私と殿下と、
閉ざされた部屋の中。
僕の手首には僕自ら選んだ手錠がはめられ、屈辱的な格好で座り込んでいる僕を、エドナは嬉々として見つめる。
彼女の手には僕が初めて彼女にプレゼントした鞭が握られ、彼女のワインレッドは冷たく輝く。
口角をつり上げ僕を嘲笑う彼女に、僕は言い様のない屈辱感を覚え、彼女を睨みつける。
すると彼女は愉快そうに嗤う。
「とってもお似合いよ、イーノス殿下?」
「エドナ…!」
「あらあら、そんな怖い顔をなさらないで? せっかくの綺麗なお顔が台無しになってしまうわ」
愉しそうにころころと彼女は笑う。
なんて屈辱だろう。
王子であるこの僕が、同い年の令嬢にこんな無様な格好をさらすなど…。
「その瞳…」
彼女はすっと大きな目を細め、僕を冷たく見る。
「なんて反抗的なのかしら。貴方はわたくしの狗なのよ? 狗は主人に忠実でなければならないの。わたくしに反抗的な態度をとるなんて…なんて悪い狗なのかしら」
お仕置きが必要ね。
彼女はニタァと嗤い、鞭で僕を打つ。
「くっ…!」
「良い声…。うっとりしてしまうわ…もっとその声を聞かせて?」
僕に鞭を振り下ろす彼女に、僕は呻き声を上げる。
そんな僕を見つめ、彼女はとても綺麗な笑みを浮かべた――――
「と、いう状況を考えてみたんだけど」
どうかな?
と、にっこりと笑顔で私に尋ねる殿下。
私は現在、王宮の東屋で殿下とお茶の時間を楽しんでいるところだった。
そう、“だった”。
現在進行形だったのは、ほんの数分前まで。
殿下の妄想話を聞かされる前までのことだ。
飲んでいたお茶を殿下に吹きかけなかった自分を褒めたい。
「どうかな、とは、どういうことでしょう?」
うふふ、と乾いた笑みを浮かべて私は殿下に尋ねた。
「どういうこともなにも、僕のこの願いを叶えてくれる気はあるのか、ということだよ」
「まあ、そうでしたか。申し訳ありません。殿下のお話が難しすぎてよくわかりませんでしたの」
「まあ、いいよ。それで? 僕のこの願いを叶え」
「るつもりはありません。ごめんあそばせ」
「そう?」
残念だな、と殿下は少しも残念そうな様子を見せず呟いた。
殿下と婚約してから数か月が経過した。
今ではすっかり殿下のこのドM発言に慣れてきてしまった自分が怖い。
「殿下。再三申し上げておりますけれど、わたくしは殿下の望むようなことをする趣味は持ち合わせておりませんの。そういうことを望むのでしたら他を当たって下さいませ」
「嫌だね。僕は君が気に入ったんだ。君に虐げられることに意味がある」
どんな意味だよ!
と、ツッコミそうになるのを私は必死で堪えた。
「君のその銀糸のような髪も、ワインレッドの瞳も僕は気に入っている。他なんて考えられない」
「殿下…」
一見睦言のようにも取れるこの台詞。
しかし、私はこの台詞の“裏”を知っている。
「褒めてもなにも出ませんわよ?」
「チッ…だめか」
殿下ははしたなく舌打ちをした。
以前、似たような台詞を殿下に言われたことがある。
その時、うっかり動揺してしまった私の口からとんでもない発言が飛び出たのだ。
『―――まあ。わたくしの良さがわかるとは、さすがはわたくしの狗ね。次にわたくしを悦ばすことができたら、ご褒美をあげてもよろしくってよ』
なんて高飛車な台詞だろう。
そしてこの台詞は一体どこから出てくるのだろう。
いや、私の口から出ているのはわかるのだけど。
この台詞を聞いた殿下の瞳はキラリではなく、ギラギラと輝いた。
それ以来、私を悦ばせようとあの手この手を使ってくる。
私はそれを躱すのに精一杯だ。あの時余計な事を言った自分の口を縫い付けたい。
しかし、ご褒美とはなにを指すのか。
きっと殿下が望んでいるご褒美は私のドS行為に違いない。
それこそ、先ほど殿下が語って聞かせた妄想のような。
それだけは確実に回避したい。
そんなことをしたら何かが終わってしまう気がする。
私は次々と仕掛けてくる殿下の罠を避けつつ、お茶とお菓子を楽しんだ。
今の私の頭を悩ませているもの。
それは殿下のドM発言と、無意識に出てくる私のドSな台詞である。
殿下の方はともかく、私のこのドSな台詞はどうしてこうもするすると口から滑り出るのか。
その原因はいったい…。
そんなことを考えながら家を歩いていると、不意に大きな声が耳に入って来た。
「この汚らしい雄豚! わたくしのどこが悪いというの!?」
「お、落ち着いて…きみが悪いとは一言も…」
「お黙りなさい! そうね、そういえば、最近躾をしていなかったものね…丁度良い機会だわ。躾をし直しましょう…」
声のした部屋に近づき、少し開いた扉から覗き見れば、怒る母と情けなく怒られる父の姿を発見した。
私そっくりな容姿をした母と、優しい柔和な顔立ちをした父。
お似合いな二人で、公の場ではデキる夫とその夫を陰から支える美しい妻、の図で通っている両親だが、家に帰るとその図はビリビリと破かれることになる。
「あ…ま、まってくれ…私の話を…」
「言い訳なんて聞きたくないわ! ふふ、早く正直に話してしまった方がよくってよ? わたくし、今、気が立っているので、手加減ができませんの」
そう言って母が取り出したのは鞭。
鞭をおもむろに床に叩きつけ、それを聞いた父がひっと息を飲む。
覚悟はよろしくて?
そう呟いた母は鞭を振るう。
そこまで見て、私はそっと部屋から離れた。
父の悲鳴が聞こえるが、いつものことなので気にしない。
どうせ悲鳴をあげながら悦んでいるのだ。父は被虐嗜好だから。
そして母は加虐嗜好の持ち主である。
好きな人ほど虐めたい。そういう思考の持ち主なのだ。
ゆえに、母がああして父を痛めつけるのは、父への愛情表現なのだ。
鞭を振るっても父に当てることはしない。寸止めで鞭を振るっている。
鞭に当たりそうになった父の反応を見て愉しんでいるのだ。
―――これか! これが原因か!
なんてことだ。
私のあのドS発言の元凶は、母だったのだ。
いつもいつもあんな台詞を聞かされ続けた私は、すっかりその台詞が耳についてしまったのだ。
だからあんなするすると台詞が出てくるのだ。
うん、納得。
いや、納得したところでどうこうなるものじゃないけれど。
しかしこれは習性みたいなものになっているような気がするので、直すのは難しいだろう。
よし、諦めよう。何事もあきらめが大事だと言うし。
しかし、これで殿下を悦ばせるのは私の望むところではない。
どうしたものか…。
うーん、と廊下に立って悩んでいると、穏やかな声が私の名を呼ぶ。
「―――エドウィーナ? どうしたんだい、こんなところに立ったままで」
「お兄さま」
振り返るとそこには、美しい銀糸に優しい翠の瞳のエドウィーナの兄――ダミアン・ディヴ・フィルポットが不思議そうな顔をして立っていた。