ノスタルジックな海の文章ください
舗装された道路の上を、一羽のカモメが歩いて横切っていく。カモメは悠々と道のまんなかに引かれた白線を通りすぎ、目路のかぎり自分のほかは誰もいない街道を横目にしながら、ぺたりぺたり、道路の反対側に広がる緑の茂みへと消えていく。真っ白な胸部の羽毛がひとひら、雪のようにアスファルトの路上に落ちて、風の気配にふるえながらその場に残された。
上空を雲が通ったのか、すこしのあいだ日が翳って、瀝青の色が濃くなった。それからふたたび周囲が明るくなったときに、遠くからチェーンの回転音が近づいてきたかと思うと、快速を飛ばす自転車がその場を通り過ぎ、白い羽毛を巻き上げて走り去った。
風に乗った綿羽はすぐに高みへと吹き上げられ、一帯に広がる海岸風景をたちまち視界におさめる。海岸線をわずかにうねりながら走る道路に沿って、どこまでも続いているのは黄色い菜の花の大群だ。ふいにその一画から白い鳥の集団が舞い上がって水上に輝く群雲へと飛び立ち、真昼の海にカモメたちの鳴き声が響き渡った。
***
少年は海辺の道路を歩いていた。道はそれと知られぬほどわずかな勾配で下っていた。自然と体の動き出す陽気で、海から来る風も涼しく、両肩にさげた荷物の重さも気にならないまま、少年はなにかに引かれるように徒歩を進めていた。旅には快適な季節だった。それでももうずいぶんと長くこの道を歩いていて、少年の視線が変化をもとめて広野をさまようたびに、一面の黄色い絨毯が視界を埋め尽くした。
油菜の花の上で、羽虫たちが円を描き踊っている。少年は、菜の花畑より少しだけ高くなった道の上を、背筋を伸ばして歩いていく。その横顔の向こうで、海が数億の薄い貝殻のように光っている。
軽快な鈴の音とともに自転車が少年に追いつき、急なブレーキをかけて止まった。
びくり、として少年が顔を海の側へと返すと、こちら向きに座った若い女の顔がそこにあった。めずらかな落とし物を見つけたような目で、道端に立つ少年を見ている。
「君、どこ行くの」
ハンドルを握る大柄な若い男が平衡を支えるなか、悠然と荷台の片側に腰かけた娘は、少年の格好をじっと観察した――健気な家出少年といったところだ。
「国境まで行くなら、乗せて行ってあげるけど」
いいよね、と若い女は青年のほうに顔を向ける。右手に力を込めて自転車の躯体を支えながら、青年は無言で頷く。
「いいって。どうする?」
「大丈夫です。歩きますから。ありがとう」
「でも国境までまだあるよー。歩いてたら夜までに着かないって」
「バス停まで歩くつもりなんです。そこからバスに乗って」
「あー、ないない、バスなんて。さっきから車なんて一台も通らないし。そうだよね?」
若い男はそろそろ腕が疲れてきたのを感じながら、黙って頷く。その苦労を知ってか知らずか、娘は少年の方へと身を傾けるようにする。
「まあ、遠慮せず乗ってきなよ」
「あの……でも、狭いでしょうし」
「ここ空いてる。海が見える特等席」
若い女は荷台の反対側を手のひらで叩いてにやっと笑う。
「それとも膝の上がいい?」
それなら荷台に乗ってくれるか、と青年がまじめな顔で提案する。さっきから重くてバランス取りづらかったんだ。
なに、と言って娘が飛び降りる。青年の肩からほっと力が抜けたのもつかのま、痛烈なローキックが左脚に命中し、車体もろとも道路に転倒した。
***
少年のリュックサックを含めて荷物が積みなおされた。今度は私が漕ぐ、と言って屈伸運動をする娘を、青年が思いとどまらせた。お前、スピード出しすぎるだろ。
少年は、自転車の両輪がどう見ても普通程度の表面積しか持っていないことにさきほどから不安を感じていた。タイヤの両脇に吊るされた荷物も、その上に張り出している幅広の金属製荷台も、その上に座る二人の人間も、おそらく積載重量の許容範囲内ではある。しかしサドルにまたがる青年まで含めれば完全にアウトだ。青年の体格と比べると、自転車は気の毒なほど小さく見えた。
「これ、乗ったら壊れるんじゃ」
「あー、大丈夫、大丈夫。色々工夫してるから。モノは考えようってね」
若い女がからからと笑う。ちゃんと乗った?じゃ、しっかり掴まってて。
確実な加速のあと、チェーンが高速で回転を始める。それを受けて、前輪と後輪が弾き出された独楽のように回り続ける。風が顔に当たる。――速い。想像していたよりずっと。道端にぽつんと生えた木がたちまち後方へと飛び去って行く。木陰に置かれた瀟洒な椅子が自転車を見送る。なんとなく、人力以外の力が働いているような気がする。高速艇の曳波のように、道路の白線を次々と後ろへ退けながら、三人を乗せた自転車は海岸をひた走っていく。
進行方向を眺めていた少年はふと、この先の海に白い灯台が浮かんでいるのに気付いた。遠浅になっているのか、島の上にあるのか、あるいは潮の加減でもともとあった半島が海に没しているのかは距離がありすぎてよくわからない。青い波の上で、灯台は輝く陽を反射してきらめいている。
少年が肩越しに振り返ると、ハミングとともに両肩のあいだで揺れる、娘の涼しげな首すじが見えた。
「あの、席、こっち側で良かったですか?」
「なんか言った?」
「海が見える方が良かったんじゃないかと思って」
「海かー。私は海は見飽きてるから、いいの、いいの。お花畑見てる方が楽しい」
「船旅でここまで?」
「まあねー。陸路はほら、いろいろ混乱してるからさ」
おい、向こうに停留所があるぞ、と青年が声を上げた。やっぱり通ってるんじゃないか、バス。
少年は首をひねる角度を変え目を凝らした。なるほど、かろうじて路肩に立つ影が遠くに見える。ただし相当な距離だ。この位置から視認できるということは、どうやら並外れた視力の持ち主であるらしい。
「停留所があるからって、バスがあるとは限らな……」
「でも人が待ってる」
「ほんとだ。しかも可憐な少女だ」
目を細めた娘が変に偏った強調形で同意する。それから額にあてていた右手を少年の頭に置いて、髪をくしゃくしゃとかき回した。
「君、良かったじゃない。旅の道連れかもしれないよ」
「でも、さすがにもう乗れないと思う」
「そうね……その時は、君が降りることになるかも」
***
朝からずっと待っていたバスの代わりに積載超過ぎみの自転車が到着して困惑した少女は、若い女の誘いを両手を使ったジェスチャーで断ろうとする。そもそも場所がないですし、と言いながら泳がせた目が、荷台の向こう側に座る少年の目と合う。少年は無表情なまま、肩越しにこちらを見ている。
白いポールの頂点に取り付けられた、停留所の丸い標識には、「のりば うみはま」とだけ記されている。油菜が道端まで迫ってきているので、ベンチを置くだけの余裕もない。少女の肩掛け鞄が、標識を支えるコンクリートの土台にしなりと寄せ掛けて置かれている。
ここで朝から待っている、と少女が言うのを聞いた女は地面に足を下ろしたかと思うと、サドルにまたがる男の肩につかまりながら、敏捷な動きでフレームの側面にあるステップに片足、それから両の足をかけ、立ち上がる。どうやら、これがもともとの仕様らしい。娘が青年の肩をぐりぐりと揉みながら前方の視界を確かめているのを、荷台の脇に立った少年があきれ顔で見上げる。少女が地面に置いていた鞄を手に取る。
***
空に傾いた日がわずかに翳りはじめ、海から来る風が少しだけ強くなった。国境までどれくらいで着きそう、と娘が青年の耳元で尋ねる。
「ペースは維持できる。このまま漕いで行けば、夜までには着くだろ、たぶん」
「疲れてない?」
「お前がしゃんと立ってくれればもっと楽だ」
「……あのさ、はっきり言って、ここに立ってると疲れるんだよね」
「あそう」
「こんな無理な体勢で二人乗りするくらいなら、まだ走った方がいいかも」
「それならいい案がある。お前は降りてバスを待つ。こっちは先に行ってお前を待つ」
「だからそれ来ないって」
バスって本当に来ないのかな、と少年が背後に座る少女に尋ねた。肩先がぶつかっては謝るうちに妙に打ち解けていた。
「燃料不足だとは聞いてるけど」
「え、でもこんなに油菜咲いてるよ」
少女が両手を広げてアピールするのを見て、危ない、危ない、と少年は慌てた。
「菜種油で車は動かないと思う」
「えー、動くよ。単純に抽出と変換効率の問題だもん。少なくとも私の街では動いてた」
「ほんとに?代替エネルギーとかじゃなくて?」
「代替エネルギーって、この自転車みたいな?」
「あ、これやっぱりそうなんだ」
「そうだよ。自助と補助を組み合わせた魔法。もしかして、学校で習ってない?」
「うーん。習ってない。理系専門みたいな感じだったから」
「あはは、それ、言い訳になってないよー」
少年は少し顔を赤くして黙ってしまう。海を眺めるあいだも、少女が笑った顔がちらちらと目に映った。
「あ、でもこれ、油ささないと」
体を前に倒して構造を見ていた少女が呟く。
「よっしゃ飛ばせ」
背筋を伸ばした娘が青年に発破をかける。
ギアを切り換えた瞬間にチェーンがすさまじい勢いで空転し、少女は目を見開いた。
***
青年が鎖と歯車の噛み合いを調整し、一通りの点検を済ませたころには、海がうっすらと赤く染まり始めていた。若い女と少女はさきほどから海岸の砂浜に出て、波と戯れている。少年は道路ぎわの斜面に腰かけ、その光景を見るともなく眺めた。
青年が隣に来て腰を下ろした。
「お前、あずきって知ってるか」
「小豆?ええと、はい、知ってると思う」
「小豆はな、海の代わりなんだ」
「は?」
娘が拾い上げた青螺を海に向かって投げる。波がそれを受け取り、運び去る。
「今みたいに、波があるだろ。たくさん小豆を集めてな、それをこうザザーッとするんだ。すると、波のような効果が出せる」
「波のような効果?どうして?」
「音だよ。想像してみろ」
「あ、そうか。そっちのことか」
「そっちのことだが……お前は逆にどっちだと思ったんだ」
海岸では、波打ち際に立つ少女がこちらを向き、両手を振ってなにかを合図している。少女が指さす方向を二人が振り向くと、淡いライトが目に差し込んだ。
なんだ、やっぱり通ってるんじゃないか、と言って青年が立ち上がった。
***
徐行しながら近づいてきた直方体の車両は、腕を広げて道路に立った少年の前で停車した。変速機が切り換えられ、窓ガラスが盛大にきしんだ。エンジンがなおもぶるぶると運動をつづけるなか、どこまでいきんしゃるとね、とサイドミラー越しに老人が尋ねたところへ、国境まで、と砂浜から駆けてきた娘が答える。青年が自転車を抱える。夕闇の迫る海上を飛んでいたカモメがひらひらと降りてきて、車蓋の上に足場を定めた。
黒煙を吹き出しながら発車したバスは、車上の乗客と、いつのまにか増えた車外のカモメたちを小刻みな振動で揺らしながら進んでいく。ヘッドライトが徐々に鮮明になり、その分だけ周囲の闇も濃くなっていく。
車内の中心に立っている鉄のポールに自転車を立てかけてから、青年は娘のとなり、左右二列で縦に並んでいる長椅子のひとつに腰を下ろした。革の座席が力なく沈み込む。後ろに座る少年の足元の床は木製で、靴の裏でごとごとと鳴っている。かなり旧式の型らしい。
頭上ではつり革がときおり痙攣したように揺れている。網棚の上にのせられた荷物が、壁から天井にかけて弓型に貼られた広告を半分隠している。凹面鏡に映ったように湾曲したまま、外国の子供が白い歯を見せて笑っている。
となりに座る少女が、ガラス越しに見える灯台に注意をうながした。
いつのまにか間近に迫っていた白石の灯台はいま、波に洗われるようにして岸に近い海に浮かんでいる。それを辿って行けば波の上を歩いていけるということなのか、浜からは点々と案山子が立っていて、肩にのった海鳥とともに瞑想的な表情を見せている。その先に聳える灯台はいま、夕映の最後の数刻に赤く染められながら、夜の始まりをみずからの灯で告げようと準備している。少年と少女は窓際に顔を並べたまま、灯火の煌めきだす厳かな瞬間を待ち受けて息をひそめた。
***
辺りが宵闇につつまれたころ、バスは終点に着いた。運転手が煙草をふかしながら手を振って、エメラルドのように光るバスをもと来た方向へと走らせていった。空を見上げると星が輝いていた。
菜の花畑はもう絶えて、周囲には砂利と草原が広がっている。波の音と、虫の声に紛れて、どこかに河川の滔々と狂うのが聞こえる。国境は近いらしい。しかし、人の気配は一か所を除けばどこにもない。
「あの家まで行ってみよう」
娘が歩き出した先には小高い丘と、その上に建つ別荘めいた建物がある。古さびながらも瀟洒な邸宅で、海に面した側の広いベランダから煌々と光が漏れ出している。
煙突の周囲を旋回していたカモメが、デッキの欄干まで降りてきて声を上げ、安楽椅子でまどろんでいた主人が目を覚ました。
***
大河を挟んで向こう岸まで、何十もの脚をおろして、長い長い橋が渡されている。その橋の手前に、さほど背の高くない石造りのアーチがあり、今は鉄製の門が閉ざされている。夜のあいだの通行は禁止されているらしい。とはいえアーチの壁面と鉄柵と、どれもあでやかな無数の花輪で飾られているのは、どういう趣向なのかよくわからない。
四人が門の前に佇んでいると、右手に横たわっている例の邸宅の扉がひらいて、国境番の老人が姿を現した。老人はよく手入れされた菜園のあいだを抜けて、こちらに歩いてくる。
それから起こったことは、一行がすでに予期しながら、実際はどう進行するのかあまり正確に想像できずにいた、一種の遠々しい儀礼に似た出来事だった。少女がゆっくりと進みでて、老人の前でぺこりと頭を下げた。それから残された三人は、老人が声を上げて歩み寄ったあとで、少女を深く抱きしめるのを目にしたのである。
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海の見える広々としたデッキ。テーブルは、準備された夕食が配されるのを待ち受けている。遠くから寄せる夜の波と、部屋のスピーカーから流れる音楽が、ここで打ち合っている。はるか彼方の海上で、灯台の明かりがくるり、くるりと回っている。
すらりと滑る木の欄干に軽く身を預けながら、少年はこれからの旅のことを話した。仕事のこと、学問のこと。新しい土地で、それらはもう一度やり直される必要があった。しばらくは、あの二人に厄介になるかもしれない、と少年は言った。もちろん、許してくれるならだけど、と少年は付け加えた。でも、ああした感じの人たちには以前会ったことがある。悪い人じゃないって、知ってるんだ。
少女はそれを静かに聞いていた。ふと労働と勉学の記憶が思いだされた。そしてそれがいま、蜃気楼のように消えてしまったことも。
「あの子がみなさんと一緒にあちらへ行きたいというのなら、それでも構わないと思っているんです。こちらにいては、なにかと心休まりませんから」
部屋のソファに座って二人の背中を眺めつつ、老人は若い女に言う。
「いずれにせよ、あの少年は一緒に連れていくわけでしょう?」
「ま、あんな感じの子供は初めてじゃありませんからね。慣れてますよ」
娘がグラスのワインをなめながら目を細める。
「――居場所を変える理由は色々ある。あの子には、それを選択させてあげたいわけですね?」
「そうかもしれない。あなたたちを見ていると特にそう思う。私もずっと落ち着かなくて、あちこち飛び回っていたから」
「いやこっちは、立派な動機なんて一つもありませんから。モラトリアムの延長なんです」
娘がそう答えたとき、終わった、と一言つぶやいて、青年が娘の背後に立った。それから、半分屈むようにして、老人に頭を下げた。
「油させました」
「ええ、それじゃ、食事にしましょうか」
***
食卓の席で娘が、老人がこれまでにしてきた旅の話を聞きたいと頼んでいる。なにぶん恥ずかしいものだから、とはじめ断っていた国境番も、自分を囲んでいる若者たちの顔を見るうちに、色々な記憶が甦ってくる。老人は旅に出ようと決めた日のことを語り始める。遠い昔、老人がまだ子供だった日のことを。