれど表現できない愛。
サチは俺の胸に顔をうずめてパクパクと何かを訴えていたがよく聞き取れなかった。
サチは小さな子供のように泣いた。人が来ない図書館にはサチの泣き声が反響していた。
なかなか泣きやまなかったが泣き止むと燃料が切れたように力が少しずつ抜けていった。
このまま死んでしまうのでなはいかと不安にもなったが、
少し乱れている呼吸音が聞こえて安心した。
俺は勉強道具を片づけ、サチを背負って図書館を出ようとした。
カウンターにいたおばあさんが救護室を開けようか、と聞いてくれたが、
俺は大丈夫ですとだけ伝えて、自分の自転車の後ろに意識が朦朧としているサチを乗せて
自分の家まで帰った。
家には幸い誰もいなかった。
サチをゆっくりとリビングのソファに下ろし、
冷蔵庫から麦茶とバイト先で貰った和菓子を皿に乗せて出した。
「泣くのって意外と体力使うよな。食っていいぞ、それ。おいしいって店で評判なんだ。」
「ありがとう」
サチはお茶と和菓子を交互に少しずつ食べた。
その間に、汗を吸い過ぎたシャツを着替えにニ階の自室に行った。
着替え終わり一階に降りると、外は大雨だった。
そういえば、台風が来ているとか何とか母が言っていたような気がする。
リビングにサチの姿はなく、まだ少し残っているお茶と和菓子がぽつんと置かれているだけだった。
家の中を探すと、サチは玄関の外で雨に打たれていた。
ばしゃばしゃと雨に打たれている体はとても細く、
白のドレープのワンピースから、可愛らしいピンクの下着と痣が透けていた。
痣はやはり上半身にも下半身にもたくさんあった。
上手く助けを求められない少女は行動に移して俺に助けを求めた。
俺だけがサチの味方だと不確かな感情を持った。
「サチ、風邪ひくぞ。とりあえず着替えよう」
俺はサチを手招きして適当にTシャツとジャージを貸した。
サチは脱衣所で着替えて、髪も乾かさずに再びお茶と和菓子を食べ始めたので、
後ろに回って髪を拭いた。
「聞きたいことはたくさんあるんだ。」
「うん」
「それはサチが話したくなったら話してくれていい。それまで待つよ」
「うん」
「でも、これだけには答えてほしい」
「うん」
俺は深く息を吸って、サチの髪の水滴を見つめて言った。
「ここから、」
「うん」
「ここから逃げようか」
高校生になった今、大人と子供の間で揺れ動くこの時期。
反抗期真っ盛りの少年少女だって、
世間体を気にして妙に大人ぶる少年少女だって、
勉強を頑張っていい大学に入りたい少年少女だって、
結局は人間なのだ。
機械じゃない俺達は様々な感情を複雑に抱く。
その結果が
自殺の少年少女も、
自分を押し殺す少年少女も、
犯罪に手を染める少年少女も、
逃げ出す少年少女も、
自分が納得した上での世間、家族、友人、クラスメート、先生、恋人、様々な敵への逆襲なのだ。
俺達はまだ子供だ。
親に養ってもらわなければ死んでしまう生き物。
自立もできない生き物。
それだからこそ、俺はサチに逃げることを提案した。
俺自身は自分の家族も友人も先生もクラスメートも不満に思ったことはない。
きっとサチもそうだ。
だから、距離を置く必要がある。
だから俺はサチを今この場所から遠ざけたかった。
「逃げよう。捕まってしまっても、私はコウイチと逃げる」
サチは最後の一口を口に入れた。
和菓子特有の白い粉が唇に付いている。俺はそれを指で拭った。
「準備しよう。今から出発だ。今からなら新幹線もまだ間に合う。」
「うん」
俺は二人分の着替えと財布とキャッシュカードと電源の切った携帯を持った。
サチは財布しか持っていなかったため、それのみをジャージのポケットに入れた。
俺達は嵐の迫る中、家を飛び出した。




